婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの

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小鳥のさえずりで目が覚める――なんて優雅な朝は、ルシアンの辞書にはない。

彼女を目覚めさせたのは、地響きのような金属音だった。

ガコン、ガコン、ガコン。

規則的で、重厚で、二度寝を断固として拒否する騒音。

「……なんなの……」

ルシアンは布団(昨日持参したトラベル用の寝袋)から這い出し、ボサボサの髪のまま窓を開けた。

「!」

眼下にある庭。

そこに、昨日の黒ずくめの男――キースがいた。

彼は井戸のポンプと格闘していた。

錆びついて化石のようだったポンプが、彼の手にかかるとまるで新品の玩具のようにスムーズに動いている。

ガコン、ガコン。

ポンプのハンドルが上下するたびに、彼の腕の筋肉が盛り上がるのが、二階からでも見て取れた。

「……本当に来てる」

ルシアンは愕然とした。

「しかも、朝の五時に?」

常識という概念が欠落しているのだろうか。

ルシアンは急いで着替え、階段を駆け下りた。

勢いよく玄関の扉を開ける。

「おはようございます! そしてさようなら!」

ルシアンは先制攻撃を仕掛けた。

キースの手が止まる。

彼はゆっくりと振り返り、朝日を背に受けて眩しそうに目を細めた。

「…………」

「無視しないでください。今すぐ作業を中止して、お帰りください。貴方のおかげで目覚め最悪です」

キースは無表情のまま、ポンプのハンドルを指差した。

「……水」

「はい?」

「出るぞ」

彼はハンドルを大きく押し下げた。

ジャバァアアアッ!

錆色の濁流ではなく、透き通った冷たい地下水が、勢いよく吐き出された。

水しぶきが上がり、朝の光を受けてキラキラと輝く。

「……っ!」

ルシアンは言葉を失った。

水。

ライフラインの要。

昨日、自分で試したときはピクリとも動かなかったあの頑固なポンプが、こうもあっさりと。

「……飲める」

キースが懐からコップを取り出し(なぜ持っている?)、水を汲んでルシアンに差し出した。

「毒見済みだ」

「毒見って、貴方……」

ルシアンは恐る恐るコップを受け取り、一口飲んだ。

冷たい。

そして甘い。

井戸水特有の雑味もなく、喉を潤す最高の水だった。

(……悔しい)

ルシアンは唇を噛んだ。

(悔しいけど、美味しい。そして便利すぎる)

水汲みのために川まで往復する労働(片道二十分)を覚悟していただけに、この恩恵は計り知れない。

「……ありがとうございます。これでお茶が飲めます」

ルシアンは素直に礼を言った。

「では、作業完了ですね。お疲れ様でした。出口はあちらです」

彼女は再び森の入り口を指差した。

しかし、キースは動かない。

彼はコップを受け取ると、今度は視線を屋敷の屋根に向けた。

「……瓦」

「は?」

「半分ない」

「知っています。採光性が良くて気に入っています」

「雨が降る」

「傘をさして寝ます」

「……風邪を引く」

会話のキャッチボールが成立していない。

キースはドッジボールのように正論を投げつけてくる。

「心配無用です。私は頑丈さが取り柄ですから」

「……俺が困る」

「なぜ貴方が困るのですか!?」

「…………」

キースは黙り込んだ。

理由を言うつもりはないらしい。

彼はスタスタと屋敷の壁際に歩み寄ると、立て掛けてあった梯子(どこから持ってきた?)に手をかけた。

「待って! 何をする気ですか!」

「……修繕」

「頼んでいません!」

「……サービスだ」

「何の!? どの業者のサービスですか!?」

キースは聞く耳を持たず、軽々と梯子を登っていく。

その背中は「俺に言葉は不要だ、背中で語る」と言わんばかりの頑固さに満ちている。

ルシアンは地団駄を踏んだ。

「もう! 勝手にしなさい! 怪我しても知りませんからね!」

捨て台詞を吐いて、屋敷の中に戻る。

だが、ルシアンは気づいてしまった。

(……朝ごはん、どうしよう)

昨日キースが置いていったパンは、夜のうちに食べてしまった。

手持ちの食料は干し肉とビスケットくらいしかない。

優雅な別荘ライフ初日の朝食が、乾パンと水というのはあまりにも悲しい。

キッチンに立ち、お湯を沸かそうとしたその時。

コン、コン。

窓ガラス(昨日キースが直した部分)が叩かれた。

見ると、キースが窓枠に腰掛けている。

梯子を使えば二階だけでなく、一階の窓にも容易にアクセスできるらしい。

「……な、なんですか!」

ルシアンが警戒すると、キースは無言でバスケットを差し出した。

「……?」

受け取って中を見る。

そこには、新鮮な卵、スモークハム、そして採れたての野菜、極めつけに瓶に入ったミルクが入っていた。

「……これ」

「……朝飯」

「どこで調達を?」

「……森」

「森にハムが生えているわけありません!」

「……俺の家から持ってきた」

「だから、隣人というのは本当なのですか……」

ルシアンは脱力した。

この男、準備が良すぎる。

まるでルシアンが何に困るか、すべて先読みしているかのようだ。

「……お代は?」

「……いらん」

「タダより高いものはありません。労働で返しますか? 草むしりくらいなら手伝いますけど」

キースは首を横に振った。

そして、ルシアンの顔をじっと見つめ、ポツリと言った。

「……笑え」

「はい?」

「……昨日の夜会。あんな作り笑いじゃなく、本気で」

「見ていたのですか!? あの婚約破棄の現場を!?」

ルシアンは顔を赤くした。

あの一世一代の『歓喜のドヤ顔』を見られていたとは。

「……見事だった」

キースは親指を立てた。

サムズアップ。

無表情だが、その瞳は称賛の色を帯びている。

「あんなに清々しい婚約破棄顔は、初めて見た。……感動した」

「褒め言葉として受け取っていいのか悩みますわね……」

「……だから、礼だ。これ(食料)も、これ(修繕)も。……お前の『自由』への敬意だ」

キースはそう言うと、再び梯子を登っていった。

屋根の上から、カンカンと瓦を直す音が聞こえ始める。

ルシアンはバスケットを抱えたまま、呆然と立ち尽くした。

(……変な人)

悪役令嬢と呼ばれ、遠巻きにされるか、あるいは利用しようと近づいてくる人間ばかりだった。

こんな風に、ただ『そこにいること』を肯定し、あまつさえ『自由』を祝福してくれる人間など、今までいただろうか。

(……まあ、いいわ)

ルシアンはバスケットから卵を取り出した。

(利用できるものは利用する。それが悪役令嬢の嗜みよ。屋根が直って、ご飯が食べられるなら、文句はないわ)

それに、と彼女は思う。

あのカンカンという音。

不思議と、うるさくはなかった。

むしろ、独りぼっちの広い屋敷に、もう一つ鼓動があるような――そんな安心感すら覚えてしまう自分が、少しだけ悔しかった。

「……卵焼き、作ってあげてもいいかしら。余ればの話だけど」

ルシアンは小さく呟き、キッチンに向かった。

屋根の上では、キースが作業の手を止め、耳を澄ませていた。

地獄耳の彼は、その呟きを聞き逃さなかった。

無表情のまま、空に向かってガッツポーズをする。

(……勝った)

何に勝ったのかは不明だが、彼の中では大きな勝利だったらしい。

こうして、奇妙な同居生活(?)二日目は、焼きたての卵とハムの香りに包まれて始まったのだった。
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