君のような悪女とは婚約破棄だ!と言われたので帰ります

パリパリかぷちーの

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アレン王子の手紙を「鍋敷き」にしてから数時間が経過しました。

夜も更け、屋敷は静寂に包まれています。

私は自室ではなく、図書室で資料の整理をしていました。

領地改革の次なる一手、温泉リゾート開発の計画書を練るためです。

暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが響く、穏やかな時間……のはずでした。

「……ギルバート様」

私は羽ペンを置き、顔を上げました。

「さっきから、少し落ち着きがありませんわよ?」

部屋の隅には、護衛として付き添ってくれているギルバート様がいました。

彼は書架の周りを熊のようにウロウロと歩き回り、時折立ち止まっては深く溜息をつき、また歩き出すという不審な挙動を繰り返しています。

「……すまん。邪魔をしたか」

「いえ、邪魔というほどではありませんが。床がすり減りそうですわ」

「……」

彼はバツが悪そうに歩みを止め、私のデスクの近くにあるソファにドカッと腰を下ろしました。

その表情は、いつになく深刻です。

眉間に刻まれた皺は深く、何かを必死に堪えているようにも見えます。

「何か悩み事でも? お腹が空いたのでしたら、夜食にサンドイッチを作らせますけれど」

「違う。食欲の問題ではない」

ギルバート様は首を振りました。

そして、真っ直ぐな瞳で私を見据えます。

「……昼間の手紙のことだ」

「ああ、あれですか」

私は苦笑しました。

「まだ気にしていらしたのですか? もう灰になってゴミ箱行きですわよ」

「手紙そのものではない。そこに書かれていた内容、そして……貴殿の扱いについてだ」

彼は拳を膝の上で強く握り締めました。

「許せなかったのだ。あんな無礼な言葉を投げつけられ、それでも気丈に振る舞う貴殿を見ていたら……胸の奥が、こう、ザワザワして落ち着かない」

「ザワザワ?」

「ああ。アレン殿下への怒りもある。だが、それ以上に……焦燥感のようなものだ」

彼は言葉を探すように、視線を宙に彷徨わせました。

「俺は、騎士だ。国を守り、弱きを助けるのが務めだ。だが、今の貴殿に対して、私は何もできていない気がする」

「そんなことはありませんわ。貴方のおかげで、こうして安心して仕事ができていますもの」

「護衛としての話ではない!」

突然、彼が声を荒げました。

私は驚いて肩を震わせました。

「あ……す、すまん。大きな声を出して」

「い、いいえ。……でも、護衛としてではない、とは?」

ギルバート様は立ち上がり、私のデスクへと歩み寄ってきました。

その巨大な影が、私をすっぽりと覆い隠します。

圧迫感がすごいですが、不思議と恐怖はありません。

「ニナリー嬢。貴殿は、婚約者というものに、何を求める?」

「え? 急に哲学的な問いですわね」

私は少し考え、正直に答えました。

「そうですね……。私の仕事の邪魔をしないこと。適度な距離感を保つこと。そして、私の淹れた紅茶を文句を言わずに飲むこと、でしょうか」

「……それだけか?」

「今のところは。愛だの恋だのは、小説の中だけで十分ですわ。現実はコストとパフォーマンスが全てですから」

アレン様との経験から、私はロマンスに対してドライになりすぎていたのかもしれません。

しかし、ギルバート様はその答えに納得がいかないようでした。

「……俺は、違うと思う」

「はい?」

「男なら……愛する女性には、もっとこう……情熱的であるべきだ」

彼は一歩、さらに近づいてきました。

デスク越しではなく、私のすぐ横まで。

「情熱的、ですか?」

「ああ。例えば……」

彼は何かを決意したように、息を吸い込みました。

その目には、戦場に向かう兵士のような悲壮な覚悟が宿っています。

(な、何? 何が始まるの?)

私は椅子に座ったまま、後ずさりしたくなりました。

ギルバート様は、ゆっくりと右手を上げました。

そして、私の背後にある壁に向かって、その手を伸ばします。

これは、まさか。

最近、私が貸した恋愛小説『公爵様の危険な独占欲』に出てきた、あのシチュエーション。

壁に手をついて相手を閉じ込め、至近距離で愛を囁くという、伝説の奥義『壁ドン』!?

(う、嘘でしょう? この熊みたいな人が?)

私の心臓が早鐘を打ちます。

ギルバート様の顔が近づいてきます。

整った顔立ち。

長いまつ毛。

そして、熱を帯びた瞳。

「ニナリー。俺なら、君を……」

甘い低音が鼓膜を震わせました。

そして、彼の手が壁に触れようとした、その瞬間です。

ズルッ。

「あ」

ギルバート様の軸足が、床に敷かれた高級ペルシャ絨毯の上で滑りました。

バランスを崩した巨体が、制御不能の砲弾となって私の方へ突っ込んできます。

「あぶなっ!?」

私は反射的に身を屈めて避けました。

ドゴォォォォォォォン!!

