婚約破棄よりもこの泥棒猫を更生させたい!

パリパリかぷちーの

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王都から馬車で一時間。

静かな森の中に佇むローゼン公爵家の別邸は、優雅な白亜の洋館だ。

手入れの行き届いた庭園、磨き上げられた窓ガラス、そして一糸乱れぬ動きで整列する使用人たち。

「おかえりなさいませ、お嬢様」

馬車が到着するや否や、執事とメイドたちが九十度の最敬礼で出迎える。

その角度、タイミング、発声。全てが完璧だ。

「え、ええ……? な、なにあれ……軍隊……?」

リリィが窓から顔を覗かせ、引きつった笑みを浮かべる。

「軍隊ではありません。我が家の自慢の使用人たちです」

私は馬車を降りながら、リリィの手を引いた。

「さあ、降りなさい。ここが今日から貴女の学び舎であり、生活の場です」

「か、帰りたぁい……」

「帰る場所などありません。王宮には戻れませんし、実家に戻れば『王子に捨てられた娘』として肩身の狭い思いをするだけです」

私は現実を突きつける。

「生き残る道はただ一つ。ここで完璧な淑女へと生まれ変わり、あっと言わせるような玉の輿に乗ること。……違いますか?」

「うぅ……正論すぎて反論できない……」

リリィがうなだれて馬車を降りる。

その瞬間、メイド長がスッと近づいてきた。

「お嬢様、お客様のお部屋の準備は整っております。また、ご指示のありました『矯正ギプス』および『バランスボール』も手配済みです」

「仕事が早くて助かります、マーサ」

「きょ、矯正ギプス……!?」

リリィが悲鳴を上げる。

「さあ、まずはスケジュールの確認です」

私はサロンのテーブルに、一枚の紙を広げた。

そこには、分刻みのスケジュールが書かれていた。

【リリィ男爵令嬢 更生プログラム(初級編)】

05:00 起床・洗顔・冷水摩擦(皮膚の引き締め)
05:30 ヨガ・ピラティス(体幹トレーニング)
06:30 朝食(テーブルマナー実戦・スープ編)
07:30 歩行訓練(頭上に百科事典乗せ)
09:00 発声練習・言葉遣い矯正
12:00 昼食(テーブルマナー実戦・魚の骨取り編)
13:00 ダンスレッスン(基本ステップ千本ノック)
15:00 ティータイム(紅茶の淹れ方・カップの持ち方)
16:00 教養講座(歴史・紋章学・詩歌)
18:00 夕食(テーブルマナー実戦・フルコース)
20:00 入浴(美肌マッサージ)
21:00 反省会・日記執筆
22:00 就寝(姿勢矯正枕使用)

「……死ぬ」

リリィが紙を見たまま、白目を剥いて固まった。

「死にません。人間、これくらいでは死なないようにできています」

「ご、五時起き!? 私、いつもお昼まで寝てるのに!」

「それが肌荒れの原因です! 朝日を浴びてセロトニンを分泌させなさい!」

「冷水摩擦ってなに!? 修行僧!?」

「血行促進です。さあ、文句を言っている暇はありません。早速、歩行訓練から始めますよ」

私は部屋の隅に積まれていた分厚い百科事典を手に取った。

『王国法典全集・第一巻』。重さ約三キロ。

「これを頭に乗せて、この廊下の端から端まで歩くのです。一度でも落としたら、最初からやり直し」

「む、無理ぃぃぃ!」

「無理ではありません。頭のてっぺんを天井に突き刺すイメージで! 首をすくめない!」

ドンッ!

乗せた瞬間に本が落ちる。

「はいやり直し! 体幹がブレています!」

ドンッ!

「やり直し! 目線が下を向いています!」

ドンッ!

