歪なアイのカタチ

柳田弥耶

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出逢

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 美しい夜だった。
 そうとしか表現する言葉が見つからないが、僕は敢えて言葉を付け加えることにする。つまりはその夜の描写をするのだ。
 描き、そして写す。それは僕にとって苦手なことだが、こんな夜だからこそ、僕はやはりそれに挑戦してみようと思う。
 まず最初に目に付くのは、大きな月だ。かげりを一片もはらむことなく、煌々こうこうと輝くそれは、黄金色の満月。そして月光に照らされ、純黒に限りなく近いグレーの空。そんな夜空の下に広がるのは、色彩過多のネオンと照明が、まるで地上の星のように散りばめられた街並み。
 敢えて表現するならばこんなところだろうか。
 兎に角、その日は美しい夜だった。そして、蒸し暑い夜でもあった。
 蒸し暑いという言葉からも分かる通り、季節は夏。それも梅雨明け間近の、最もじめじめとする日頃。恐らく嫌いな人も多いであろう時期だ。
 さて、そんな夜。僕は、この春ようやく働き口として手に入れた会社での職務を終え、自宅であるマンションへの帰宅途中だった。
 僕の住むマンションが建つ地域は、夜八時を超える頃には、まるで獲物を待つ肉食獣のように息を潜める。その為僕は、マンションに辿り着くまでにまさか人に擦れ違うとは、夢にも思っていなかった。そしてその擦れ違った少女に殺されるとも……。
 そう、僕は歩いていた。それも少し急ぎ気味に。何しろ残業の所為で、帰宅は夜遅くになっていたし、それにマンションに帰ってもやることは山積みだった。
 ようやく見つけた働き口。ようやく慣れてきた仕事。こんなところで昨今さっこん益々激しさを増すデフレの波に流され、リストラされるわけにはいかない。
 上司には無理するなと言われたが、少しでも役に立つということを見せなければ。
 そんなことを考えながら、僕はマンション近くにある、地下横断歩道へと入った。この場所は、ただでさえ不気味な夜の闇を、より一層鮮明にする。幾らか消えている照明も、その印象に拍車はくしゃを掛けていた。
 だからだろう。僕は反対側から歩いてくる髪の長い少女を見た瞬間、悲鳴を上げそうになった。
 距離がある程度あることやこの暗さから、その表情をうかがい知ることは出来ない。ここからでも分かる、彼女の身体的特徴と言えば、その体躯たいくが驚くほど華奢なことだ。服の袖から見える腕は、今にも折れてしまいそうだし、極端に短いスカートから伸びる足も、また細い。
 少女はそのガラス細工のような足でゆっくりと、けれど確実な足取りで近づいてくる。
 足音の感じから、恐らく少女は裸足だ。
 素足が地面を踏み締める音が、不気味に地下横断歩道の中に反響している。
 逃げなくては。
 そう思った僕は果たして異常だろうか。それとも正常だろうか。
 異常だと思った人は、しかし考えてみても欲しい。人通りの少ない真夜中に。それも年端もいかない少女が一人、裸足はだしで歩いてくる。例えオカルトめいた話を信じない人間でも、幽霊の存在を身近に感じずにはいられないだろう。
 さて、ここで僕はもう一度逃げる為の一歩を踏み出そうとするのだが、恐怖の為か身体が言うことを聞かない。そして、そもそも何処へ逃げるかという問題もある。
 僕の住むマンションは彼女の歩いてくる方向にあるので、家に逃げ込むにはどちらにしろ幽霊と対峙たいじしなければならない。かと言って、幽霊が出たと交番に逃げ込んだところで、恐らく信じてはくれないだろう。
 そうこう考えを巡らせているうちに、気付けば少女は僕の目の前にいた。
 頭上の照明に照らされ、その容貌ようぼうがようやく露見する。
 まるで今宵の夜空のように、美しい少女だ。儚さの中に、不思議な妖艶ようえんさを湛えたその相貌そうぼうに、僕は文字通り見惚れみほれてしまっていた。目を奪われていた。
