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番外編
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俺の人生は、義務と責任だけで構成されていると思っていた。
病弱な兄に代わり、ヴァレンティン公爵家を背負うこと。感情を表に出さず、常に冷静で、完璧であること。それが、俺に課せられた役割だった。
だから、父からラングハイム家の令嬢との婚約を命じられた時も、ただ「分かりました」と答えた。そこに、感情が入り込む余地などない。これは家のための、義務であり、契約なのだ、と。
そう、自分に強く言い聞かせていた。
レノア・フォン・ラングハイム。
写真で見た彼女は、美しいが、どこか近寄りがたい印象の令嬢だった。
初めて顔を合わせた日。彼女は、俺の冷たい態度にも臆することなく、凛とした佇まいでこう言った。
「アンテル様のおっしゃる通りですわ。この度の縁談は、家のためのもの。私も、その務めを果たす所存です」
完璧な淑女の笑み。その瞳の奥に、強い意志の光を見た気がした。俺が突き放した「契約」という言葉を、彼女はいとも容易く受け入れてみせた。
その瞬間、俺の心に張り巡らせていた氷の壁に、ほんの小さな亀裂が入ったのを、自分だけが知っていた。
彼女と過ごす時間は、奇妙なものだった。
沈黙のティータイム。俺は、会話の糸口すら見つけられない自分に苛立っていた。そんな俺を見て、彼女はどんなにつまらない男だと思っただろうか。
夜会で、他の男が彼女に馴れ馴れしく話しかけた時、腹の底から湧き上がった感情に、俺自身が一番驚いた。所有欲。独占欲。契約相手に対して、抱くはずのない感情だった。
「私のそばから離れるな」
無意識に口から出た言葉と、彼女の腰を強く抱き寄せた自分の腕に、内心で動揺していた。
街の書店で偶然会った日。彼女が、俺と同じ歴史書を好きだと知った時、柄にもなく心が躍った。もっと話したい。彼女のことを、もっと知りたい。そう思ったのに、どう接すればいいか分からず、結局逃げるようにその場を去ってしまった。
不器用な自分に、ほとほと嫌気がさす。
彼女は、俺が焼き菓子を好きなことを覚えていてくれただろうか。彼女が甘いものが好きだと言ったのを、俺はずっと覚えていた。ベリーのタルトを差し出した時、「ありがとう」と微笑んだ彼女の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
俺の氷は、彼女と会うたびに、少しずつ、しかし確実に溶かされていった。彼女の存在が、俺の灰色だった世界に、鮮やかな色を与え始めていた。
◇
だが、恋という感情は、喜びだけを運んでくるわけではなかった。
イザベラ嬢に言い寄られた時、困惑する俺を見るレノアの瞳に、ほんのわずかな痛みの色が浮かんだのを見逃さなかった。その表情に、俺の心は妙にざわついた。
(もしかして、彼女も……?)
そんな期待を抱いたのも束の間、彼女はまた完璧な淑女の仮面を被ってしまう。
乗馬の帰り、雨に降られた小屋の中。冷えて震える彼女の手を、自分の手で包み込んだ。温めてやりたい、ただその一心だった。触れた指先の華奢さに、心臓が大きく音を立てる。近すぎる距離に、何も言えなくなってしまった。
そして、あの丘。俺だけの秘密の場所。誰にも見せたことのなかった心の聖域に、彼女を招き入れたいと思った。
「素敵な場所ですわね」
そう言って笑った彼女の顔を見て、決意した。この人を、大切にしたい。守りたい、と。
だからこそ、ハプニングで彼女が馬から落ちそうになった時、俺は何も考えずに体が動いていた。自分の腕が傷つくことなど、どうでもよかった。彼女を失うかもしれない恐怖が、俺の過去のトラウマを呼び覚ます。
もう二度と、大切なものを失いたくない。
俺の過去の傷を知り、彼女は言った。
「その傷ごと、あなたを受け止めたい」
その言葉が、俺の心を縛り付けていた最後の鎖を、断ち切ってくれた。ああ、俺はこの人を、愛しているのだ、と。
夜会でのイザベラの策略は、許しがたいものだった。だが、同時に感謝もしていた。彼女のおかげで、俺は自分の本当の気持ちを、迷いなく世界に示すことができたのだから。
衆目の前で、彼女に跪き、愛を告げる。
「私が愛しているのは、レノア、あなただけだ」
それは、俺の魂からの叫びだった。
彼女が、涙を浮かべながらも、凛とした声で「私も、あなたを愛しています」と応えてくれた時、俺の世界は完全に救われた。
結婚式の朝。鏡に映る自分は、今まで見たこともないほど、穏やかな顔をしていた。
これから、彼女と共に歩む人生が始まる。偽りのない、永遠の愛を誓うために、俺は祭壇へと向かった。