「やり直し! 膝が曲がっています!」

「うわぁぁぁん! エリゼー様のいじわるぅぅ!」

リリィが床にへたり込む。

「いじわるではありません、愛の鞭です。ほら、立つ! 自分の足で立つのです!」

「もうやだぁ……王子ぃ……助けてぇ……」

リリィが涙目で天井を仰ぐ。

しかし、そこに救いの手は現れない。

あるのは、鬼教官(私)の冷徹な眼差しだけだ。

「泣いても本は軽くなりませんよ。さあ、あと五十往復」

「ご、ごじゅう……!?」

◇ ◇ ◇

地獄のような特訓は、夜まで続いた。

夕食のスープを音を立てて啜るたびに扇子でテーブルを叩かれ、魚の骨を綺麗に取れずに身をぐちゃぐちゃにしてはため息をつかれ。

リリィは心身ともにボロボロになっていた。

「……おやすみなさいませ……」

よろよろと与えられた客室に入っていくリリィ。

私はその背中を見送りながら、満足げに頷いた。

「ふふ、初日にしてはまあまあの食らいつきね。これなら一ヶ月で何とかなるかしら」

「お嬢様、甘すぎでは?」

メイド長のマーサが紅茶を淹れながら言う。

「あの娘、まだ目が死んでおりません。逃げ出す算段をしておりますよ」

「あら、分かります?」

私はカップを優雅に傾けた。

「ええ。先ほど、庭師に『ここの塀ってどれくらいの高さ?』と聞いておりましたから」

「ふふふ、可愛いこと」

私はソーサーを置いた。

「逃げる気力があるうちは、まだまだ元気な証拠。……お手並み拝見といきましょうか」



深夜二時。

屋敷は静寂に包まれていた。

リリィは忍び足で自室を抜け出した。

(ごめんねエリゼー様……私には無理! あんな生活、三日で死んじゃう!)

靴を手に持ち、廊下を這うようにして進む。

目指すは裏口だ。

昼間のうちに確認しておいた。

裏口の鍵は古く、ヘアピン一本あれば開けられそうだった。

(王子は頼りないけど、ここよりはマシかも……とりあえず実家に帰って、ほとぼりが冷めるのを待とう……)

リリィは裏口の扉の前にたどり着いた。

震える手でヘアピンを鍵穴に差し込む。

カチャリ。

開いた!

(やった!)

リリィは音を立てないようにドアノブを回し、外の空気を吸い込もうとドアを開け放った。

「――こんばんは、リリィ」

「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!?」

目の前にいたのは、松明を持った衛兵……ではなかった。

月明かりの下、優雅にガーデンチェアに座り、ハーブティーを飲んでいるエリゼーだった。

しかも、なぜかナイトウェア姿ではなく、完璧な夜会巻きにフルメイク。

「エ、エリゼー様!? な、なんでここに!?」

「月が綺麗でしたので、夜風に当たっておりましたの」

私はニッコリと微笑んだ。

「貴女もですか? 奇遇ですわね。それとも……まさかとは思いますが、散歩に出かけるつもりでした?」

「あ、あは……あはは……そ、そうです! 夜の散歩! 健康にいいかなって!」

リリィが引きつった顔で後ずさる。

「感心ですわ!」

私は椅子から立ち上がった。

「五時起きのスケジュールだというのに、深夜に自主練だなんて! そのやる気、素晴らしいです!」

「えっ」

「散歩なら付き合いますわ。ちょうど私も、ナイトウォーキングをしようと思っていたところです」

「い、いや、あ、あの……」

「さあ参りましょう。この森は夜になると野犬や熊が出ますけれど、私がついていれば安心ですわよ」

「く、くま!?」

「ええ。先週も一頭、私が素手で絞め落としたばかりです」

「ひぃっ!?」

私はリリィの腕をガシッと組んだ。

「さあ、コースは屋敷の外周を十周。姿勢を正して、闇夜を切り裂くように歩くのです! ワン、ツー! ワン、ツー!」

「いやぁぁぁ! 寝かせてぇぇぇぇ!」

リリィの絶叫が森に響く。

逃亡失敗。

彼女は知らなかったのだ。

この屋敷が、公爵家の諜報部隊も顔負けのセキュリティと、何よりエリゼーという名の最強の番人によって守られていることを。

「ふふ、逃げ足の速さは褒めてあげますわ。その瞬発力、ダンスのターンに活かせそうです!」

「もう許してぇぇぇぇ!」

夜明けの空が白む頃。

ボロ雑巾のようになったリリィが、再び屋敷の中に引きずり込まれていったのは言うまでもない。

悪役令嬢による「更生」から逃げられる道など、最初から存在しなかったのである。
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