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「……閣下。三十分間の『何もしない時間』のうち、すでに十二分が経過しました。この沈黙によって損失された領地経営上の言葉数は、およそ四千語に達しますわ」
夕暮れの静かな庭園。
ベンチに座り、ただ沈む夕日を眺めるという「極限の非効率」に対し、私は耐えきれずに口を開いた。
隣に座るアルリック閣下は、私の膝の上に自身の大きな手を重ね、静かに目を閉じたままだ。
「……静かにしていろ、ラジーナ。今の貴様に必要なのは、数字ではない。この風の音と、花の香りを、そのまま脳に受け入れることだ」
「風の音は空気の振動による波形データ、花の香りは揮発性有機化合物の濃度ですわ。そのまま受け入れるなど、情報の無駄遣いです。分析して初めて価値が生まれるのではありませんか?」
「……。貴様という女は、本当に情緒というものがないのか」
閣下が呆れたように目を開け、私を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、茜色の空が反射して、いつもより柔らかい光を湛えている。
「情緒とは、論理で説明できない脳のバグのようなものです。私はバグを排除して生きてきましたの。……王子の隣にいた時も、彼の突発的な感情の揺れを修正することに全リソースを割いておりましたわ」
「……あの愚かな王子は、貴様のこの美しさを、ただの『管理機能』としてしか見ていなかったということか」
「美しさ……? 閣下、その言葉も極めて主観的な変数ですわ。私の顔の左右対称性や黄金比率に基づく評価であれば、確かに客観的な数値として成立しますが」
アルリック閣下は、フッと短く笑った。
そして、私の耳元に顔を近づけ、低い声で囁いた。
「では、教えてやろう。今の私が貴様を『美しい』と感じているのは、数値の問題ではない。私の心拍数が、貴様の予想を遥かに超える速度で跳ね上がっている……この『事実』が、何よりの証明だ」
「…………」
(……心拍数の異常上昇。閣下の頸動脈の脈動を視覚的に計測。……毎分百二十回。……。これは、激しい運動後、あるいは強烈な心理的負荷がかかっている状態……!)
私は慌てて閣下の手を振り払い、十五センチの距離を取った。
「か、閣下! それは心疾患の予兆ではありませんか!? 今すぐ専属医を呼び、心電図の代わりに私の算盤で心拍リズムの統計を取るべきですわ!」
「……違う。これは貴様が、私の心の『最適解』だから起きている現象だ」
閣下は再び距離を詰め、私の肩を抱き寄せた。
今度は振り払う暇もないほど、力強く、そして温かい。
「ラジーナ。近いうちに、この領地で大きな舞踏会を開く」
「舞踏会? 閣下、それは最も非効率な行事ですわ! 豪華な衣装、過剰な装飾、そして実りのない社交辞令の応酬。どれだけの金貨と時間がドブに捨てられるか、計算したことがおありですか?」
「ああ。計算した。だが、これは必要な投資だ。貴様がこの短期間で成し遂げた、徴税、軍備、そして屋敷内の改革。その成果を周辺の貴族たちに見せつけ、この領地の『新秩序』を宣言するための舞台だ」
閣下の指が、私の髪を優しく梳いた。
「そして、その主役は、私の最高のパートナーである貴様だ」
「……主役。私が、ですか? 悪役令嬢として婚約破棄され、不名誉を背負って追放されたこの私が?」
「不名誉など、貴様の数字がすべて塗り替えた。今、この領地で貴様を悪く言う者はいない。皆、貴様の『魔法のような効率化』に救われている」
私は少しだけ、視線を落とした。
確かに、メイドたちの表情は明るくなり、騎士たちの動きは鋭くなり、市場は活気に満ちている。
その中心に私がいたことは、否定できない事実だ。
「……分かりました。閣下がそれを『投資』と仰るなら、私はその舞踏会を、史上最も効率的で、かつ効果的なものにプロデュースいたしますわ」
「ああ。期待している」
「まず、招待状の発送ルートを最短化し、当日の立食パーティにおける栄養摂取効率を最大化するメニュー構成。そして、ダンスの時間も一曲につき三分三十秒に固定し、参加者の心肺機能に負担をかけないプログラムを作成します」
私は再び脳内計算機を全開にし、分刻みの「舞踏会最適化スケジュール」を組み立て始めた。
アルリック閣下は、そんな私の様子を満足げに眺めていたが、最後に一つだけ付け加えた。
「ただし、一つだけ条件がある。私と貴様が踊る『ラストダンス』の時間だけは、貴様の計算外にしてくれ」
「……? どういう意味でしょうか、閣下」
「終わりのない、永遠に続くダンスにしたいということだ。……それも、非効率か?」
「…………」
(……。……計算、不能。……。永遠という概念は、有限な人生のスケールにおいて定義不可能な変数ですわ……)
私は顔が熱くなるのを必死に隠し、沈みゆく太陽に向かって言い放った。
「その時間は、当日の私の体調と、閣下のステップの正確性によって算出します! さあ、三十分経過しましたわ! 一秒の無駄もなく、舞踏会の予算編成に取り掛かりましょう!」
私は閣下の手を強引に引き、執務室へと走り出した。
背後で、「やれやれ」と笑いながらも、私の速度に合わせて走ってくれる閣下の足音。
そのリズムが、私の心拍数と完璧にシンクロしていることに、私は気づかない振りをすることにした。