 だからだろう。僕は少女がポケットから何かを取り出したことに気付かなかった。
 気付けば、いくら僕とは言え逃げていた。何処へでも。目的地などなくても。絶対に、自信を持って、逃げていた。
 何故なら少女が取り出した物は、刃渡り十センチはあろうかというナイフだったのだから。逃げないはずがない。
 だが、僕はそれの存在に気付くことが出来なかった。
 そして僕は、刺された。
「いってええぇぇぇえええ!!」
 腹部から大量にしたたる血を必死に抑えながら、僕はまるで芋虫のように、地面をのたうち回る。それも、大の大人が大声を上げて。
 のたうち回りながら僕が上を向いた時、ちょうど彼女の顔が視界に収まった。その顔には、驚愕きょうがくが色濃く張り付いている。
 それはそうだろう。
 腹部を刃渡り十センチを超えるナイフで一突きしたのだ。急所かそうでないか。何てことは全く関係なく、死んでいいなければおかしい。それなのに僕は生きている。彼女にとっては有り得ないことが、目の前で起こっているのだ。これで驚くなという方が難しい。
「あ、ああ……いてぇ……」
 しばら苦悶くもんの表情を浮かべていた僕だが、やがて痛みが嘘のように薄れていく。それだけではない。僕の腹部を深く穿うがっていた傷でさえ、まるで最初からそこに何もなかったかのように、綺麗に消える。
 残ったのは、僅かな血痕と破れたスーツとワイシャツの切れ目だけ。
 僕はスーツについた土埃を手で払いながら、立ち上がる。
 少女へ目を向ければ、未だその表情には驚愕の色が張り付いている。いや、それだけじゃない。唇が、指が、膝が、震えている。多分、未知の存在に出逢ったことによる防御反応なのだろう。
 それはそれで僕は一向に構わないのだが、これ以上刺されたら堪ったものではないので、取り敢えず少女へと手を伸ばし、ナイフを奪い取る。
「あ……」
 少女は一瞬声を上げるが、恐怖が上回ったのだろう。素直にナイフを手放した。
 僕はナイフを折り畳むと、ポケットの中へと仕舞い、兎に角この目の前のイカれた少女と、コミュニケーションを取ることにする。
「あー、君?何故こんなことをしたんだい?」
 年長者だという自覚がある所為だろうか。言葉遣いが、まるでさとすようなものになってしまった。
 しかし少女はまるで糸の外れた操り人形のように、ただ震えるだけで声を発さない。それどころか、僕が一歩近付くだけで、バランスを崩して尻餅しりもちをついてしまう始末だ。
 そのあまりの変わり様に、流石に慌てた僕は少女に手を伸ばすが、その手は勢い良く弾かれる。
 今度は僕の方が驚愕に目を見開く中、少女はいつの間に震えも止まったのだろう。僕の脇を擦り抜けて、走り去って行った。
 残されたのは僕と、そして僕の着るスーツの中にある、彼女のナイフだけ。
 ただ、この季節特有の蒸し暑い風が、残された僕を嘲笑ちょうしょうするかのように、地下横断歩道に反響していた。

 日が明けて、今日、翌日。
 相も変わらず味気のない朝食を食べる僕の視線は無意識にも、机の上に置かれた無機質な金属質へと向けられていた。
 そう。昨日少女が置いていった。正確に言えば僕が回収したナイフだ。
 僕はそのナイフを、あのまま路上に放置するわけにもいかず、昨日そのまま自宅へと持ち帰っていた。
 一見古臭く見えるそのナイフだが、何となく気が向いて、昨日の内に調べてみたところ、アンティーク物で、とても値が張ることが分かった。
 何故そんなものをあんな少女が、とも思ったが、きっとどこかの御令嬢ごれいじょうなのだろう。少なくとも僕は、あの如何いかにもな見た目とこのナイフから、偏見へんけんながらもそう判断することにした。しかし、だと言うのなら、何故彼女は靴や靴下を履いていなかったのだろうという疑問は残ってしまうのだが、それについて僕は答えを保留ほりゅうする。何しろ本人がいない以上、僕がどれだけ考えてもそれについての答えは出ない。だから考えるだけ無駄なのだ。だから僕はこの二つの矛盾に関しては目をつぶるし、そうであって欲しいと願う方。つまりは彼女が御令嬢であるといる想像を優先させる。
 だがそれだけを切り取ると、僕が令嬢好きの変態にされてしまいかねないので、あらかじめ言わせて貰いたい。貰いたいと言うよりも、一方的に言おう。僕は金持ちが嫌いだ。嫌悪感けんおかんを超えて、吐き気すら覚えるほどに。憎悪ぞうおするほどに嫌いだ。それが例え、親が財を成しているからと、そのおこぼれに預かっているだけの子供だとしても、やはり嫌いだ。
 何故こんなに僕が金持ちをみ嫌うのかというと、そんなことは単純。たった一言で済む。
 母親を奪われたのだ。金持ちに。

 僕の母親。とは言え、もうとっくの昔に親権を放棄しているから元母親、だろうか。その元母親は、美しくはあったが、普通に普通の女性だった。一般家庭に生まれ、一般家庭で育ち、そして同じく一般家庭で育った父と結婚した。
 数年後には僕。つまるところ斑鳩駿河いかるがするがが生まれ、全てが上手く進んでいると思われていた。
 そんな順風満帆じゅんぷうまんぱんの日々が壊れたのは、僕が九歳の時だった。
 当時僕の元母親には、ある程度交友のある資産家が一人いた。そして、もう名前も覚えていないその資産家は、元母親のことを相当に気に入っていたらしい。
 だが元母親は既婚者だった。つまりは僕の父と既に結ばれていた。
 だから資産家は買ったのだ。僕の祖父母と呼ばれるべき人達から。多額の賄賂わいろによって。僕の母親であった人を。
 その結果は言うべくもない。
 元母親と父は離婚させられ、元母親はその資産家と結婚。今はどうなっていることやら……。
 父は僕を男手一つで育て上げてくれたばかりか、大学にまで通わせてくれた。本当に、感謝しかない。
 こうして僕は現在、金持ちと呼ばれる部類の人間が嫌いになった。
 何でも金で解決出来ると信じるその性根が気に入らない。
 裕福ゆうふくな暮らしが気に入らない。
 困ったことなどないと言う、その無垢むくな心が気に入らない。
 結局挙げればキリがない。
 だからこの辺りにして、話の大元に戻ろうじゃないか。
 
 閑話休題。
 僕は今しがた語った嫌な思い出に、心底うんざりした表情を浮かべると、それらを仕舞い込むかのように、ナイフを机の引き出しの奥深く。それこそ誰の目にも付かない。決して見つからないであろう隠し収納へと仕舞い、仕事へと出掛けた。
 ちなみに穴の空いたスーツとワイシャツは、クリーニングに出しておいた。幾ら血が少し付いているとは言え、僕には金がない。スーツの一着、ワイシャツの一着でも、なくなってもらっては困るのだ。

 昨日遅くまで仕事をしていたのが功を奏してか、この日僕は定時で会社を上がることが出来た。幾らか仕事が残っているが、それは家で片付ければいいものばかりだし、そんなことを抜きにして、僕は人生初の定時での帰宅というものに、浮き足立っていた。
 スーパーに立ち寄り、アルコール分の少ない缶のお酒を何本か買い、そしていい心持ちのままにマンションの自室に帰って来た僕は愕然がくぜんとした。
 朝施錠せじょうした筈のドアは、乱暴に鍵が破られて、開けっ放しになっている。室内に入れば、その悲惨ひさんさはより一層浮き彫りになり、机の引き出しからキッチンの棚。衣装ケースまで、ありとあらゆる物が引っ張り出され、そして床に散らばっている。
 まるで泥棒に家探しをされた後のよう。
 ……いや、今まさに家探しされている最中か。
 部屋の奥。そこにある扉の先にあるベッドルームから、物を引っ掻き回す音が聞こえる。
 もしかして、金目の物でも探しているのだろうか。だとしたら、それはお生憎様あいにくさまだ。
 この部屋に価値のあるような物は置いていない。仮にそんなものがあるとするならば、お金に換えて今の生活を少しでも良くするのに使うだろう。だからどうしたって、この部屋に盗む物は……いや、待てよ。
 そこで僕ははたと昨日今日の出来事を思い出す。
 昨日手にいれたナイフ。あれは高価な品ではなかったか。
 だとするならば、今家探しをしているのは、昨日の少女だろうか。