屋敷全体が揺れるような轟音。

舞い上がる土煙。

私が恐る恐る顔を上げると、そこには信じられない光景が広がっていました。

私の背後にあった頑丈な石造りの壁に、ギルバート様の右腕が『肘まで』めり込んでいたのです。

壁には蜘蛛の巣状の亀裂が走り、パラパラと破片が落ちてきます。

「……」

「……」

静寂。

図書室とは思えない破壊の跡。

ギルバート様は壁に腕を突っ込んだまま、石のように固まっていました。

「……ギルバート様?」

私が震える声で呼ぶと、彼はギギギと首だけを動かしてこちらを見ました。

その顔は、真っ赤を通り越して蒼白になっています。

「……ぬ、抜けない」

「はい?」

「腕が……壁から、抜けない」

「嘘でしょう!?」

私は慌てて立ち上がり、彼の腕を引っ張ろうとしました。

しかし、びくともしません。

完全に一体化しています。

「な、何て馬鹿力を出したんですの! 壁ドンは壁を破壊する技ではありませんわよ!?」

「す、すまん! 力加減がわからなくて……! それに、足が滑って……!」

「言い訳は後です! まずはこの状況をなんとかしないと!」

「ううっ……一生の不覚……!」

「氷の騎士」改め「壁の騎士」となった彼は、情けなさで泣きそうになっていました。

しかし。

そんな間抜けな体勢のまま、彼は急に真面目な顔になりました。

「だが、ニナリー嬢。これだけは言わせてくれ」

「え? 今ですの? この状況で?」

「今しかないんだ。聞いてくれ」

彼は壁と一体化したまま、私の目を真っ直ぐに見つめました。

逃げようにも、彼の体と壁に挟まれて逃げ場がありません。

物理的にも精神的にも、私はロックオンされていました。

「俺は……貴殿が、アレン殿下のことで傷つくのが嫌だ」

「……」

「貴殿は強い。一人でも生きていける。だが、強がりなだけだということも知っている」

彼の手(見えないけれど)が、壁の中で握り締められたような気がしました。

「俺なら、貴殿を一人にはしない。面倒な書類仕事も手伝うし(計算は苦手だが)、重い荷物は俺が持つ。貴殿が辛い時は、その背中を支える壁になりたいんだ」

「……今、壁を壊している人がそれを言いますか?」

「うぐっ……! 言葉のアヤだ!」

彼は赤面しながらも、言葉を続けました。

「とにかく! 俺は、貴殿の笑顔が好きなんだ。あの高笑いも、悪巧みをしている時の顔も、クッキーを食べている時の幸せそうな顔も」

「……!」

「だから、王子なんかに負けたくない。俺の方が、貴殿を幸せにできると……証明したい」

彼の言葉は、不器用で、洗練されていなくて、泥臭いものでした。

でも、だからこそ。

私の胸の奥にある、硬い殻のようなものを、優しくノックされた気がしました。

「……ギルバート様」

「な、何だ。笑いたければ笑え。こんな無様な男など……」

「いいえ」

私は首を横に振りました。

そして、壁に埋まった彼の腕の隣に、そっと自分の手を添えました。

「……リフォーム代は、高くつきますわよ?」

「! ……ああ、給金から天引きしてくれ。一生かけても払う」

「一生、ですか」

私はフフッと笑いました。

「それは、随分と長いローン契約になりますわね」

「構わない。……貴殿のそばにいられるなら」

彼の瞳が揺れました。

私は熱くなる頬を隠すように、彼の方へ一歩踏み出しました。

「とりあえず、今はセバスチャンを呼びましょう。壁を壊さないと抜けそうにありませんから」

「……頼む。誰にも見られたくないが……」

「ふふっ、秘密にしておいてあげますわ。私の『専属騎士』さんの名誉のために」

「専属……」

その響きに、ギルバート様が嬉しそうに顔を綻ばせました。

結局、駆けつけたセバスチャンと数人の使用人によって壁は破壊され、ギルバート様は無事に救出されました。

彼は灰まみれの姿で平謝りしていましたが、私はその姿がおかしくて、久しぶりに声を上げて笑いました。

壊れた壁の向こうには、満天の星空が見えていました。

アレン様との関係で閉ざされていた私の心にも、風穴が開いた。

そんな気がした夜でした。

しかし、この穏やかな(?)時間は長くは続きません。

王都から放たれた「ピンク色の刺客」ミューア男爵令嬢が、すぐそこまで迫っていたからです。
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