19 / 28
19
しおりを挟む
「ハンス! デザートワゴンの右前輪に生クリームが詰まっていますわ! 摩擦係数の増大により、移動速度が秒速五センチメートル低下しています。今すぐヘラで除去し、軸受けにオリーブオイルを滴下しなさい!」
私がパーティ会場に突風のごとく戻ると、そこには立ち往生した三台のワゴンと、顔を真っ青にした料理長ハンスの姿がありました。
会場の隅では、甘いものを心待ちにしている貴族令嬢たちの視線が、鋭い熱線となってワゴンを射抜いています。
このままでは、彼女たちの『未摂取糖分によるストレス』が爆発し、会場の幸福指数が暴落してしまいますわ。
「お、お嬢様! すみません、タルトを山盛りにしすぎてバランスが……」
「言い訳は不要です。重心の計算ミスは、プロフェッショナルとして致命的な欠陥ですわよ。いいですか、ワゴンの中央に最も重いフォンダンショコラを配置し、外周に軽いマカロンを並べることで慣性モーメントを安定させなさい!」
私は自らドレスの袖をまくり上げようとしましたが、それはさすがにセバスさんに制止されました。
代わりに私は扇を指揮棒のように振り、ワゴンを引く給仕たちに最短の進路を指示しました。
「第一班は時計回りに四十五度。第二班は反時計回りに九十度。交差する瞬間に、互いの風圧を利用して加速しなさい。さあ、五秒以内に移動開始!」
私の鋭い号令とともに、ワゴンが一斉に動き出しました。
それはもはや給仕の動きではなく、精密にプログラミングされた自走機械のような滑らかさでした。
令嬢たちの前をワゴンが通り過ぎるたび、色鮮やかなケーキが次々と皿の上に『弾道計算』通りの正確さで着弾していきます。
「わあ、すごいわ! あんなに速いのに、お皿の上が一点の汚れもなく完璧だわ!」
「見て、あのタルトの断面! 振動を最小限に抑えた移動のおかげで、クリームの角が立ったままですわよ!」
令嬢たちの歓声が、会場の音響パネルに反射して私の耳に届きます。
よし、これで不測の事態は収束しましたわ。
私がストップウォッチで配布完了までのタイムを計測していると、背後からひどく乱れた足音と、切実な溜息が聞こえてきました。
「ラジーナ。貴様というやつは、本当に、一秒の情緒も残してはくれないのだな」
追いかけてきたアルリック閣下が、乱れた髪をかき上げながら私の隣に立ちました。
彼の瞳には、先ほどのテラスでの熱い光がまだ残っていましたが、私の視線は既に次のタスクへと向いていました。
「閣下、遅いですわ。ワゴンの危機は既に脱しました。現在はデザートの摂取によるゲストの満足度曲線を観測しているところです。見てください、あちらの侯爵夫人。甘みを感知した瞬間に瞳孔が開き、幸福度が推定十五パーセント上昇しましたわ」
「そんなデータはどうでもいい。私が聞きたいのは、先ほどの私の……契約の申し込みに対する、貴様の心拍数だ」
閣下が私の肩を掴み、強引に自分の方を向かせました。
周囲の貴族たちが「おや、公爵閣下とガレット令嬢が?」と色めき立つのを感じましたが、今の私には閣下の真剣すぎる眼差しの方が、何より強力な不確定要素でした。
「……閣下。公衆の面前での過度な接触は、私の演算処理に多大なノイズを発生させます。それに、契約に関する返答は既にテラスで済ませたはずですわ」
「私はまだ貴様の返答を、この耳ではっきりと確認していない。……ラジーナ、もう一度言え。貴様は、私の妻として、この領地の『心臓』として、一生私を管理してくれるのか?」
会場が、しんと静まり返りました。
楽団の演奏さえも、阁下の放つ圧倒的な威圧感と熱量に気圧されて、音量を半分に落としています。
私は逃げ場を失い、算盤を握りしめる手に力を込めました。
(……ダメですわ。閣下の視線が、私の論理的思考を根こそぎ焼き払おうとしています。……この状況下での最適な解は……)
私は大きく深呼吸をし、閣下の銀色の瞳を真っ直ぐに見つめ返しました。
