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「十五分間の休憩、終了です。閣下、お約束通り私の心拍数は正常値に戻り、脳の演算能力も百二十パーセントまで回復しました。さあ、執務室へ戻りましょう。移動中に、屋敷内の『水回り』に関する改善案を三つお話ししますわ」
私はベンチから立ち上がり、埃を払う動作すらも最短距離で行った。
アルリック閣下は、まだ名残惜しそうに木漏れ日を眺めていたが、私の言葉に諦めたように苦笑して立ち上がった。
「……ラジーナ、貴様というやつは。もう少し余韻というものを楽しめないのか」
「余韻とは、過去の事象に対する未練の蓄積です。私は常に、未来の効率という名の果実を追い求めていたいのですわ」
私たちは屋敷へと戻る廊下を歩いていた。
その途中、中庭に面した洗濯場から、メイドたちの荒い息遣いと、重たいものを引きずる音が聞こえてきた。
「……待ちなさい。今の音、周波数が低すぎます。不自然な重量負荷がかかっている証拠ですわ」
私は予定を〇・五秒で変更し、洗濯場へと足を踏み入れた。
そこでは、数人のメイドたちが、水を含んで重くなったシーツを抱え、何度も何度も洗い場と物干し台の間を往復していた。
「ひ、ひぃ……。重い、腰が……」
「これ、今日中に終わるかしら……」
私は腰に手を当て、彼女たちの動きを三秒間凝視した。
「……絶望的ですわ。これでは、重力という物理法則に対する冒涜です」
「ラジーナ様!? ひっ、申し訳ありません、お見苦しいところを……!」
メイドたちが慌てて姿勢を正すが、私は彼女たちの謝罪を扇の一振りで遮った。
「謝罪の言葉に費やすカロリーがもったいないわ。そこの貴女、シーツを運ぶ際、なぜ背中を丸めているのですか? 重心が前方に偏ることで、脊椎への負担が二十パーセント増大しています。もっと腰を落とし、大腿四頭筋の筋力を活用しなさい」
「だ、だいたい……なんですか?」
「筋肉の名前ですわ。それから、この動線! 洗い場から物干し台まで、なぜジグザグに歩いているのですか? そこの植木鉢が邪魔なのね。セバスさん! この鉢を今すぐ三十センチ右へ! 最短直線を確保しますわよ!」
私が現場を仕切り始めると、アルリック閣下も興味深そうに後ろから覗き込んできた。
「今度は洗濯か。ラジーナ、貴様は一体いくつの分野を最適化すれば気が済むのだ」
「閣下、家事とは『生活という名の兵站』です。ここが滞れば、閣下のシャツの清潔度が下がり、それが不快感となって執務の効率を〇・二パーセント低下させます。看過できませんわ」
私は近くにあった空の桶と、予備のロープを手に取った。
「いいですか、皆さん。これからは『バケツリレー方式』を廃止し、この『定位置滑車システム(仮)』を導入します。私が計算した角度でロープを張れば、濡れたシーツを滑らせるだけで物干し台まで運べます。摩擦係数は油で最小限に抑えますわよ」
「そんな、魔法みたいなことが……」
「魔法ではありません。力学ですわ。ほら、そこの一番力の強い方、この端を持って! 一、二の、三で最適化!」
私の指示通りにロープが張られ、滑車代わりに使った桶の取っ手が、濡れたシーツを乗せてシュルシュルと物干し台へと滑っていく。
「わあ……! 軽い! 歩かなくていいなんて!」
「一往復につき四十五秒の短縮。一日で合計三時間の余剰時間が生まれます。その時間は、将来的なスキルの習得か、あるいは完全な急速に充てなさい。疲弊した労働力は、質の低い成果しか生みませんから」
メイドたちの目に、崇拝に近い光が宿り始めた。
最初は「恐ろしい合理主義令嬢」として恐れられていた私も、今や彼女たちにとっては「家事の負担を半分にしてくれる女神」になりつつあった。
「……お見事だ。ラジーナ、貴様を雇ってからというもの、この屋敷から『ため息』が消え、代わりに『効率』という名の風が吹き始めたようだな」
アルリック閣下が、私の手元に残った油を、自身のハンカチで丁寧に拭き取ってくれた。
その動作に無駄はないが、必要以上に丁寧なその手つきに、私は再び「原因不明のバグ」を感じた。
「……閣下、その動作は私自身で行えば三秒で済みます。閣下の手を煩わせるのは非効率ですわ」
「いいや。これは私の『心の平穏』のためのコストだ。貴様の汚れを拭うことで、私の幸福指数が五パーセント上昇する。……文句があるか?」
「……。閣下は最近、その『幸福指数』という言葉を盾に、非効率な接触を増やしていませんか?」
「気のせいだろう。……さて、洗濯が終わったのなら、次は何を殲滅しに行く? 私はもう、貴様のいない執務室には戻れそうにない」
閣下の言葉は冗談のようだったが、その瞳は射抜くように熱い。
私は不自然に上昇した体温を「気温の上昇」と断定し、早歩きで廊下を進んだ。
「……次は、厨房の燃料消費率の改善ですわ! 閣下、遅れないでください。三秒遅れるごとに、私の説明が三語ずつ増えますわよ!」
「ふ……。それは楽しみだ」
背後で楽しそうに笑う閣下の声を聞きながら、私は確信していた。
この領地を完璧に最適化したその時、私は自分のこの「胸の鼓動」という名の非論理的な数値を、どう処理すればいいのか。
その答えだけは、まだどの計算式にも見当たっていなかった。
私はベンチから立ち上がり、埃を払う動作すらも最短距離で行った。
アルリック閣下は、まだ名残惜しそうに木漏れ日を眺めていたが、私の言葉に諦めたように苦笑して立ち上がった。
「……ラジーナ、貴様というやつは。もう少し余韻というものを楽しめないのか」
「余韻とは、過去の事象に対する未練の蓄積です。私は常に、未来の効率という名の果実を追い求めていたいのですわ」
私たちは屋敷へと戻る廊下を歩いていた。
その途中、中庭に面した洗濯場から、メイドたちの荒い息遣いと、重たいものを引きずる音が聞こえてきた。
「……待ちなさい。今の音、周波数が低すぎます。不自然な重量負荷がかかっている証拠ですわ」
私は予定を〇・五秒で変更し、洗濯場へと足を踏み入れた。
そこでは、数人のメイドたちが、水を含んで重くなったシーツを抱え、何度も何度も洗い場と物干し台の間を往復していた。
「ひ、ひぃ……。重い、腰が……」
「これ、今日中に終わるかしら……」
私は腰に手を当て、彼女たちの動きを三秒間凝視した。
「……絶望的ですわ。これでは、重力という物理法則に対する冒涜です」
「ラジーナ様!? ひっ、申し訳ありません、お見苦しいところを……!」
メイドたちが慌てて姿勢を正すが、私は彼女たちの謝罪を扇の一振りで遮った。
「謝罪の言葉に費やすカロリーがもったいないわ。そこの貴女、シーツを運ぶ際、なぜ背中を丸めているのですか? 重心が前方に偏ることで、脊椎への負担が二十パーセント増大しています。もっと腰を落とし、大腿四頭筋の筋力を活用しなさい」
「だ、だいたい……なんですか?」
「筋肉の名前ですわ。それから、この動線! 洗い場から物干し台まで、なぜジグザグに歩いているのですか? そこの植木鉢が邪魔なのね。セバスさん! この鉢を今すぐ三十センチ右へ! 最短直線を確保しますわよ!」
私が現場を仕切り始めると、アルリック閣下も興味深そうに後ろから覗き込んできた。
「今度は洗濯か。ラジーナ、貴様は一体いくつの分野を最適化すれば気が済むのだ」
「閣下、家事とは『生活という名の兵站』です。ここが滞れば、閣下のシャツの清潔度が下がり、それが不快感となって執務の効率を〇・二パーセント低下させます。看過できませんわ」
私は近くにあった空の桶と、予備のロープを手に取った。
「いいですか、皆さん。これからは『バケツリレー方式』を廃止し、この『定位置滑車システム(仮)』を導入します。私が計算した角度でロープを張れば、濡れたシーツを滑らせるだけで物干し台まで運べます。摩擦係数は油で最小限に抑えますわよ」
「そんな、魔法みたいなことが……」
「魔法ではありません。力学ですわ。ほら、そこの一番力の強い方、この端を持って! 一、二の、三で最適化!」
私の指示通りにロープが張られ、滑車代わりに使った桶の取っ手が、濡れたシーツを乗せてシュルシュルと物干し台へと滑っていく。
「わあ……! 軽い! 歩かなくていいなんて!」
「一往復につき四十五秒の短縮。一日で合計三時間の余剰時間が生まれます。その時間は、将来的なスキルの習得か、あるいは完全な急速に充てなさい。疲弊した労働力は、質の低い成果しか生みませんから」
メイドたちの目に、崇拝に近い光が宿り始めた。
最初は「恐ろしい合理主義令嬢」として恐れられていた私も、今や彼女たちにとっては「家事の負担を半分にしてくれる女神」になりつつあった。
「……お見事だ。ラジーナ、貴様を雇ってからというもの、この屋敷から『ため息』が消え、代わりに『効率』という名の風が吹き始めたようだな」
アルリック閣下が、私の手元に残った油を、自身のハンカチで丁寧に拭き取ってくれた。
その動作に無駄はないが、必要以上に丁寧なその手つきに、私は再び「原因不明のバグ」を感じた。
「……閣下、その動作は私自身で行えば三秒で済みます。閣下の手を煩わせるのは非効率ですわ」
「いいや。これは私の『心の平穏』のためのコストだ。貴様の汚れを拭うことで、私の幸福指数が五パーセント上昇する。……文句があるか?」
「……。閣下は最近、その『幸福指数』という言葉を盾に、非効率な接触を増やしていませんか?」
「気のせいだろう。……さて、洗濯が終わったのなら、次は何を殲滅しに行く? 私はもう、貴様のいない執務室には戻れそうにない」
閣下の言葉は冗談のようだったが、その瞳は射抜くように熱い。
私は不自然に上昇した体温を「気温の上昇」と断定し、早歩きで廊下を進んだ。
「……次は、厨房の燃料消費率の改善ですわ! 閣下、遅れないでください。三秒遅れるごとに、私の説明が三語ずつ増えますわよ!」
「ふ……。それは楽しみだ」
背後で楽しそうに笑う閣下の声を聞きながら、私は確信していた。
この領地を完璧に最適化したその時、私は自分のこの「胸の鼓動」という名の非論理的な数値を、どう処理すればいいのか。
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