婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの

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地下要塞――もとい、ルシアンの『執筆ルーム』が完成して数日。

彼女の生活は劇的に改善されていた。

朝、目覚めるとそこは完全防音の地下寝室。鳥の声も風の音もしない。

キースが運んでくる朝食を食べ、優雅にコーヒーを飲み、そのまま隣の『執筆室』へ移動してペンを走らせる。

疲れたら天然温泉で汗を流し、サウナで整う。

「……天国ね」

ルシアンは羽ペンを置き、ふぅと息をついた。

地上の『聖女騒動』がどうなっているかは知らない。

たまにキースが「……供物が増えた」「……賽銭箱が設置された」と報告してくるが、地下にいれば対岸の火事だ。

「この静寂さえあれば、私は一生ここで暮らせるわ」

ルシアンが満足げに伸びをした、その時だった。

ビーッ! ビーッ! ビーッ!

突如、部屋の壁にある赤いランプが点滅し、警告音が鳴り響いた。

「な、なに!?」

ルシアンが飛び上がると、壁のスピーカーからキースの緊迫した声が聞こえてきた。

『……ルシアン、緊急事態だ。……第一防衛ラインが突破された』

「敵襲!? お父様の私兵団ですか!?」

『……違う。……もっと厄介な奴だ』

キースの声に、珍しく焦りが混じっている。

『……ピンク色の、音波兵器だ』

「あ」

ルシアンは全てを悟った。

その瞬間、重厚な鉄の扉の向こうから、微かに、しかし確実に、あの声が聞こえてきたのだ。

「おぉぉぉぉねぇぇぇぇさぁぁぁぁまぁぁぁぁ~~~!!!」

「ヒッ!?」

地下深くなのに。

何重もの防音壁があるのに。

ミナの声は、物理法則を無視して鼓膜に届いた。

「開けてくださいましぃぃぃ! アラン様への『愛の賛歌(自作・全18番)』が完成しましたのぉぉぉ! ぜひ一番最初に聴いていただきたくてぇぇぇ!!」

「嫌です! 死んでも嫌です!」

ルシアンは扉に向かって叫んだ。

『……奴め、換気ダクトから声を送り込んでやがる』

キースが舌打ちする。

『……ルシアン、ここも危険だ。……最終シェルターへ退避しろ』

「最終シェルター?」

『……例の、「完全無音室」だ。……あそこなら、換気口も特殊フィルター付きだ。……奴の声も届かない』

「わ、わかりました!」

ルシアンは原稿を抱えて部屋を飛び出した。

廊下に出ると、換気口からミナの歌声(ジャイアン級)が響き渡っている。

『ア~ラ~ン~様~♪ 貴方の瞳は~ ブラックホール~♪(不協和音)』

「ぐっ……! 頭が……!」

ルシアンは耳を塞いで走った。

廊下の向こうからキースも走ってくる。

「……こっちだ!」

彼はルシアンの手を引くと、一番奥にある白い扉を開け、二人で転がり込んだ。

バタンッ!