「……承知いたしました。アルリック・ヴォルフラム公爵閣下。私は、貴方の人生という名の巨大な不採算プロジェクトを引き受け、世界で最も効率的で、無駄がなく、そして……最高に熱い家庭へと最適化することを、ここに宣言いたしますわ!」
私の高らかな宣言が、舞踏会場の隅々まで響き渡りました。
一瞬の静寂の後、それは先ほどのワルツの時以上の、地鳴りのような拍手と歓声に変わりました。
「おめでとうございます! 最高のカップルの誕生だ!」
「これからは公爵夫人として、私たちの生活を導いてくださるのですね、ラジーナ様!」
貴族たちの祝福の嵐の中で、アルリック閣下は満足げに、そして勝利を確信したような不敵な笑みを浮かべました。
「……よし。これで公式な契約は成立だ。ラジーナ、これからは逃がさんぞ。貴様の二十四時間を、すべて私が買い取ったのだからな」
「買い取ったのではありません。私が閣下を『支配下』に置いたのです。勘違いしないでくださいな」
私は真っ赤になった顔を隠すように扇で仰ぎながら、即座に次の指示を出しました。
「セバスさん! 披露宴の予算案と、新居のリフォーム計画、それから婚姻に伴う領地全体の経済効果予測を十時間以内にまとめなさい! 私たちの結婚は、ただの儀式ではなく、最大の公共事業ですわよ!」
「畏まりました、我が公爵夫人。既に準備は整っております」
セバスさんの完璧な礼に、私はようやく満足して頷きました。
婚約破棄から始まった私の物語。
どうやら、かつてないほど巨大で、かつてないほど幸福な『計算式』が、今ここから動き出したようです。
私は閣下の差し出した手を、今度は迷うことなく握りしめました。
「さあ、閣下。舞踏会の終了まであと三十分。残りの時間を、最も『効率的』に楽しみましょう!」
「ああ。……だが、効率の定義については、後でじっくり議論が必要だな」
閣下の楽しげな笑い声と共に、私たちの新しい人生という名の第十九話が、最高の盛り上がりの中で幕を閉じようとしていました。
私がパーティ会場に突風のごとく戻ると、そこには立ち往生した三台のワゴンと、顔を真っ青にした料理長ハンスの姿がありました。
会場の隅では、甘いものを心待ちにしている貴族令嬢たちの視線が、鋭い熱線となってワゴンを射抜いています。
このままでは、彼女たちの『未摂取糖分によるストレス』が爆発し、会場の幸福指数が暴落してしまいますわ。
「お、お嬢様! すみません、タルトを山盛りにしすぎてバランスが……」
「言い訳は不要です。重心の計算ミスは、プロフェッショナルとして致命的な欠陥ですわよ。いいですか、ワゴンの中央に最も重いフォンダンショコラを配置し、外周に軽いマカロンを並べることで慣性モーメントを安定させなさい!」
私は自らドレスの袖をまくり上げようとしましたが、それはさすがにセバスさんに制止されました。
代わりに私は扇を指揮棒のように振り、ワゴンを引く給仕たちに最短の進路を指示しました。
「第一班は時計回りに四十五度。第二班は反時計回りに九十度。交差する瞬間に、互いの風圧を利用して加速しなさい。さあ、五秒以内に移動開始!」
私の鋭い号令とともに、ワゴンが一斉に動き出しました。
それはもはや給仕の動きではなく、精密にプログラミングされた自走機械のような滑らかさでした。
令嬢たちの前をワゴンが通り過ぎるたび、色鮮やかなケーキが次々と皿の上に『弾道計算』通りの正確さで着弾していきます。
「わあ、すごいわ! あんなに速いのに、お皿の上が一点の汚れもなく完璧だわ!」
「見て、あのタルトの断面! 振動を最小限に抑えた移動のおかげで、クリームの角が立ったままですわよ!」
令嬢たちの歓声が、会場の音響パネルに反射して私の耳に届きます。
よし、これで不測の事態は収束しましたわ。
私がストップウォッチで配布完了までのタイムを計測していると、背後からひどく乱れた足音と、切実な溜息が聞こえてきました。
