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鰻は、釣り損ねた。
せっかく餌に食いついたのに、まごまごしている間に糸を切られて逃げられてしまった。
そうこうしているうちに、兄は三匹釣りあげた。
僕は兄の告白のせいで釣りどころじゃなかったのに――。
何事もなかったように無邪気に笑って自慢する兄を見て、僕はなぜだか涙が滲んだ。
僕がすっかりやる気をなくしてしまったので、鰻釣りは早々に切りあげられた。兄はせっかくかかった鰻を逃してしまったからだと思い、慰めてくれた。そんな時もあるさ、と。
ボート小屋へ戻ると、ロバートとルーシーは釣りではなくカードゲームをしていた。あとで食べようと思っていた僕のデザートは、誰かに食べられていた。
兄に送られて僕たちは館に戻った。懐中電灯で足下を照らしながら。ロバートとルーシーはもっと遊んでいたかったようだけど。僕は早く戻って柔らかいベッドで眠りたかった。眠って、忘れてしまいたかった。いろんなことを――。
部屋に戻ると一番に締めきったままだった窓を開けた。ひんやりとした夜風がそよそよとカーテンを揺らす。
しゃがみこんで、窓枠に腕をのせ頬を重ねた。
星たちにところどころ覆い被さっていたたなびく雲は、風に流されいなくなっている。黒々とした緩やかな丘陵を境に、紫紺の闇に、針で開けた穴から漏れでるような細かで控えめな輝きが一面に広がる。
僕は庭を見下ろすのが嫌だった。だからずっと空を見あげていた。星が瞬き果てしなく広がる無限の宇宙を。ちっぽけな僕の存在を忘れさせてくれる、このビロードのような闇を。
笑い声が聞こえる。甲高い、金属的な笑い声が――。
ベッドから這いだして、窓からテラスを覗いた。日はもうすっかり高く昇っていた。
欄干に腰かける兄の横にネルが立っていた。兄の腕に手をかけて。背伸びするように兄に顔を近づけて。
僕はぼんやりと二人を見ていた。互いに見つめ合って話し込む二人を。
そのうちエリック卿がやってきて兄を呼んだ。兄とエリック卿は肩を組んで立ち去った。ネルはもう兄の友人たちに囲まれている。いつもと変わらない朝だ。いや、もうお昼だ――。
容赦なく照りつける日差しの下、佇む彼女をぼんやりと見ていた。彼女のきらきらと波打つ金髪を見ていた。きっと買ってきたばかりの新しいドレスを見ていた。
光沢のある白いタイトなドレスの上で光が跳ねる。彼女が少し動くたびに、白と金が絡み合って踊るように光を放つ。
たった一日会わなかっただけなのに、初めて会った時のように胸が高鳴っている。
そんな自分が、僕じゃない別の誰かのように思えた。
彼女は夢だ。きっと誰もが一度は見ることになる、夏の夜の夢。
うだるように暑い日だった。
皆、北向きの応接間にいた。重厚な赤のブロケード張りの壁は暑苦しく夏向きではない。でもこんなに気温の高い日にはこの部屋が一番涼しいのだ。
いつもなら、川か池辺りで涼んでいるのに。今日に限ってお篭もりだ。
珍しく兄が輪の中心にいる。開け放たれた窓枠に腰かけている。その横にネルがいる。白く細い顎を突き出すようにして、少し頭を傾げて微笑んでいる。柔らかな清楚な白薔薇のように。
兄は時々身体を捻り、窓の外に広がるフォーマルガーデンを眺めていた。幾何学模様の何の変哲もないこの庭も気に入らなくなってきたのだろうか――。薔薇の花をすべて摘み取ってしまったように。目に映るすべてが、兄には色褪せて見えるのだろうか。
大勢の友人に囲まれた兄は、この部屋にいる誰よりも孤独に見えた。
「ジオ!」
ぼんやりと立ち尽くしていた僕に気がついた兄が、僕を呼んだ。
「まさか今まで寝ていたのかい?」
兄の冗談に笑い声がどっとあがる。
「まさか! 勉強していたんだよ。新学期明けの実力模試のね!」
暇な皆様方とは違うんだよ、僕は! ああ、本当にそろそろ取りかからなきゃ……。
「それはお疲れ様! じゃあ、お腹が空いているんじゃないのかい? エミリー特製の鰻パイはもう食べたかい? まだたっぷりと残っているよ」
輪の中の一人が指さした部屋の一角には、いつもはないテーブルが、そしてそのうえには、お茶と切り分けられたパイやサンドイッチ、スコーンが載っている。
ミート・ティーか。もうそんな時間だったんだ。