カチャリ。

重いロックがかかる音がして、密閉される。

その瞬間。

シーン……。

世界から、音が消滅した。

ミナの殺人級の歌声も、警告音も、自分たちの足音さえも。

全てが吸音材に吸い込まれ、完全なる『無』になった。

「…………」

「…………」

ルシアンは肩で息をしていたが、その呼吸音さえ聞こえにくい。

ここは、本来『執筆用』に作られた部屋だが、今は『避難所』として機能している。

広さは四畳半ほど。

その狭い空間に、ルシアンとキース、二人きり。

「……助かった……」

ルシアンは口パクで言ったつもりだったが、この静寂の中では、囁き声でもクリアに聞こえた。

「……ああ。……危ないところだった」

キースが壁に背を預け、額の汗を拭う。

「……奴の『愛の力』は、俺の結界をも凌駕するらしい。……まさか、換気扇の排気口から逆流してくるとは」

「ゴキブリ並みの生命力ですね……」

ルシアンは床に座り込んだ。

まだ心臓がバクバクしている。

だが、不思議と恐怖は去っていた。

この部屋の静けさが、荒ぶる神経を急速に鎮静化させてくれる。

「……静かですね」

「……完全無音室だからな」

キースもルシアンの隣に腰を下ろした。

距離が近い。

肩が触れ合う距離だ。

普段なら「近い」と文句を言うところだが、今はその体温が心地よかった。

「……外では、まだ歌っているのかしら」

「……おそらく。……十八番まで歌うと言っていたから、あと二時間は続くだろう」

「二時間、ここに缶詰めですか……」

ルシアンは苦笑した。

密室。

無音。

そして、頼れる(ストーカー気質の)騎士様。

状況だけ見れば、恋愛小説のワンシーンのようだ。

「……キースさん」

「……ん」

「貴方、心臓の音がうるさいですよ」

ルシアンが指摘すると、キースはビクリとして胸を押さえた。

「……聞こえるか」

「ええ。ここ、静かすぎますから。……ドクンドクンって、早鐘のように」

「……お前もだ」

キースがルシアンを見つめる。

「……お前の心音も、聞こえる」

「ッ……」

ルシアンは顔を赤くした。

自分の緊張が、音として筒抜けになっているなんて。

恥ずかしい。

でも、嫌じゃない。

音のない世界で、お互いの『命の音』だけが響き合う。

それは言葉よりも雄弁で、どんな愛の言葉よりも親密なコミュニケーションのように思えた。

「……不思議ね」

ルシアンは膝を抱えた。

「私は一人が好きなはずなのに。……貴方の音が聞こえると、ホッとするわ」

「…………」

キースは何も言わなかった。

ただ、そっとルシアンの手の上に、自分の手を重ねた。

大きく、温かい手。

「……俺もだ」

彼は静かに言った。

「……戦場は、いつも騒がしかった。……悲鳴、爆発音、命令の声。……静寂なんて、死ぬ時以外にはないと思っていた」

彼の手が、ルシアンの指を優しく絡め取る。

「……だが、お前との静寂は、生きている心地がする」

「…………」

ルシアンの胸が高鳴る。

心拍数が上がり、その音がまた部屋に響く。

「……うるさくなりましたね、私」

「……いい音だ」

キースはルシアンの方へ体を向けた。

その瞳が、熱を帯びて至近距離で見つめてくる。

「……キスしても、いいか」

「!!」

直球すぎる確認。

ルシアンは真っ赤になって俯いた。

「……ここは、神聖な執筆室ですよ?」

「……今は、シェルターだ」

「……ミナの声が聞こえるかもしれない場所ですよ?」

「……聞こえない。……俺たちしかいない」

逃げ場はない。

それに、逃げたくもなかった。

ルシアンはゆっくりと顔を上げ、小さく頷いた。

「……一回だけですよ。……心臓がうるさくて、恥ずかしいから」

キースがふわりと微笑んだ。

そして、ゆっくりと顔を近づけ――。

ドンッ!!

突然、部屋全体が大きく揺れた。

「!?」

二人の唇が触れる寸前で、お互いの額がゴチンとぶつかる。

「いっ……!」

「……なんだ!?」

警報ランプが激しく点滅し、スピーカーからノイズ混じりの音声が流れた。

『……警告! 警告! 地下空調システムに異常発生! 外部からの過剰な音圧エネルギーにより、フィルターが破損! 爆発の恐れあり!』

「音圧でフィルター破壊!?」

ルシアンは絶句した。

ミナの歌声は、物理攻撃力を持っていたのか。

「……チッ、いいところだったのに」

キースが本気で悔しそうな顔をして立ち上がった。

「……ルシアン、ここにいろ。……俺が止めてくる」

「止めるって、どうやって?」

「……口を塞いでくる。……物理的に」

キースは般若のような形相で、扉のロックを解除した。

プシュウゥゥ……。

扉が開いた瞬間、轟音が流れ込んでくる。

『ア~ラ~ン~さ~まぁぁぁぁぁ!!(クライマックス)』

「うるせぇ!!」

キースが叫びながら飛び出していった。

残されたルシアンは、額をさすりながら、深いため息をついた。

「……本当に、ムードのない人たち」

でも。

ルシアンは自分の唇にそっと触れた。

あと数センチだった。

その距離感が、悔しいような、でも少し安堵したような。

「……次は、もっと静かな時にね」

誰にともなく呟き、彼女は小さく笑った。

この地下室も、どうやら完全な安住の地ではないらしい。

だが、彼となら、どんな騒音の中でも『二人だけの静寂』を作れるかもしれない。

そんな予感を抱きながら、ルシアンは爆音のする廊下へと、彼を追いかけて走り出した。

二人の奇妙な同棲生活――もとい、騒音との戦いの日々は、まだまだ続くようである。
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