婚約破棄されたので、とりあえず王太子のことは忘れます!

パリパリかぷちーの

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パーティー会場を後にしたリーチュが乗り込んだのは、クライネルト公爵家の紋章が金色に輝く豪奢な馬車だった。

「リーチュ様……、その……お気を落とされませんように」

向かいの席に座った侍女のハンナが、心配そうに声をかけてくる。
無理もない。
つい先ほど、自身の主人は満座の中で婚約を破棄されたのだ。
普通なら、泣き崩れてもおかしくない状況だ。

しかし、当のリーチュは。

「ん? ああ、ハンナ。ありがとう。でも、大丈夫よ」

大丈夫、という言葉以上に、その表情は晴れやかだった。
むしろ、どこか上機嫌で、今にも鼻歌を歌い出しそうな雰囲気すらある。

「……?」

ハンナは混乱した。
悲しみのあまり、ついに正気を失ってしまわれたのだろうか。
そんな侍女の心配をよそに、リーチュは馬車の窓から見える夜空を見上げ、ほう、と幸せそうなため息をついた。

(ああ、空気が美味しい! 自由の空気って、こんなに澄んでいるのね!)

王太子妃教育だの、淑女の嗜みだの、そういった重たい枷が、音を立てて砕け散ったのだ。
気分は最高潮。
馬車がクライネルト公爵邸に到着した時には、リーチュの足取りは羽のように軽くなっていた。

「お嬢様、お帰りなさいませ」

出迎えた老執事のゼバスが、リーチュの顔を見てぴしり、と固まった。
その驚きは無理もない。
泣き腫らした顔で帰ってくると思っていた主人の娘が、満面の笑みを浮かべているのだから。

「ただいま、ゼバス。お父様は書斎に?」

「は、はい。旦那様がお待ちでございます。……あの、お嬢様? 何か、良いことでも……?」

「ええ、とても良いことがあったのよ。人生で一番と言ってもいいくらいにね」

にこりと笑ってそう告げると、リーチュは長い廊下を颯爽と歩き始めた。
目指すは、父親であるクライネルト公爵の待つ書斎だ。

重厚なマホガニーの扉を、コンコン、と軽くノックする。

「お父様、リーチュです。ただいま戻りました」

「……入れ」

中から聞こえてきたのは、地を這うような低い声だった。
リーチュはごくりと喉を鳴らし、ゆっくりと扉を開ける。

部屋の中、暖炉の前に置かれた大きな革張りの椅子に、父、アルブレヒト・フォン・クライネルトが威厳たっぷりに腰掛けていた。
彫りの深い顔、鋭い眼光。王国でも指折りの権力者である公爵の姿は、まさしく百獣の王の風格だ。
その父が、無言でリーチュを見つめている。

(……あら? もしかして、お説教コースかしら?)

公爵家の名誉に傷をつけた、と叱責される可能性も、なきにしもあらず。
リーチュは少しだけ身構えた。

しばらくの沈黙。
先にそれを破ったのは、リーチュの方だった。
彼女はドレスの裾を少し持ち上げると、満面の笑みを浮かべてこう言った。

「お父様! 祝杯ですわ!」

その言葉を待っていたかのように、アルブレヒト公爵は椅子から勢いよく立ち上がった。
その厳格な表情が、くしゃり、と一気に崩れる。

「おお、リーチュ! 我が娘よ! よくぞ、よくぞ無事に帰ってきた!」

公爵は、ずんずんと大股で娘に歩み寄ると、その華奢な体を力強く抱きしめた。

「まあ、お父様ったら」

「長かったな……実に、長かった……! お前が王太子殿下の婚約者に選ばれてからというもの、この父は、毎晩枕を濡らす思いであったぞ!」

「わたくしもですわ! 肩にのしかかる重圧で、身長が縮むかと思いましたもの!」

父と娘は、お互いの健闘を称えあうように、ぎゅうっと抱き合ったままぶんぶんと体を揺らした。
傍から見れば、実に奇妙な光景である。

「しかし、本当によかったのか? 王家を敵に回すことには……」

「問題ありませんわ。わたくしは、ただ『捨てられた』だけの哀れな令嬢。事を荒立てるつもりがなければ、王家もそれ以上は追及なさいませんでしょう」

それに、とリーチュは続ける。

「ようやく解放されたのです。これからは、自分の好きなように生きますわ」

「そうか、そうか……!」

娘の晴れやかな顔を見て、アルブレヒトは再び目頭を熱くした。
彼はおもむろに執事を呼ぶためのベルを、けたたましく鳴らす。
慌てて駆けつけたゼバスに、公爵は高らかに命じた。

「ゼバス! 今すぐ祝宴の準備をしろ! 我が家の地下に眠る、とっておきの年代物のワインを全て開けるのだ!」

「かしこまりました。……して、旦那様。本日は、何かのお祝いで?」

「決まっているだろう! 『我が娘リーチュ解放記念日』だ!」

「……はぁ」

ゼバスは、全く表情を変えずに恭しく一礼すると、静かに部屋を退出していった。
彼の背中には「またいつもの親バカが始まった」と書いてあるように見えた。

その夜、クライネルト公爵家の広大な食堂では、たった二人だけの盛大な祝宴が開かれた。

並べられたのは、リーチュの好物ばかり。
ローストビーフ、舌平目のムニエル、海の幸のパイ包み焼き。
普段はカロリーを気にして控えているそれらの料理を、リーチュは次から次へと口に運んだ。

「んー、美味しい! やはり我が家のシェフは最高ですわ!」

「うむ! 存分に食べるといい! お前は少し痩せすぎだ!」

アルブレヒトは、地下のセラーから持ち出してきた最高級のワインを、まるで水のように飲んでいる。
その顔は、娘の婚約破棄を祝っているとは思えないほど、幸せに満ちていた。

「これで明日から、心置きなく土いじりができますわ!」

「うむ! 領地の離宮にある温室も、自由に使って構わん! 好きなだけ薬草を植えるがいい!」

「本当ですの!? やったー!」

はしゃぐリーチュの姿は、これまで王宮で見せていた氷のような令嬢の姿とは似ても似つかない、年頃の少女そのものだった。
王太子妃教育という名の退屈な授業も、興味のない相手との窮屈なお茶会も、もう何もない。

(ああ、なんて素晴らしいのかしら!)

リーチュは、これから始まる新しい日々に胸を膨らませる。
趣味の薬草栽培に没頭し、美味しいハーブティーを開発し、時には泥だらけになって畑を耕す。
そんな、ささやかで、けれど何物にも代えがたい自由な生活。

ワイングラスを高く掲げ、リーチュは高らかに宣言した。

「わたくしの新しい人生に、乾杯!」

「うむ! 我が娘の輝かしい未来に、乾杯!」

カチン、と小気味よい音を立てて、二つのグラスが合わさった。
クライネルト公爵家の長い夜は、まだ始まったばかりだった。
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