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赤い嘘1
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僕は、後悔していた。
何がいけなかったのだろう。
どこから間違えていたのだろう。
ただ、どうしようもない僕にもわかることが一つ。
これがもう取り返しのつかない状況だということは、はっきりしていた。
――沈みかけの太陽が彩る部屋。
――こちらを見下ろす一対の瞳。
――銀色の刃。
そんな光景の向こう側に、今日という、決して戻ることのない日常が透けて見えた気がした。
☨
四月一日。
今日の僕には、ある目的があった。
「さっきの映画おもしろかったね。まさか最後があんなふうになるなんて思ってなかったよー」
彼女が自分のベッドに寝転びながら楽しそうに笑う。
勢いよく倒れ込んだせいで丈の短いスカートが乱れ、健康的な太ももが露わになっていた。
「あー、あれはたしかに意外だったな。映画館のいたるところから驚く声が聞こえてたくらいだし、誰もあの結末は予想できなかったんじゃないか?」
窓から差し込む午後の光に照らされた肌色に、僕は床であぐらをかいたまま目をすがめた。
そんな十代男子の持て余した情欲の視線に感じるものがあったのだろう。
彼女が疑問の眼差しを向けてくる。
「ん? なに?」
「べつに?」
慌てて目線を落とした僕は、ごまかすように彼女が淹れてくれた紅茶をすすった。
デートの最後は、いつも決まって彼女の部屋だった。
彼女の両親は共働きで日中は家に誰もいないことが多い。
だから何かと都合がいいのだ。
彼女が幼子ほどもある大きなクマのぬいぐるみを抱きしめながら言う。
「ハッピーエンド一直線だと思ったのになあ。なんで主人公は恋人を捨てて他の人にいっちゃったんだろ。わたしなら考えられないよ」
「しかもその相手が友達のカレンかと思いきやアルフレッドだもんな。誰だよお前って。つうか、あんな奴それまでに出てきてたか?」
「いたよ。ほら、カレンが痴漢に遭って主人公が助けるシーンで、スクリーンの右端のほうに映ってた」
「普通そんなのわかんねーから! そもそも、そこから主人公とアルフレッドの間に何があったんだよ!」
彼女が、うーん、と少し考えてから言った。
「それは観てる人のご想像におまかせしますってやつじゃない?」
「なんかいい加減だなー」
僕は、もうひとくち紅茶を舐めるように飲む。それから目の前にある、脚の短いテーブルにカップを置いた。
「ところでさ、」彼女が上体を起こして、クマのぬいぐるみを壁にもたれさせる。「今日は……どうしよっか?」
「どうするって、何が?」
「言わなくたって、わかってるくせに。今日もウチの親は遅いんだよ?」
そう言って彼女が上着を一枚脱いだ。
下に着ていたのは薄手のノースリーブで、胸もとが大きく開いている。
「ねえ……しよ?」
と、彼女が膝の上で頬杖をつく。
前傾姿勢で胸の谷間が協調されるのをわかっていて、わざとやっているのだろう。
その証拠に、常日頃から眠たげな瞳はどこか熱っぽく、口もとが挑発的に歪められている。
いつもなら据え膳食わぬは男の恥とばかりに飛びかかっている場面だ。
しかし、今日の僕にはやらなければならないことがある。
僕は己の欲望を胸の奥底にぐっと押し込んで口を開いた。
「実は、大切な話があるんだ」
すると、彼女が期待に輝かせていた目を意外そうに丸くする。
「それって今じゃなきゃダメなの?」
「ああ、とても大切な話なんだ」
しぶしぶといった様子で彼女がベッドの上で姿勢を正した。
「なに?」
僕は、ひとつ深呼吸をしたあとに言った。
「僕と……別れてくれないか」
「…………は?」
何を言われたのかわからないという表情の彼女をまっすぐに見据えて、もう一度同じ言葉を重ねる。
「僕と、別れてくれないか」
「な、んで……?」
「好きな子ができたんだ」
部屋を沈黙が包んだ。
彼女は微動だにしない。まるで石像か、時間が停止しているかのようだった。
やがて。
彼女が強張った笑顔でわざとらしく頷いた。
「あ、あー……あれでしょ? さっき観た映画のセリフ、だよね? もうっ、驚かさないでよ。うっかりわたしと別れたいって言ったのかと思ったじゃん」