 僕は慎重しんちょうに、それはもう慎重に、全く音を立てないよう気を付けながら、奥の扉まで進む。そして音を殺して中を覗き込むと、案の定と言うべきか。それとも、最早これは運命と言うべきか。部屋を散らかし放題に、家捜しにふける、昨日の少女の姿があった。
 多分…と言うより十中八九じゅっちゅうはっく、ナイフを探しているのだろうが、残念なことにその部屋にナイフは存在しない。
 このまま放って置いても面白いかと思ったが、これ以上部屋を荒らされるのも困るので、僕は仕方なく少女に声を掛けることにする。
「ここで何してるの?」
 そう声を掛けた瞬間の彼女の変化のほどは、あまりに劇的だった。
 先程まで、家主の迷惑など御構い無しに、部屋を荒らしていた少女の動きがピタリと止まった。かと思うと、カタカタと全身を震わせ始めた。
 始め自身の罪を見咎みとがめられた所為かとも思ったが、それにしては様子がおかしい。
「ちょっと君、大丈夫!?」
 慌てて駆け寄るが、原因が分からないので、どうすればいいか分からない。
 兎も角震えているのだから、毛布でも持ってきてあげればいいのだろうか。それとも、これはある種喘息ぜんそくのような症状であり、専用の薬でも飲ませるべきなのだろうか。
 あれこれ考えるものの、結局どうすれば良いか分からず、何をしようとしたでもなく、少女に手を伸ばそうとしたその時、
「触らないで!」
 それほど大きくはない。けれど、鋭く良く通る声だった。
 瞬間的に、伸ばされていた僕の手が止まる。
 その時、僕はきっと悲しい顔をしたのだと思う。
 こちらを向いた少女はしどろもどろになりながら呟くように言う。
「ご、ごめんなさい。私、触られるのは、駄目で……」
 そうか。と思い、僕は伸ばしていた手を引っ込める。
 勘違いしないで欲しいのだが、別段僕はこの発言に傷付いたというわけではない。ただ、そんな症状を持つ子もいるのだろうと、ただ妙にストンと腹の内に収まってしまったのだ。
 何故だろう。あんな出来事があった所為だろうか。いや、多分違う。僕は感じたんだ。この少女に、僕と同じ匂いを。そう、孤独という名の、寂しさを……。
 だからこそ僕は、この少女に同情せざるを得ない。
 だってそうだろう。ここでこの少女に手を伸ばしてしまったら、僕は僕の人生そのものを否定せねばならないのだから……。
 結局僕は、
「落ち着いたらリビングに来て。お茶を用意しとくから」
 それだけ伝えて、寝室を後にした。
 嗚呼、どうしてだろう。
 僕は居間に戻ると、その惨状を再び眺め、ふと感じた。
 これだけ部屋を荒らされて、妙に落ち着いている。
 空き巣に遭った者は皆、こんな感慨のようなものに捉われるものなのだろうか。
 いいや、多分違う。きっと自分の知らない未知の存在に怯え、そして何かを失ったという得も言われぬ喪失感そうしつかんに見舞われるのだろう。
 きっと、僕が異常なだけだ。
 きっと、僕と彼女だけが……。
 とは言え、お茶を用意しておくと約束をしてしまったのだ。いつまでもこんな考えに耽っているわけにもいかない。
 僕は早速、この無法地帯と化したリビングの一角から、お茶の葉の入った缶を探し出す作業に移る。
 とまぁ、これではとても大掛かりな作業に映ったように聞こえるかもしれないが、結果から言ってしまえば、缶はキッチンの床からすぐに見つかった。
 急須きゅうすに茶葉を入れ、ポットでお湯を沸かす。ついでに、散らかり放題になっていた机の上の物も退け、二人分の湯呑みも用意する。後はお湯が沸けば準備完了だ。
 僕は気長に、それこそ意味などないだろうが、散らかった持ち物の配置に意味でも見出しながら、少女を待つことにする。
 五分……。十分……。十五分……。
 少女は現れない。因みに僕も散らかった持ち物の配置に意味を見出せないままだ。とは言え乱雑に。それこそ出した途端には地面に転がった物達だ。意味など見出せなくて当然なのだが……。
 二十分……。二十五分……。三十分……。
 少女はまだ現れない。
 そろそろ温めておいた湯も冷める頃だろうか。
 僕は椅子から立ち上がり、再びポットで湯を沸かす。
 三十五分……。
 少女は、現れない……。
 出入り口は一つしかないので、有り得ないことだが、もしかしたら少女が逃げたのではと、僕が腰を浮かせたその瞬間、リビングと寝室を隔てるドアが開き、少女が姿を見せた。
 その姿は、他人には知られたくない自分の弱さを知られたことに、自己の中で上手く折り合いを付けられず、ひどく憔悴している。そんな風に僕の目には映った。
「どうぞ」
 僕がそう言って、向かいの椅子を指すと、少女は少しおっかなびっくりといった調子で、椅子に腰掛けた。
 それを見届けた僕は一言、
「お茶を取ってくる」
 と、断りを入れ、キッチンへと向かった。
 茶葉は入れてあるので、後はお湯を注ぐだけとなった急須を手に取ると、僕は急須いっぱいにお湯を注いだ。
 そしてリビングへと戻る。すると、少女は微動びどうだにもせず、椅子に座っているものだから、僕は少なからず驚いた。とは言えそれを顔に出しては、流石に年長者として情けないので、あくまで平常を保ったままに、二人分のお茶を注ぐ。そして、僕も椅子に腰を下ろした。
「じゃあまず、自己紹介から。僕は斑鳩駿河。君、名前は?」
 早速だが、僕は質問を口にした。
 これもまた勘違いしないで欲しいのだが、僕は別に、彼女の名前を聞いたからといって警察に通報する気は毛頭なかった。
 何故なら、昨日からの出来事を全て話すのは骨が折れる上に、何より僕の秘密を露見ろけんすることになってしまう。それに、部屋を荒らされたくらいなら、ただ片付ければいいだけの話だ。彼女のことだから、金目当てということもないだろう。ナイフ以外に、盗む物などない筈だ。
 ただ、僕は純粋にこの少女に興味があったのだ。
 気持ち悪いだろうか。そう思うのならば、大いに笑い飛ばして欲しい。
 二十代を迎えた男が、十代半ばの少女に興味を持つ。それは当の本人である僕でさえ、お笑い種だと思うのだから。僕がもし当事者でなければ、笑ってやりたいところだ。
 だが、現実はそう上手くはない。僕は今ここで少女に向き合っているし、変わらず当事者である。
 さて、暫く自分の世界に邁進まいしんしてしまったが、今はこの少女のことだ。
 僕は湯呑みに向けていた視線を、少女に戻す。すると、少女と視線が絡まった。だが、すぐに少女はキョロキョロとあちらこちらに視線を彷徨さまよわせるようにして、僕から目を離した。
 しかし、僕には他に目を向けるものもない。悪趣味だとは思いつつも、そのままこの少女の挙動不審きょどうふしんな様を眺めていた。
 少女は視線を何処かしらへ向けては、決まって僕の方を窺い見る。そうして、僕が少女を眺めたままなのを確認すると、焦ったように視線をまた何処かしらへ向ける。
 それはそれで面白いと僕は感じたのだが、きっと少女は耐えられなかったのだろう。
 何度か目が合った後、怯えた様子で、
東雲しののめ茉莉まつり……です……」
 一言、そう発した。
 そして、それきり俯いたまま、黙り込んでしまう。
 質問すれば答えてくれるが、どうやら会話を続ける気はないらしい。
 ならばと僕は、次なる質問を口にする。
「君は今日、昨日忘れていった…いや。正確には置いていったかな。どちらでもいいけれど、それにるいする物を取りに来た。合ってるかい?」
 少女は一瞬だけ僕の顔を盗み見ると、コクリと頷いた。
 やっぱりか。と僕は心の中で一つ納得した。
 だが、そのすぐ後、東雲は僕の期待を、もっと言えば希望を裏切る。
 僕はてっきり彼女が引っ込み思案な子だと思ったんだ。だから、僕は彼女が何か質問をしてくるとは、夢にも思っていなかった。
 だが、考えてみればそれは当然の疑問であり、僕が東雲の立場であれば、同じことを尋ねた筈だ。
「私も質問を一つ……。貴方は…死なないのですか……?」
 彼女は触れてしまった。僕が十年と少し、必死に隠し続けてきた秘密に——。
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