婚約破棄から十数日。
私の合理主義は、愛という名の「計算不能な迷宮」へと、全力疾走で突入しようとしていた。
夕暮れの静かな庭園。
ベンチに座り、ただ沈む夕日を眺めるという「極限の非効率」に対し、私は耐えきれずに口を開いた。
隣に座るアルリック閣下は、私の膝の上に自身の大きな手を重ね、静かに目を閉じたままだ。
「……静かにしていろ、ラジーナ。今の貴様に必要なのは、数字ではない。この風の音と、花の香りを、そのまま脳に受け入れることだ」
「風の音は空気の振動による波形データ、花の香りは揮発性有機化合物の濃度ですわ。そのまま受け入れるなど、情報の無駄遣いです。分析して初めて価値が生まれるのではありませんか?」
「……。貴様という女は、本当に情緒というものがないのか」
閣下が呆れたように目を開け、私を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、茜色の空が反射して、いつもより柔らかい光を湛えている。
「情緒とは、論理で説明できない脳のバグのようなものです。私はバグを排除して生きてきましたの。……王子の隣にいた時も、彼の突発的な感情の揺れを修正することに全リソースを割いておりましたわ」
「……あの愚かな王子は、貴様のこの美しさを、ただの『管理機能』としてしか見ていなかったということか」
「美しさ……? 閣下、その言葉も極めて主観的な変数ですわ。私の顔の左右対称性や黄金比率に基づく評価であれば、確かに客観的な数値として成立しますが」
アルリック閣下は、フッと短く笑った。
そして、私の耳元に顔を近づけ、低い声で囁いた。
「では、教えてやろう。今の私が貴様を『美しい』と感じているのは、数値の問題ではない。私の心拍数が、貴様の予想を遥かに超える速度で跳ね上がっている……この『事実』が、何よりの証明だ」
「…………」
(……心拍数の異常上昇。閣下の頸動脈の脈動を視覚的に計測。……毎分百二十回。……。これは、激しい運動後、あるいは強烈な心理的負荷がかかっている状態……!)
私は慌てて閣下の手を振り払い、十五センチの距離を取った。
「か、閣下! それは心疾患の予兆ではありませんか!? 今すぐ専属医を呼び、心電図の代わりに私の算盤で心拍リズムの統計を取るべきですわ!」
「……違う。これは貴様が、私の心の『最適解』だから起きている現象だ」
閣下は再び距離を詰め、私の肩を抱き寄せた。
今度は振り払う暇もないほど、力強く、そして温かい。
「ラジーナ。近いうちに、この領地で大きな舞踏会を開く」
「舞踏会? 閣下、それは最も非効率な行事ですわ! 豪華な衣装、過剰な装飾、そして実りのない社交辞令の応酬。どれだけの金貨と時間がドブに捨てられるか、計算したことがおありですか?」
「ああ。計算した。だが、これは必要な投資だ。貴様がこの短期間で成し遂げた、徴税、軍備、そして屋敷内の改革。その成果を周辺の貴族たちに見せつけ、この領地の『新秩序』を宣言するための舞台だ」
閣下の指が、私の髪を優しく梳いた。
「そして、その主役は、私の最高のパートナーである貴様だ」
「……主役。私が、ですか? 悪役令嬢として婚約破棄され、不名誉を背負って追放されたこの私が?」
「不名誉など、貴様の数字がすべて塗り替えた。今、この領地で貴様を悪く言う者はいない。皆、貴様の『魔法のような効率化』に救われている」
私は少しだけ、視線を落とした。
確かに、メイドたちの表情は明るくなり、騎士たちの動きは鋭くなり、市場は活気に満ちている。
その中心に私がいたことは、否定できない事実だ。
「……分かりました。閣下がそれを『投資』と仰るなら、私はその舞踏会を、史上最も効率的で、かつ効果的なものにプロデュースいたしますわ」
「ああ。期待している」
「まず、招待状の発送ルートを最短化し、当日の立食パーティにおける栄養摂取効率を最大化するメニュー構成。そして、ダンスの時間も一曲につき三分三十秒に固定し、参加者の心肺機能に負担をかけないプログラムを作成します」
私は再び脳内計算機を全開にし、分刻みの「舞踏会最適化スケジュール」を組み立て始めた。
アルリック閣下は、そんな私の様子を満足げに眺めていたが、最後に一つだけ付け加えた。
「ただし、一つだけ条件がある。私と貴様が踊る『ラストダンス』の時間だけは、貴様の計算外にしてくれ」
「……? どういう意味でしょうか、閣下」
「終わりのない、永遠に続くダンスにしたいということだ。……それも、非効率か?」
「…………」
(……。……計算、不能。……。永遠という概念は、有限な人生のスケールにおいて定義不可能な変数ですわ……)
私は顔が熱くなるのを必死に隠し、沈みゆく太陽に向かって言い放った。
「その時間は、当日の私の体調と、閣下のステップの正確性によって算出します! さあ、三十分経過しましたわ! 一秒の無駄もなく、舞踏会の予算編成に取り掛かりましょう!」
私は閣下の手を強引に引き、執務室へと走り出した。
背後で、「やれやれ」と笑いながらも、私の速度に合わせて走ってくれる閣下の足音。
そのリズムが、私の心拍数と完璧にシンクロしていることに、私は気づかない振りをすることにした。
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