「ラジーナ。貴様というやつは、本当に、一秒の情緒も残してはくれないのだな」
追いかけてきたアルリック閣下が、乱れた髪をかき上げながら私の隣に立ちました。
彼の瞳には、先ほどのテラスでの熱い光がまだ残っていましたが、私の視線は既に次のタスクへと向いていました。
「閣下、遅いですわ。ワゴンの危機は既に脱しました。現在はデザートの摂取によるゲストの満足度曲線を観測しているところです。見てください、あちらの侯爵夫人。甘みを感知した瞬間に瞳孔が開き、幸福度が推定十五パーセント上昇しましたわ」
「そんなデータはどうでもいい。私が聞きたいのは、先ほどの私の……契約の申し込みに対する、貴様の心拍数だ」
閣下が私の肩を掴み、強引に自分の方を向かせました。
周囲の貴族たちが「おや、公爵閣下とガレット令嬢が?」と色めき立つのを感じましたが、今の私には閣下の真剣すぎる眼差しの方が、何より強力な不確定要素でした。
「……閣下。公衆の面前での過度な接触は、私の演算処理に多大なノイズを発生させます。それに、契約に関する返答は既にテラスで済ませたはずですわ」
「私はまだ貴様の返答を、この耳ではっきりと確認していない。……ラジーナ、もう一度言え。貴様は、私の妻として、この領地の『心臓』として、一生私を管理してくれるのか?」
会場が、しんと静まり返りました。
楽団の演奏さえも、阁下の放つ圧倒的な威圧感と熱量に気圧されて、音量を半分に落としています。
私は逃げ場を失い、算盤を握りしめる手に力を込めました。
(……ダメですわ。閣下の視線が、私の論理的思考を根こそぎ焼き払おうとしています。……この状況下での最適な解は……)
私は大きく深呼吸をし、閣下の銀色の瞳を真っ直ぐに見つめ返しました。
「……承知いたしました。アルリック・ヴォルフラム公爵閣下。私は、貴方の人生という名の巨大な不採算プロジェクトを引き受け、世界で最も効率的で、無駄がなく、そして……最高に熱い家庭へと最適化することを、ここに宣言いたしますわ!」
私の高らかな宣言が、舞踏会場の隅々まで響き渡りました。
一瞬の静寂の後、それは先ほどのワルツの時以上の、地鳴りのような拍手と歓声に変わりました。
「おめでとうございます! 最高のカップルの誕生だ!」
「これからは公爵夫人として、私たちの生活を導いてくださるのですね、ラジーナ様!」
貴族たちの祝福の嵐の中で、アルリック閣下は満足げに、そして勝利を確信したような不敵な笑みを浮かべました。
「……よし。これで公式な契約は成立だ。ラジーナ、これからは逃がさんぞ。貴様の二十四時間を、すべて私が買い取ったのだからな」
「買い取ったのではありません。私が閣下を『支配下』に置いたのです。勘違いしないでくださいな」
私は真っ赤になった顔を隠すように扇で仰ぎながら、即座に次の指示を出しました。
「セバスさん! 披露宴の予算案と、新居のリフォーム計画、それから婚姻に伴う領地全体の経済効果予測を十時間以内にまとめなさい! 私たちの結婚は、ただの儀式ではなく、最大の公共事業ですわよ!」
「畏まりました、我が公爵夫人。既に準備は整っております」
セバスさんの完璧な礼に、私はようやく満足して頷きました。
婚約破棄から始まった私の物語。
どうやら、かつてないほど巨大で、かつてないほど幸福な『計算式』が、今ここから動き出したようです。
私は閣下の差し出した手を、今度は迷うことなく握りしめました。
「さあ、閣下。舞踏会の終了まであと三十分。残りの時間を、最も『効率的』に楽しみましょう!」
「ああ。……だが、効率の定義については、後でじっくり議論が必要だな」
閣下の楽しげな笑い声と共に、私たちの新しい人生という名の第十九話が、最高の盛り上がりの中で幕を閉じようとしていました。
10
あなたにおすすめの小説
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる