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私がイザベラ様たちを冷ややかに見送った後、広間の空気は明らかに変わった。
人々は私を遠巻きにし、好奇と恐怖の入り混じった視線でヒソヒソと囁き合っている。
「見たか、あのエレノア様の目を」
「まるで別人のようだ。婚約破棄のショックで、おかしくなってしまわれたのでは……」
それでいい。
哀れまれるより、恐れられる方がずっとましだ。
私は誰とも視線を合わせず、テラスの見える窓辺へと静かに移動した。
一人で冷たいシャンパンを口に含み、この戦場とも言える夜会を冷静に観察しようとした、その時だった。
「ごきげんよう、エレノア・フォン・ヴァルガス侯爵令嬢」
静かだが、不思議と芯の通った声が、すぐ傍から聞こえた。
驚いて振り向くと、そこには見慣れない一人の青年が、穏やかな表情で立っていた。
黒に近い、深い夜色の髪。
他の貴族たちがこれ見よがしに着飾る中、彼の装いは派手さはないものの、極めて上質で仕立てが良いことが一目でわかる。
何よりも印象的だったのは、その瞳だ。
すべてを見透かすような、静かで知的な光を宿している。
周囲の喧騒が嘘のように、彼が立つ場所だけが、異なる空気に包まれているようだった。
私はすぐに、貼り付けたばかりの「悪役令嬢」の仮面を被り直し、彼を値踏みするように見据えた。
「……どなたですの?私に何か御用でしょうか」
私の棘(とげ)を含んだ声にも、青年は全く動じた様子を見せない。
「これは失礼いたしました。私はアルベール・デュ・ランティエと申します」
アルベール。
その名に、聞き覚えはなかった。
少なくとも、王宮の中枢で頻繁(ひんぱん)に顔を合わせるような主要な貴族の家名ではない。
「ランティエ……?存じ上げませんわ。私に、何の用ですの。今の私に近づいても、何の得にもなりませんわよ」
私はわざと挑発するように言った。
私に近づけば、王家、ひいてはエドワード様とリリアン様の不興を買うことになる。
この男も、イザベラと同じように私の醜態を見に来た野次馬の一人に違いない。
しかし、アルベールと名乗る青年は、ふっと小さく笑みを浮かべた。
その笑みは、嘲笑とは程遠い、どこか懐かしむようなものだった。
「得になるから近づいたわけではありません。ただ……。数年ぶりに貴女(あなた)をお見かけしましたので、ご挨拶を、と」
「数年ぶり?」
ますます意味が分からない。
私はこんな男、知らないはずだ。
彼は、私の戸惑いを見透かしたように言った。
「無理もない。あの時、私はひどい格好をしておりましたから」
そう言って、彼は自分の胸元に軽く触れた。
「数年前の秋のことです。西の街道で、盗賊に襲われていた商人を助けようとして、深手を負った男がおりました」
「……!」
その言葉に、私の記憶の扉が勢いよく開かれた。
そうだ。
あれは、私がまだ十五の頃。
父の領地へ向かう途中で、街道が騒がしいのに気づいた。
護衛は「関わるべきではない」と私を止めたが、私は馬車を降りてしまった。
数人の盗賊が、商人らしい男を囲んでいた。
そして、その商人を庇うように、一人の青年が折れた剣を構えて立っていた。
すでに腕から血を流し、息も絶え絶えだったが、その瞳だけはまだ、諦めていなかった。
結局、私の護衛たちが盗賊を追い払った。
私は、当たり前のことをしたまでだ。
「……あの時の。まさか、あなたが」
「はい。あなたの護衛の方に手当てを受け、あなたの馬車で次の街まで運んでいただきました。あのままでは、命はなかったでしょう」
アルベールは、穏やかな瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「あの時、あなたの護衛は、面倒事に関わるべきではないと強く進言していました。しかし、あなたは『目の前で助けを求めている者を見捨てることはできない』と、馬車を降りられた」
「……」
「あなたは、変わらない」
その言葉が、氷の鎧を纏った私の胸に、鋭く突き刺さった。
変わらない?
何を言っている。
私は、こんなにも変わってしまったというのに。
優しかった私はもう死んだのだ。
「……戯言(たわごと)を。今の私を見て、よくそんなことが言えますわね。私は、婚約破棄された哀れな女。あるいは、復讐に燃える悪女。そうお思いでしょう?」
「いいえ。あなたは変わっていない」
アルベールは、きっぱりと言った。
「あなたは今、何かを守るために、別の戦い方を選んだだけだ。あの時、見ず知らずの私を救ったあなたの強さと、その本質は何も変わっていない」
エドワード様が私を「冷たい女」と切り捨てた。
リリアン様が私を「意地の悪い女」に仕立て上げた。
この会場の誰もが、私を「哀れな女」か「逆上した悪女」として見ている。
それなのに。
この男だけが、私を「強い」と言った。
私は、言葉を失った。
「お忘れですか?」
アルベールは、一歩私に近づいた。
その距離感は、馴れ馴れしくはないが、確かな意志を感じさせた。
「あなたに救われた命が、ここにいます」
彼は、恭しく私に一礼した。
「私は、あの日の恩を決して忘れてはいません。もし、あなたのお力になれることがあるならば、いつでも」
「……なぜ、今なのです」
私は、ようやく声を絞り出した。
「なぜ、今になって私の前に現れたの。私が力を失った、この時に」
「……再会が、たまたま今だっただけです。ですが」
彼は、意味深な笑みを浮かべた。
「あなたが戦うと決めたのなら、私は喜んであなたの剣となり、盾となりましょう。エレノア様」
そう言うと、アルベールは再び優雅に一礼し、踵(きびす)を返して雑踏の中へと消えていった。
私は、彼が消えた方向を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
アルベール・デュ・ランティエ。
一体、何者なの。
私の復讐劇に現れた、謎の役者。
彼は、敵か、味方か。
シャンパンの冷たさだけが、私の手のひらに、今の出来事が現実であったことを告げていた。
人々は私を遠巻きにし、好奇と恐怖の入り混じった視線でヒソヒソと囁き合っている。
「見たか、あのエレノア様の目を」
「まるで別人のようだ。婚約破棄のショックで、おかしくなってしまわれたのでは……」
それでいい。
哀れまれるより、恐れられる方がずっとましだ。
私は誰とも視線を合わせず、テラスの見える窓辺へと静かに移動した。
一人で冷たいシャンパンを口に含み、この戦場とも言える夜会を冷静に観察しようとした、その時だった。
「ごきげんよう、エレノア・フォン・ヴァルガス侯爵令嬢」
静かだが、不思議と芯の通った声が、すぐ傍から聞こえた。
驚いて振り向くと、そこには見慣れない一人の青年が、穏やかな表情で立っていた。
黒に近い、深い夜色の髪。
他の貴族たちがこれ見よがしに着飾る中、彼の装いは派手さはないものの、極めて上質で仕立てが良いことが一目でわかる。
何よりも印象的だったのは、その瞳だ。
すべてを見透かすような、静かで知的な光を宿している。
周囲の喧騒が嘘のように、彼が立つ場所だけが、異なる空気に包まれているようだった。
私はすぐに、貼り付けたばかりの「悪役令嬢」の仮面を被り直し、彼を値踏みするように見据えた。
「……どなたですの?私に何か御用でしょうか」
私の棘(とげ)を含んだ声にも、青年は全く動じた様子を見せない。
「これは失礼いたしました。私はアルベール・デュ・ランティエと申します」
アルベール。
その名に、聞き覚えはなかった。
少なくとも、王宮の中枢で頻繁(ひんぱん)に顔を合わせるような主要な貴族の家名ではない。
「ランティエ……?存じ上げませんわ。私に、何の用ですの。今の私に近づいても、何の得にもなりませんわよ」
私はわざと挑発するように言った。
私に近づけば、王家、ひいてはエドワード様とリリアン様の不興を買うことになる。
この男も、イザベラと同じように私の醜態を見に来た野次馬の一人に違いない。
しかし、アルベールと名乗る青年は、ふっと小さく笑みを浮かべた。
その笑みは、嘲笑とは程遠い、どこか懐かしむようなものだった。
「得になるから近づいたわけではありません。ただ……。数年ぶりに貴女(あなた)をお見かけしましたので、ご挨拶を、と」
「数年ぶり?」
ますます意味が分からない。
私はこんな男、知らないはずだ。
彼は、私の戸惑いを見透かしたように言った。
「無理もない。あの時、私はひどい格好をしておりましたから」
そう言って、彼は自分の胸元に軽く触れた。
「数年前の秋のことです。西の街道で、盗賊に襲われていた商人を助けようとして、深手を負った男がおりました」
「……!」
その言葉に、私の記憶の扉が勢いよく開かれた。
そうだ。
あれは、私がまだ十五の頃。
父の領地へ向かう途中で、街道が騒がしいのに気づいた。
護衛は「関わるべきではない」と私を止めたが、私は馬車を降りてしまった。
数人の盗賊が、商人らしい男を囲んでいた。
そして、その商人を庇うように、一人の青年が折れた剣を構えて立っていた。
すでに腕から血を流し、息も絶え絶えだったが、その瞳だけはまだ、諦めていなかった。
結局、私の護衛たちが盗賊を追い払った。
私は、当たり前のことをしたまでだ。
「……あの時の。まさか、あなたが」
「はい。あなたの護衛の方に手当てを受け、あなたの馬車で次の街まで運んでいただきました。あのままでは、命はなかったでしょう」
アルベールは、穏やかな瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「あの時、あなたの護衛は、面倒事に関わるべきではないと強く進言していました。しかし、あなたは『目の前で助けを求めている者を見捨てることはできない』と、馬車を降りられた」
「……」
「あなたは、変わらない」
その言葉が、氷の鎧を纏った私の胸に、鋭く突き刺さった。
変わらない?
何を言っている。
私は、こんなにも変わってしまったというのに。
優しかった私はもう死んだのだ。
「……戯言(たわごと)を。今の私を見て、よくそんなことが言えますわね。私は、婚約破棄された哀れな女。あるいは、復讐に燃える悪女。そうお思いでしょう?」
「いいえ。あなたは変わっていない」
アルベールは、きっぱりと言った。
「あなたは今、何かを守るために、別の戦い方を選んだだけだ。あの時、見ず知らずの私を救ったあなたの強さと、その本質は何も変わっていない」
エドワード様が私を「冷たい女」と切り捨てた。
リリアン様が私を「意地の悪い女」に仕立て上げた。
この会場の誰もが、私を「哀れな女」か「逆上した悪女」として見ている。
それなのに。
この男だけが、私を「強い」と言った。
私は、言葉を失った。
「お忘れですか?」
アルベールは、一歩私に近づいた。
その距離感は、馴れ馴れしくはないが、確かな意志を感じさせた。
「あなたに救われた命が、ここにいます」
彼は、恭しく私に一礼した。
「私は、あの日の恩を決して忘れてはいません。もし、あなたのお力になれることがあるならば、いつでも」
「……なぜ、今なのです」
私は、ようやく声を絞り出した。
「なぜ、今になって私の前に現れたの。私が力を失った、この時に」
「……再会が、たまたま今だっただけです。ですが」
彼は、意味深な笑みを浮かべた。
「あなたが戦うと決めたのなら、私は喜んであなたの剣となり、盾となりましょう。エレノア様」
そう言うと、アルベールは再び優雅に一礼し、踵(きびす)を返して雑踏の中へと消えていった。
私は、彼が消えた方向を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
アルベール・デュ・ランティエ。
一体、何者なの。
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