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夢の工房生活が始まってから、数日が過ぎた。フィアは、文字通り寝食を忘れるほど研究に没頭していた。早朝、鳥のさえずりと共に目覚めると、まずは庭に出て薬草を摘む。朝食を 簡単に済ませた後は、終日工房にこもり、日暮れまで釜をかき混ぜ、薬草を刻み、調合を繰り返す。その生活は、傍から見れば地味で単調かもしれないが、フィアにとっては人生で最も心躍る、充実した時間だった。
「きゃっ!」
ある日の午後、母屋の厨房から、若いメイドの小さな悲鳴が聞こえた。フィアが様子を見に行くと、一人のメイドが真っ青な顔で立ち尽くしている。彼女の足元には、真っ白なテーブルクロスの上に、紅茶が派手にこぼれた跡が広がっていた。
「どうしたのですか?」
「フ、フィアお嬢様……! 申し訳ございません! わたくしが、お客様用の一番上等なクロスを……!」
もうおしまいだ、とばかりに泣き出しそうなメイドを見て、フィアは「ああ、ちょうどいいところに」と微笑んだ。
「大丈夫ですよ。少し待っていてくださいな」
フィアは工房へ戻ると、小さな小瓶を手に取って戻ってきた。中には、無色透明の液体が満たされている。
「これは……?」
「わたくしが作った、特製のシミ抜き液ですの。まあ、見ていてください」
フィアはスポイトで液体を数滴吸い上げると、茶色いシミの上にぽたぽたと垂らした。すると、驚くべきことが起こった。液体が染み込んだ部分から、紅茶のシミがまるで消しゴムで消されたかのように、すぅっと消えていくではないか。
「ま、魔法……!?」
わずか数秒で、シミは跡形もなく消え去り、そこには元の真っ白な布地が広がっているだけだった。メイドは目を丸くして、クロスとフィアの顔を交互に見ている。
「ふふ、成功ね。これでシミ抜きの分野は、ほぼ完成と言えそうだわ」
満足げに頷くフィアに、メイドは深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます、お嬢様! これで奥様に叱られずに済みます……!」
「気にしないで。むしろ、良い実験台になってくれて感謝しますわ」
にこやかに言うフィアに、メイドは感激の涙を浮かべるのだった。
またある日には、庭師が古い剪定ばさみの切れ味が悪くなったとぼやいているのを耳にした。
「こいつぁ、もう寿命かねぇ。研いでも研いでも、すぐに切れなくなっちまう」
その独り言を聞きつけたフィアは、またもや工房から緑色の練り薬が入った小さな壺を持ってきた。
「よろしければ、これを使ってみてくださいませんか?」
「お嬢様? なんでございます、こいつは」
「刃物用の、特製研磨剤ですわ。布に少量とって、刃をさっと拭くだけでよろしいの」
庭師は半信半疑で、言われた通りに緑色の研磨剤を刃に塗り、布で拭き取った。すると、長年の使用で曇っていた刃が、まるで新品のような鋭い輝きを取り戻した。
「な、なんじゃこりゃあ!?」
試しに、と庭師が近くの木の枝に刃を当てると、今まで力を入れなければ切れなかった太い枝が、何の抵抗もなく「サクッ」と切断された。
「おお……! なんてこった……! お嬢様、こいつはすげぇや!」
驚きと興奮で顔をくちゃくちゃにする庭師に、フィアはにっこりと微笑んだ。
「お役に立てて、ようございました」
フィアの作る「お役立ち魔法薬」は、それだけではなかった。
工房の窓辺に吊るされた「絶対に虫が寄り付かなくなる防虫香」。火を灯すと、爽やかな柑橘系の香りが広がり、鬱陶しい羽虫が一匹も入ってこなくなった。
厨房の隅に置かれた「ネズミが逃げ出すハーブ袋」は、その日からネズミの姿を屋敷から完全に消し去った。
メイドたちが絶賛したのは「ひと拭きで窓ガラスが驚くほどピカピカになる洗浄液」だ。おかげで、屋敷中の窓が、まるで存在しないかのように透き通っている。
フィアが開発する魔法薬は、大魔法使いが使うような、天変地異を起こしたり、人を癒したりするものではない。けれど、日々の生活の中にある、ちょっとした「困った」を解決し、人々の暮らしを豊かにする、不思議で優しい力を持っていた。
その日の夕暮れ、フィアは完成したばかりの魔法薬が並んだ棚を眺め、ほう、と満足のため息をついた。
(ああ、なんて楽しいのかしら)
誰かに強いられるでもなく、評価を気にするでもなく、ただ自分の知的好奇心と探究心に従って、物作りに没頭する。婚約者として過ごした日々には、決して得ることのできなかった、確かな手応えと充実感がそこにはあった。
「さて、明日は何をしましょうか。そろそろ、カビ防止剤の開発にも取り掛かりたいわね」
