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その夜は、冷たい雨が降っていた。
店の営業を終え、私とカイルが遅い夕食をとっていると、控えめに、しかし切迫したように店の扉を叩く音がした。
こんな時間に誰だろうと、私たちが顔を見合わせる。
カイルが用心深く扉を開けると、そこに立っていたのは、頭からつま先まで、ずぶ濡れになった旅装の男だった。彼はフードを深く被っており、顔はよく見えない。
「……夜分に申し訳ない。森の薬師様はいらっしゃるかな」
男の声は、ひどく疲弊していた。
「私ですが」
私が前に進み出ると、男は安堵したように息をつき、懐から濡れた一通の手紙を取り出した。それは、高価な羊皮紙でできており、蝋で厳重に封がされている。
「これを、お渡しするようにと。宰相閣下より」
「宰相閣下から……?」
予期せぬ名前に、私は眉をひそめた。
手紙を受け取り、封を切る。そこに綴られていたのは、宰相の悲痛な叫びそのものだった。
王都を襲う原因不明の流行り病。
日に日に増えていく死者の数。
そして、王太子とリリアの愚かな政策によって、国そのものが崩壊の危機に瀕していること。
手紙の最後は、こう締めくられていた。
『国を追放した貴女に、このような願いをすることが、どれほど身勝手なことか、承知している。しかし、我々にはもう、貴女のその奇跡の力にすがるしか道はないのだ。どうか、罪なき民を救ってはくれまいか』
読み終えた私の手は、小さく震えていた。
「……私には、関係のないことです」
絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
私を捨てた国。
私を悪役と断罪した人々。
なぜ、今さら私が、彼らを助けなければならないのか。
「どうか、そうおっしゃらずに!」
密使の男が、その場に膝をついた。
「このままでは、王都の民は死に絶えてしまいます! 罪のない子供たちまでもが、高熱にうなされ、苦しみながら死んでいくのです! どうか、どうか我々をお救いください!」
彼の悲痛な声が、私の胸に突き刺さる。
脳裏に、この村の子供たちの屈託のない笑顔が浮かんだ。王都にも、あの子たちと同じように、懸命に生きている人々がいるのだ。彼らに、何の罪があるというのだろう。
「……アール」
隣で黙って話を聞いていたカイルが、私の肩にそっと手を置いた。
「決めるのは、お前だ。どんな決断をしようと、俺はお前の味方だ」
彼の温かい手が、私の迷いを断ち切ってくれた。
私は薬師だ。
目の前に、救える命があるのなら、手を差し伸べるのが私の使命のはずだ。
「……わかりました。お引き受けします」
私は密使に向き直り、きっぱりと告げた。
「ただし、これは国のためではありません。苦しんでいる民のためです」
決意を固めた私の頭は、驚くほど冷静に働き始めた。
私は密使に、病の症状をできる限り詳しく尋ねた。
「症状は、まず高熱が出ます。それから、乾いた激しい咳が止まらなくなるのです。肺が焼けるように痛むと……」
高熱と、乾いた咳。
その言葉に、私の記憶の中にある一つの記述が結びついた。
以前、古い文献で読んだことがある。湿気の多い穀物倉庫などで稀に発生する、特殊な毒性カビによる呼吸器疾患。その症状に、酷似していた。
「……原因は、おそらくカビの一種。もし私の推測が正しければ、特効薬は作れます」
私は書斎へと駆け込み、必要な薬草のリストを書き出した。
「問題は、この『銀霧草』だわ。解毒作用を持つ、非常に珍しい薬草。この辺りの森では、もうほとんど採り尽くしてしまった……」
私が頭を抱えていると、カイルがそのリストを覗き込んだ。
「『銀霧草』か。……それなら、心当たりがある」
彼は静かに言うと、懐から鳥の形をした小さな笛を取り出し、窓辺でそれを短く吹いた。
すると、どこからともなく、闇に溶け込むような黒装束の男たちが、数人、音もなく私たちの前に姿を現した。
「殿下、お呼びでしょうか」
彼らは、カイルの前に跪く。それは、紛れもなく主君に対する臣下の礼だった。
「このリストにある薬草を、至急集めろ。『銀霧草』は、我が国との国境付近にある霧深き谷に自生しているはずだ。夜が明けるまでに、必要な量を揃えろ」
「はっ!」
黒装束たちは、一礼すると、再び闇の中へと消えていった。
「彼らは?」
「俺の護衛だ。心配するな、彼らは優秀だ」
カイルは私に向き直ると、力強く言った。
「お前は、薬作りに専念しろ。完成した薬を王都まで安全かつ迅速に送り届ける手はずも、俺が全て整える」
その言葉は、何よりも心強かった。
夜が明ける頃、カイルの部隊は、約束通り大量の『銀霧草』を携えて戻ってきた。
それから三日三晩、私は不眠不休で薬の調合に没頭した。
そして、ついに。
何百もの小さな瓶に詰められた、琥珀色の液体が完成した。
「……できたわ」
疲労困憊の私を、カイルが力強く支えてくれる。
「よくやった、アール」
カイルは完成した薬を、屈強な護衛たちに手渡した。
「これを、王都の宰相閣下の元へ。何があろうと、必ず届けろ。これは、レオンハルト皇太子としての命令だ」
「御意!」
黒い駿馬にまたがった精鋭部隊が、夜の闇の中を、一つの希望を携えて王都へと疾走していく。
私はその背中が見えなくなるまで、ただ祈るように見送っていた。
店の営業を終え、私とカイルが遅い夕食をとっていると、控えめに、しかし切迫したように店の扉を叩く音がした。
こんな時間に誰だろうと、私たちが顔を見合わせる。
カイルが用心深く扉を開けると、そこに立っていたのは、頭からつま先まで、ずぶ濡れになった旅装の男だった。彼はフードを深く被っており、顔はよく見えない。
「……夜分に申し訳ない。森の薬師様はいらっしゃるかな」
男の声は、ひどく疲弊していた。
「私ですが」
私が前に進み出ると、男は安堵したように息をつき、懐から濡れた一通の手紙を取り出した。それは、高価な羊皮紙でできており、蝋で厳重に封がされている。
「これを、お渡しするようにと。宰相閣下より」
「宰相閣下から……?」
予期せぬ名前に、私は眉をひそめた。
手紙を受け取り、封を切る。そこに綴られていたのは、宰相の悲痛な叫びそのものだった。
王都を襲う原因不明の流行り病。
日に日に増えていく死者の数。
そして、王太子とリリアの愚かな政策によって、国そのものが崩壊の危機に瀕していること。
手紙の最後は、こう締めくられていた。
『国を追放した貴女に、このような願いをすることが、どれほど身勝手なことか、承知している。しかし、我々にはもう、貴女のその奇跡の力にすがるしか道はないのだ。どうか、罪なき民を救ってはくれまいか』
読み終えた私の手は、小さく震えていた。
「……私には、関係のないことです」
絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
私を捨てた国。
私を悪役と断罪した人々。
なぜ、今さら私が、彼らを助けなければならないのか。
「どうか、そうおっしゃらずに!」
密使の男が、その場に膝をついた。
「このままでは、王都の民は死に絶えてしまいます! 罪のない子供たちまでもが、高熱にうなされ、苦しみながら死んでいくのです! どうか、どうか我々をお救いください!」
彼の悲痛な声が、私の胸に突き刺さる。
脳裏に、この村の子供たちの屈託のない笑顔が浮かんだ。王都にも、あの子たちと同じように、懸命に生きている人々がいるのだ。彼らに、何の罪があるというのだろう。
「……アール」
隣で黙って話を聞いていたカイルが、私の肩にそっと手を置いた。
「決めるのは、お前だ。どんな決断をしようと、俺はお前の味方だ」
彼の温かい手が、私の迷いを断ち切ってくれた。
私は薬師だ。
目の前に、救える命があるのなら、手を差し伸べるのが私の使命のはずだ。
「……わかりました。お引き受けします」
私は密使に向き直り、きっぱりと告げた。
「ただし、これは国のためではありません。苦しんでいる民のためです」
決意を固めた私の頭は、驚くほど冷静に働き始めた。
私は密使に、病の症状をできる限り詳しく尋ねた。
「症状は、まず高熱が出ます。それから、乾いた激しい咳が止まらなくなるのです。肺が焼けるように痛むと……」
高熱と、乾いた咳。
その言葉に、私の記憶の中にある一つの記述が結びついた。
以前、古い文献で読んだことがある。湿気の多い穀物倉庫などで稀に発生する、特殊な毒性カビによる呼吸器疾患。その症状に、酷似していた。
「……原因は、おそらくカビの一種。もし私の推測が正しければ、特効薬は作れます」
私は書斎へと駆け込み、必要な薬草のリストを書き出した。
「問題は、この『銀霧草』だわ。解毒作用を持つ、非常に珍しい薬草。この辺りの森では、もうほとんど採り尽くしてしまった……」
私が頭を抱えていると、カイルがそのリストを覗き込んだ。
「『銀霧草』か。……それなら、心当たりがある」
彼は静かに言うと、懐から鳥の形をした小さな笛を取り出し、窓辺でそれを短く吹いた。
すると、どこからともなく、闇に溶け込むような黒装束の男たちが、数人、音もなく私たちの前に姿を現した。
「殿下、お呼びでしょうか」
彼らは、カイルの前に跪く。それは、紛れもなく主君に対する臣下の礼だった。
「このリストにある薬草を、至急集めろ。『銀霧草』は、我が国との国境付近にある霧深き谷に自生しているはずだ。夜が明けるまでに、必要な量を揃えろ」
「はっ!」
黒装束たちは、一礼すると、再び闇の中へと消えていった。
「彼らは?」
「俺の護衛だ。心配するな、彼らは優秀だ」
カイルは私に向き直ると、力強く言った。
「お前は、薬作りに専念しろ。完成した薬を王都まで安全かつ迅速に送り届ける手はずも、俺が全て整える」
その言葉は、何よりも心強かった。
夜が明ける頃、カイルの部隊は、約束通り大量の『銀霧草』を携えて戻ってきた。
それから三日三晩、私は不眠不休で薬の調合に没頭した。
そして、ついに。
何百もの小さな瓶に詰められた、琥珀色の液体が完成した。
「……できたわ」
疲労困憊の私を、カイルが力強く支えてくれる。
「よくやった、アール」
カイルは完成した薬を、屈強な護衛たちに手渡した。
「これを、王都の宰相閣下の元へ。何があろうと、必ず届けろ。これは、レオンハルト皇太子としての命令だ」
「御意!」
黒い駿馬にまたがった精鋭部隊が、夜の闇の中を、一つの希望を携えて王都へと疾走していく。
私はその背中が見えなくなるまで、ただ祈るように見送っていた。
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