この話題は冗談で、なかったことにしたいという彼女の気持ちがひしひしと伝わってくる。
僕はさも事実であるかのように、少し俯いて暗い表情を意図的に演出した。
「映画は関係ない。僕は本気で、キミと別れたいって言ってるんだ」
「あー、うん。わかってるよ? その続きに『好きになったのは、実は男なんだ』って言うつもりなんでしょ?」
僕は首を横に振った。
「好きな子って言ったろ? 相手は、ちゃんと女の子だよ」
「またまたー! いつもの冗談なんだよね? もうその手には引っかからないんだから」
ないない、とおどけたように彼女が何度も口にする。
「違うんだ」できるだけ真剣な口調で続ける。「たしかに僕はこれまで、くだらない冗談ばかりついてきた。だからすぐに信じてもらえないのは仕方ないと思う。けど、今回ばかりは本当なんだ」
「だからっ、そういうのはもういいんだってばっ!」
初めて、彼女の怒鳴り声を聞いた。
「うそなんだよね? 今ならまだ怒らないであげるから正直に言っちゃいなよ、ね?」
そのとおりだった。
《別れたい》も《好きな子ができた》も嘘だ。
今日はエイプリルフール。
世間で公然と嘘が容認されている日だ。
そういった特殊な日だからこそ、普段なら許されないであろう嘘を試してみたくなる。男という生き物は、いつまでも少年の心を忘れないのだ。実際、まだ未成年なのだけれど。
「さっきから正直に話してるだろ。好きな子ができたんだよ。だから、その子と付き合うためにもキミと別れたいんだ」
と、なおも僕は嘘の上塗りをする。
「うそっ! うそうそうそうそうそうそ! うそだよ!」
取り乱すように叫ぶ彼女を僕は黙視していた。
この場面では沈黙こそが現実味をより深くしてくれるような気がしたからだ。
そして、それは効果的であったらしい。
「え……あれ? うそ、なんじゃないの……?」
「………………」
「ねえ、なんで」
いつまでも黙っている僕に、彼女が問いただす口調になってゆく。
「わたしのなにがダメなの! いやなところがあるならちゃんと言ってよ! 直せるようにがんばるから……ねえ、なにか言ってよ!」
「……ごめん」
としか言いようがなかった。
何がいけなかったのだろう。
どこから間違えていたのだろう。
ただ、どうしようもない僕にもわかることが一つ。
これがもう取り返しのつかない状況だということは、はっきりしていた。
――沈みかけの太陽が彩る部屋。
――こちらを見下ろす一対の瞳。
――銀色の刃。
そんな光景の向こう側に、今日という、決して戻ることのない日常が透けて見えた気がした。
☨
四月一日。
今日の僕には、ある目的があった。
「さっきの映画おもしろかったね。まさか最後があんなふうになるなんて思ってなかったよー」
彼女が自分のベッドに寝転びながら楽しそうに笑う。
勢いよく倒れ込んだせいで丈の短いスカートが乱れ、健康的な太ももが露わになっていた。
「あー、あれはたしかに意外だったな。映画館のいたるところから驚く声が聞こえてたくらいだし、誰もあの結末は予想できなかったんじゃないか?」
窓から差し込む午後の光に照らされた肌色に、僕は床であぐらをかいたまま目をすがめた。
そんな十代男子の持て余した情欲の視線に感じるものがあったのだろう。
彼女が疑問の眼差しを向けてくる。
「ん? なに?」
「べつに?」
慌てて目線を落とした僕は、ごまかすように彼女が淹れてくれた紅茶をすすった。
デートの最後は、いつも決まって彼女の部屋だった。
彼女の両親は共働きで日中は家に誰もいないことが多い。
だから何かと都合がいいのだ。
彼女が幼子ほどもある大きなクマのぬいぐるみを抱きしめながら言う。
「ハッピーエンド一直線だと思ったのになあ。なんで主人公は恋人を捨てて他の人にいっちゃったんだろ。わたしなら考えられないよ」
「しかもその相手が友達のカレンかと思いきやアルフレッドだもんな。誰だよお前って。つうか、あんな奴それまでに出てきてたか?」
「いたよ。ほら、カレンが痴漢に遭って主人公が助けるシーンで、スクリーンの右端のほうに映ってた」
「普通そんなのわかんねーから! そもそも、そこから主人公とアルフレッドの間に何があったんだよ!」
彼女が、うーん、と少し考えてから言った。
「それは観てる人のご想像におまかせしますってやつじゃない?」
「なんかいい加減だなー」
僕は、もうひとくち紅茶を舐めるように飲む。それから目の前にある、脚の短いテーブルにカップを置いた。
「ところでさ、」彼女が上体を起こして、クマのぬいぐるみを壁にもたれさせる。「今日は……どうしよっか?」
「どうするって、何が?」
「言わなくたって、わかってるくせに。今日もウチの親は遅いんだよ?」
そう言って彼女が上着を一枚脱いだ。
下に着ていたのは薄手のノースリーブで、胸もとが大きく開いている。
「ねえ……しよ?」
と、彼女が膝の上で頬杖をつく。
前傾姿勢で胸の谷間が協調されるのをわかっていて、わざとやっているのだろう。
その証拠に、常日頃から眠たげな瞳はどこか熱っぽく、口もとが挑発的に歪められている。
いつもなら据え膳食わぬは男の恥とばかりに飛びかかっている場面だ。
しかし、今日の僕にはやらなければならないことがある。
僕は己の欲望を胸の奥底にぐっと押し込んで口を開いた。
「実は、大切な話があるんだ」
すると、彼女が期待に輝かせていた目を意外そうに丸くする。
「それって今じゃなきゃダメなの?」
「ああ、とても大切な話なんだ」
しぶしぶといった様子で彼女がベッドの上で姿勢を正した。
「なに?」
僕は、ひとつ深呼吸をしたあとに言った。
「僕と……別れてくれないか」
「…………は?」
何を言われたのかわからないという表情の彼女をまっすぐに見据えて、もう一度同じ言葉を重ねる。
「僕と、別れてくれないか」
「な、んで……?」
「好きな子ができたんだ」
部屋を沈黙が包んだ。
彼女は微動だにしない。まるで石像か、時間が停止しているかのようだった。
やがて。
彼女が強張った笑顔でわざとらしく頷いた。
「あ、あー……あれでしょ? さっき観た映画のセリフ、だよね? もうっ、驚かさないでよ。うっかりわたしと別れたいって言ったのかと思ったじゃん」
この話題は冗談で、なかったことにしたいという彼女の気持ちがひしひしと伝わってくる。
僕はさも事実であるかのように、少し俯いて暗い表情を意図的に演出した。
「映画は関係ない。僕は本気で、キミと別れたいって言ってるんだ」
「あー、うん。わかってるよ? その続きに『好きになったのは、実は男なんだ』って言うつもりなんでしょ?」
僕は首を横に振った。
「好きな子って言ったろ? 相手は、ちゃんと女の子だよ」
「またまたー! いつもの冗談なんだよね? もうその手には引っかからないんだから」
ないない、とおどけたように彼女が何度も口にする。
「違うんだ」できるだけ真剣な口調で続ける。「たしかに僕はこれまで、くだらない冗談ばかりついてきた。だからすぐに信じてもらえないのは仕方ないと思う。けど、今回ばかりは本当なんだ」
「だからっ、そういうのはもういいんだってばっ!」
初めて、彼女の怒鳴り声を聞いた。
「うそなんだよね? 今ならまだ怒らないであげるから正直に言っちゃいなよ、ね?」
そのとおりだった。
《別れたい》も《好きな子ができた》も嘘だ。
今日はエイプリルフール。
世間で公然と嘘が容認されている日だ。
そういった特殊な日だからこそ、普段なら許されないであろう嘘を試してみたくなる。男という生き物は、いつまでも少年の心を忘れないのだ。実際、まだ未成年なのだけれど。
「さっきから正直に話してるだろ。好きな子ができたんだよ。だから、その子と付き合うためにもキミと別れたいんだ」
と、なおも僕は嘘の上塗りをする。
「うそっ! うそうそうそうそうそうそ! うそだよ!」
取り乱すように叫ぶ彼女を僕は黙視していた。
この場面では沈黙こそが現実味をより深くしてくれるような気がしたからだ。
そして、それは効果的であったらしい。
「え……あれ? うそ、なんじゃないの……?」
「………………」
「ねえ、なんで」
いつまでも黙っている僕に、彼女が問いただす口調になってゆく。
「わたしのなにがダメなの! いやなところがあるならちゃんと言ってよ! 直せるようにがんばるから……ねえ、なにか言ってよ!」
「……ごめん」
としか言いようがなかった。
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