窓の外に広がる茜色の空を眺めながら、フィアは幸せに満ちた笑みを浮かべる。
この時はまだ、彼女のささやかな工房での活動が、やがて王国の騎士団、ひいては国全体を揺るがすほどの大きな注目を集めることになるとは、知る由もなかった。
「きゃっ!」
ある日の午後、母屋の厨房から、若いメイドの小さな悲鳴が聞こえた。フィアが様子を見に行くと、一人のメイドが真っ青な顔で立ち尽くしている。彼女の足元には、真っ白なテーブルクロスの上に、紅茶が派手にこぼれた跡が広がっていた。
「どうしたのですか?」
「フ、フィアお嬢様……! 申し訳ございません! わたくしが、お客様用の一番上等なクロスを……!」
もうおしまいだ、とばかりに泣き出しそうなメイドを見て、フィアは「ああ、ちょうどいいところに」と微笑んだ。
「大丈夫ですよ。少し待っていてくださいな」
フィアは工房へ戻ると、小さな小瓶を手に取って戻ってきた。中には、無色透明の液体が満たされている。
「これは……?」
「わたくしが作った、特製のシミ抜き液ですの。まあ、見ていてください」
フィアはスポイトで液体を数滴吸い上げると、茶色いシミの上にぽたぽたと垂らした。すると、驚くべきことが起こった。液体が染み込んだ部分から、紅茶のシミがまるで消しゴムで消されたかのように、すぅっと消えていくではないか。
「ま、魔法……!?」
わずか数秒で、シミは跡形もなく消え去り、そこには元の真っ白な布地が広がっているだけだった。メイドは目を丸くして、クロスとフィアの顔を交互に見ている。
「ふふ、成功ね。これでシミ抜きの分野は、ほぼ完成と言えそうだわ」
満足げに頷くフィアに、メイドは深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます、お嬢様! これで奥様に叱られずに済みます……!」
「気にしないで。むしろ、良い実験台になってくれて感謝しますわ」
にこやかに言うフィアに、メイドは感激の涙を浮かべるのだった。
またある日には、庭師が古い剪定ばさみの切れ味が悪くなったとぼやいているのを耳にした。
「こいつぁ、もう寿命かねぇ。研いでも研いでも、すぐに切れなくなっちまう」
その独り言を聞きつけたフィアは、またもや工房から緑色の練り薬が入った小さな壺を持ってきた。
「よろしければ、これを使ってみてくださいませんか?」
「お嬢様? なんでございます、こいつは」
「刃物用の、特製研磨剤ですわ。布に少量とって、刃をさっと拭くだけでよろしいの」
庭師は半信半疑で、言われた通りに緑色の研磨剤を刃に塗り、布で拭き取った。すると、長年の使用で曇っていた刃が、まるで新品のような鋭い輝きを取り戻した。
「な、なんじゃこりゃあ!?」
試しに、と庭師が近くの木の枝に刃を当てると、今まで力を入れなければ切れなかった太い枝が、何の抵抗もなく「サクッ」と切断された。
「おお……! なんてこった……! お嬢様、こいつはすげぇや!」
驚きと興奮で顔をくちゃくちゃにする庭師に、フィアはにっこりと微笑んだ。
「お役に立てて、ようございました」
フィアの作る「お役立ち魔法薬」は、それだけではなかった。
工房の窓辺に吊るされた「絶対に虫が寄り付かなくなる防虫香」。火を灯すと、爽やかな柑橘系の香りが広がり、鬱陶しい羽虫が一匹も入ってこなくなった。
厨房の隅に置かれた「ネズミが逃げ出すハーブ袋」は、その日からネズミの姿を屋敷から完全に消し去った。
メイドたちが絶賛したのは「ひと拭きで窓ガラスが驚くほどピカピカになる洗浄液」だ。おかげで、屋敷中の窓が、まるで存在しないかのように透き通っている。
フィアが開発する魔法薬は、大魔法使いが使うような、天変地異を起こしたり、人を癒したりするものではない。けれど、日々の生活の中にある、ちょっとした「困った」を解決し、人々の暮らしを豊かにする、不思議で優しい力を持っていた。
その日の夕暮れ、フィアは完成したばかりの魔法薬が並んだ棚を眺め、ほう、と満足のため息をついた。
(ああ、なんて楽しいのかしら)
誰かに強いられるでもなく、評価を気にするでもなく、ただ自分の知的好奇心と探究心に従って、物作りに没頭する。婚約者として過ごした日々には、決して得ることのできなかった、確かな手応えと充実感がそこにはあった。
「さて、明日は何をしましょうか。そろそろ、カビ防止剤の開発にも取り掛かりたいわね」
窓の外に広がる茜色の空を眺めながら、フィアは幸せに満ちた笑みを浮かべる。
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