断罪された悪役令嬢ですが、ハッピーエンド(仮)を目指します!

パリパリかぷちーの

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マルシェの喧騒が嘘のように、別荘へと続く森の道は静まり返っていた。
荷馬車は、行きとは比べ物にならないほど軽くなっている。
御者台で鼻歌交じりのアンナと、空になった木箱を眺めて満足げなルーナ。
そして、その荷馬車に、変わらず無言で並走する馬上の騎士、アレクシス。

(…疲れた)

アレクシスは、肉体的な疲労ではなく、精神的な疲労を感じていた。
騎士団の過酷な訓練や、実戦を指揮するのとは、全く質の異なる疲れだった。
子供たちに囲まれ、村人たちに「騎士様、ジャム一つ!」と注文され、無愛想な顔で代金を受け取り、商品を渡す。
その一連の行為が、彼の精神力をどれほど削ったことか。

(二度とごめんだ)

アレクシスは、心に固く誓った。
しかし、その一方で、彼の脳裏には、あのクッキーを頬張った少年の、一点の曇りもない笑顔が焼き付いて離れなかった。
そして、あれほどあったジャムとクッキーが、人々の手に渡り、空になっていく様に、不本意ながら、ある種の「達成感」のようなものを覚えてしまった自分も、確かにいた。

(…どうかしている)

彼は、この「悪役令嬢」のそばにいると、自分の調子が狂うことを、改めて実感していた。

別荘に帰り着くと、ルーナは「お疲れ様でしたわ!」と、アレクシスの労(ねぎら)い(?)もそこそこに、アンナと二人で売上金の計算を始めてしまった。
銅貨と銀貨が、テーブルの上で心地よい音を立てている。

「まあ! これだけあれば、また新しい小麦粉とバターが、山ほど買えますわね!」

(…まだ作る気か)
アレクシスは、その底なしの創作意欲に、軽く眩暈を覚えた。

その夜。
別荘の談話室には、珍しく三人の姿があった。
ルーナが、帳簿のようなものに、羽ペンを走らせている。マルシェの収支計算だろう。
アンナが、その隣で、磨き上げた銀貨を数えている。
そして、アレクシスは、部屋の隅の椅子に座り、その二人を「監視」していた。

(…監視、か)

アレクシスは、自嘲めいた気持ちになる。
もはや、この光景は、どう見ても「監視」などではない。
仕事(お菓子作り)を終えた主従が、家計簿をつけている。
そして、その家の主(あるじ)が、それをぼんやりと眺めている。
そんな、奇妙な「家族」の団欒(だんらん)のようにさえ見えてしまっていた。

(何を考えている、俺は)

アレクシスは、思考を振り払うように、わざと冷たい声を出した。

「…貴様」

「はい、なんでしょう? 副団長様」

ルーナは、帳簿から顔も上げずに答えた。

「あいにくですが、マルシェでほとんど売り切ってしまいましたので、今夜のお夜食はございませんわよ? わたくしの隠しておいたクッキーでよろしければ、『検分』なさいますか?」

「…そういうことではない」

アレクシスは、ため息をついた。
いつの間にか、自分が、食い意地の張った男のように扱われている。
(いや、事実、この女の作るものに胃袋を掴まれているのだから、否定はできんが)

彼は、この別荘に来てからずっと、頭の片隅にあった、最大の疑問を口にすることにした。
この女の「悪事」の、根幹に関わる疑問だ。

「貴様は、なぜ、あの卒業パーティーで、何も反論しなかった?」

「…」

ルーナの羽ペンが、ぴたりと止まった。
隣で銀貨を数えていたアンナの手も、止まる。
談話室に、暖炉の薪がはぜる音だけが響いた。

ルーナは、ゆっくりと顔を上げた。
その表情は、いつもの楽しそうなものでも、面倒くさそうなものでもなく、ただ静かな、無表情だった。

「…反論、ですって?」

「そうだ」

アレクシスは、真っ直ぐにルーナの目を見据えた。
「氷の騎士」の、全てを見透かすような、鋭い視線だ。

「俺も、あの場にいた。エリオット殿下の罪状は、あまりに稚拙で、感情的だった。貴様ほどの女なら、あの程度の言いがかり、いくらでも論破できたはずだ」

「……」

「マリア嬢の証言の矛盾点を突き、アリバイを証明し、逆に、彼女の計算高さを暴くこともできただろう。なぜ、それをしなかった」

アレクシスにとって、それは不可解でならなかった。
目の前の女は、それほどまでに頭が切れる。
この数週間の、自分を手玉に取るような屁理屈の数々が、それを証明している。
それなのに、なぜ、人生最大の汚名を着せられるあの場で、彼女は「悪役令嬢」の役を、甘んじて受け入れたのか。

(王子への、最後の情けだったのか? それとも、公爵家の体面を考えたのか?)