義務と責任だけだと思っていた俺の人生は、レノアという光によって、愛と喜びに満ちたものへと生まれ変わったのだ。
病弱な兄に代わり、ヴァレンティン公爵家を背負うこと。感情を表に出さず、常に冷静で、完璧であること。それが、俺に課せられた役割だった。
だから、父からラングハイム家の令嬢との婚約を命じられた時も、ただ「分かりました」と答えた。そこに、感情が入り込む余地などない。これは家のための、義務であり、契約なのだ、と。
そう、自分に強く言い聞かせていた。
レノア・フォン・ラングハイム。
写真で見た彼女は、美しいが、どこか近寄りがたい印象の令嬢だった。
初めて顔を合わせた日。彼女は、俺の冷たい態度にも臆することなく、凛とした佇まいでこう言った。
「アンテル様のおっしゃる通りですわ。この度の縁談は、家のためのもの。私も、その務めを果たす所存です」
完璧な淑女の笑み。その瞳の奥に、強い意志の光を見た気がした。俺が突き放した「契約」という言葉を、彼女はいとも容易く受け入れてみせた。
その瞬間、俺の心に張り巡らせていた氷の壁に、ほんの小さな亀裂が入ったのを、自分だけが知っていた。
彼女と過ごす時間は、奇妙なものだった。
沈黙のティータイム。俺は、会話の糸口すら見つけられない自分に苛立っていた。そんな俺を見て、彼女はどんなにつまらない男だと思っただろうか。
夜会で、他の男が彼女に馴れ馴れしく話しかけた時、腹の底から湧き上がった感情に、俺自身が一番驚いた。所有欲。独占欲。契約相手に対して、抱くはずのない感情だった。
「私のそばから離れるな」
無意識に口から出た言葉と、彼女の腰を強く抱き寄せた自分の腕に、内心で動揺していた。
街の書店で偶然会った日。彼女が、俺と同じ歴史書を好きだと知った時、柄にもなく心が躍った。もっと話したい。彼女のことを、もっと知りたい。そう思ったのに、どう接すればいいか分からず、結局逃げるようにその場を去ってしまった。
不器用な自分に、ほとほと嫌気がさす。
彼女は、俺が焼き菓子を好きなことを覚えていてくれただろうか。彼女が甘いものが好きだと言ったのを、俺はずっと覚えていた。ベリーのタルトを差し出した時、「ありがとう」と微笑んだ彼女の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
俺の氷は、彼女と会うたびに、少しずつ、しかし確実に溶かされていった。彼女の存在が、俺の灰色だった世界に、鮮やかな色を与え始めていた。
◇
だが、恋という感情は、喜びだけを運んでくるわけではなかった。
イザベラ嬢に言い寄られた時、困惑する俺を見るレノアの瞳に、ほんのわずかな痛みの色が浮かんだのを見逃さなかった。その表情に、俺の心は妙にざわついた。
(もしかして、彼女も……?)
そんな期待を抱いたのも束の間、彼女はまた完璧な淑女の仮面を被ってしまう。
乗馬の帰り、雨に降られた小屋の中。冷えて震える彼女の手を、自分の手で包み込んだ。温めてやりたい、ただその一心だった。触れた指先の華奢さに、心臓が大きく音を立てる。近すぎる距離に、何も言えなくなってしまった。
そして、あの丘。俺だけの秘密の場所。誰にも見せたことのなかった心の聖域に、彼女を招き入れたいと思った。
「素敵な場所ですわね」
そう言って笑った彼女の顔を見て、決意した。この人を、大切にしたい。守りたい、と。
だからこそ、ハプニングで彼女が馬から落ちそうになった時、俺は何も考えずに体が動いていた。自分の腕が傷つくことなど、どうでもよかった。彼女を失うかもしれない恐怖が、俺の過去のトラウマを呼び覚ます。
もう二度と、大切なものを失いたくない。
俺の過去の傷を知り、彼女は言った。
「その傷ごと、あなたを受け止めたい」
その言葉が、俺の心を縛り付けていた最後の鎖を、断ち切ってくれた。ああ、俺はこの人を、愛しているのだ、と。
夜会でのイザベラの策略は、許しがたいものだった。だが、同時に感謝もしていた。彼女のおかげで、俺は自分の本当の気持ちを、迷いなく世界に示すことができたのだから。
衆目の前で、彼女に跪き、愛を告げる。
「私が愛しているのは、レノア、あなただけだ」
それは、俺の魂からの叫びだった。
彼女が、涙を浮かべながらも、凛とした声で「私も、あなたを愛しています」と応えてくれた時、俺の世界は完全に救われた。
結婚式の朝。鏡に映る自分は、今まで見たこともないほど、穏やかな顔をしていた。
これから、彼女と共に歩む人生が始まる。偽りのない、永遠の愛を誓うために、俺は祭壇へと向かった。
義務と責任だけだと思っていた俺の人生は、レノアという光によって、愛と喜びに満ちたものへと生まれ変わったのだ。
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