ルーナは、アレクシスの真剣な視線を受け止めたまま、数秒間、何かを考えるように宙を見ていた。
やがて、彼女は、これまでで最大級の、心底うんざりした、という深いため息をついた。

「…副団長様」

「なんだ」

「わたくし、心底、面倒くさかったのですわ」

「…は?」

アレクシスは、予想外すぎる答えに、間の抜けた声を出した。

「ですから、面倒くさかったの。あの場にいること、そのものが」

ルーナは、羽ペンを置くと、椅子の背にもたれかかった。
まるで、遠い日の悪夢でも思い出すかのように、目を細める。

「わたくし、あの王妃教育が、地獄の苦痛でしたの」

「…地獄?」

「ええ。朝は、太陽が昇る前から叩き起こされ、夜は、星が出るまで勉学と作法。分厚い歴史書、難解な政治学、気の遠くなるような家系図の暗記。歩き方、お辞儀の角度、声のトーンまで、全てを『完璧な王妃』の型にはめられる日々」

ルーナの声には、何の感情もこもっていなかった。
ただ、事実を淡々と述べているだけだ。

「わたくしの好きなこと…厨房に立って、思う存分お菓子を焼くこと。庭で土をいじって、ハーブを育てること。こうして、湖でぼんやり釣りをすること。そして、何より、好きなだけ昼寝をすること…」

彼女は、アレクシスを見た。

「それら全てを、『次期王妃にふさわしくない、はしたない行為』として、禁止されておりましたのよ」

「……」

「あの卒業パーティーの日も、そうですわ。朝から窮屈なドレスを着せられ、重い髪飾りをつけさせられ、ろくに食事もとれず、どうでもいい貴族たちに愛想笑いを振りまき続ける。足は棒のよう、お腹はペコペコ、眠くて倒れそう…わたくし、もう、限界でしたの」

アレクシスは、返す言葉がなかった。

「そこへ、エリオット殿下が、高らかに叫んでくださった」

ルーナは、芝居がかった仕草で、両手を広げてみせた。

「『婚約を破棄する!』『王都から追放だ!』と」

「……」

「しかも、追放先は、この別荘ですわよ? わたくしが、この世で一番大好きな、思い出の詰まった、最新式の厨房がある、この場所に」

アレクシスは、あの日のルーナの、一瞬の「ガッツポーズ」を思い出していた。
(あれは、気が触れたフリなどではなかった。本気だったのか…!)

「副団長様なら、どうなさいます?」

ルーナは、意地の悪い笑みを浮かべた。

「必死に反論して、万が一、婚約破棄が取り消しにでもなってみなさいな? わたくしは、またあの地獄の王妃教育と、面倒な王子の元に戻らなければならなかったのですわよ?」

「…それは」

「馬鹿馬鹿しいにも、ほどがありますわ」

ルーナは、きっぱりと言い切った。

「王妃教育という名の拷問を受け続けるくらいなら。わたくしは、喜んで『悪役令嬢』の汚名を着て、ここで自由にジャムを煮ている方が、よほどマシでしたので」

「……」

アレクシスは、絶句した。
嫉妬も、策略も、王位への執着も、そこにはなかった。
ただ、圧倒的なまでの「面倒くさい」という感情と、「自由への渇望」だけ。

「おかげさまで、わたくし、今、最高に幸せですわ。王妃教育からも、あのプライドばかり高い王子からも解放されて」

ルーナは、心底楽しそうに、にっこりと笑った。

「むしろ、感謝しないといけませんわね。エリオット殿下と、あのマリア様には」

アレクシスは、大きく息を吐き出した。
まるで、体中の力が抜けていくような、不思議な感覚だった。
彼が「監視」していた「悪女」の像が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。

(嫉妬では、なかった…?)
(では、マリア嬢のあの涙は、一体…?)

様々な疑問が、新たに湧き上がってくる。
しかし、それよりも強く、アレクシスは、目の前の女の、常軌を逸した「図太さ」に、打ちのめされていた。
王妃の座という、国中の令嬢が夢見る地位を、「面倒くさい」の一言で蹴り飛ばした女。

「…そうか」

アレクシスは、それだけを言うのが、精一杯だった。

彼は、ルーナから視線を外し、窓の外の暗い湖を見つめた。
今までは「悪女」を「監視」していた。
だが、今は違う。

彼は、ルーナ・フォン・アッシュフィールドという、ただの「図太くて、お菓子作りと昼寝が好きな、一人の女性」を、見ている。
そう、自覚してしまった。

二人の間の、「監視役」と「監視対象」という見えない壁が、今夜、確実に、その厚さを変えた。
アレクシスは、この奇妙な「謹慎」生活が、自分が思っていたものとは、全く違う方向へ進み始めていることを、予感していた。
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