鉛のように重い足を引きずってテーブルの脇に立つと、パイとスコーンを取り分けた。マーカスが僕のためにお茶を淹れ直してくれている。皆のいる窓際のソファーには行かずに、僕はそのままテーブル脇にあったスツールに腰をおろした。
「パイはともかく、鰻のゼリー寄せだけは頂けないね。あれのせいで英国料理の評判はがた落ちだ!」
声高に語られる声に兄が応える。
「その意見には賛成できないね! 自虐と忍耐、鰻のゼリー寄せこそ英国を正しく象徴する国民的料理じゃないか!」
兄の朗らかな声はよく響く。
「それなら残った鰻はゼリー寄せにしてもらおう!」
「誰が食べることになるかな? この罰ゲーム!」
さんざめく笑い声に包まれる兄を、壁の端っこから見ていた。そして、その横で微笑んでいるネルを――。
その日一日、一度もネルと喋らなかった。
せっかく餌に食いついたのに、まごまごしている間に糸を切られて逃げられてしまった。
そうこうしているうちに、兄は三匹釣りあげた。
僕は兄の告白のせいで釣りどころじゃなかったのに――。
何事もなかったように無邪気に笑って自慢する兄を見て、僕はなぜだか涙が滲んだ。
僕がすっかりやる気をなくしてしまったので、鰻釣りは早々に切りあげられた。兄はせっかくかかった鰻を逃してしまったからだと思い、慰めてくれた。そんな時もあるさ、と。
ボート小屋へ戻ると、ロバートとルーシーは釣りではなくカードゲームをしていた。あとで食べようと思っていた僕のデザートは、誰かに食べられていた。
兄に送られて僕たちは館に戻った。懐中電灯で足下を照らしながら。ロバートとルーシーはもっと遊んでいたかったようだけど。僕は早く戻って柔らかいベッドで眠りたかった。眠って、忘れてしまいたかった。いろんなことを――。
部屋に戻ると一番に締めきったままだった窓を開けた。ひんやりとした夜風がそよそよとカーテンを揺らす。
しゃがみこんで、窓枠に腕をのせ頬を重ねた。
星たちにところどころ覆い被さっていたたなびく雲は、風に流されいなくなっている。黒々とした緩やかな丘陵を境に、紫紺の闇に、針で開けた穴から漏れでるような細かで控えめな輝きが一面に広がる。
僕は庭を見下ろすのが嫌だった。だからずっと空を見あげていた。星が瞬き果てしなく広がる無限の宇宙を。ちっぽけな僕の存在を忘れさせてくれる、このビロードのような闇を。
笑い声が聞こえる。甲高い、金属的な笑い声が――。
ベッドから這いだして、窓からテラスを覗いた。日はもうすっかり高く昇っていた。
欄干に腰かける兄の横にネルが立っていた。兄の腕に手をかけて。背伸びするように兄に顔を近づけて。
僕はぼんやりと二人を見ていた。互いに見つめ合って話し込む二人を。
そのうちエリック卿がやってきて兄を呼んだ。兄とエリック卿は肩を組んで立ち去った。ネルはもう兄の友人たちに囲まれている。いつもと変わらない朝だ。いや、もうお昼だ――。
容赦なく照りつける日差しの下、佇む彼女をぼんやりと見ていた。彼女のきらきらと波打つ金髪を見ていた。きっと買ってきたばかりの新しいドレスを見ていた。
光沢のある白いタイトなドレスの上で光が跳ねる。彼女が少し動くたびに、白と金が絡み合って踊るように光を放つ。
たった一日会わなかっただけなのに、初めて会った時のように胸が高鳴っている。
そんな自分が、僕じゃない別の誰かのように思えた。
彼女は夢だ。きっと誰もが一度は見ることになる、夏の夜の夢。
うだるように暑い日だった。
皆、北向きの応接間にいた。重厚な赤のブロケード張りの壁は暑苦しく夏向きではない。でもこんなに気温の高い日にはこの部屋が一番涼しいのだ。
いつもなら、川か池辺りで涼んでいるのに。今日に限ってお篭もりだ。
珍しく兄が輪の中心にいる。開け放たれた窓枠に腰かけている。その横にネルがいる。白く細い顎を突き出すようにして、少し頭を傾げて微笑んでいる。柔らかな清楚な白薔薇のように。
兄は時々身体を捻り、窓の外に広がるフォーマルガーデンを眺めていた。幾何学模様の何の変哲もないこの庭も気に入らなくなってきたのだろうか――。薔薇の花をすべて摘み取ってしまったように。目に映るすべてが、兄には色褪せて見えるのだろうか。
大勢の友人に囲まれた兄は、この部屋にいる誰よりも孤独に見えた。
「ジオ!」
ぼんやりと立ち尽くしていた僕に気がついた兄が、僕を呼んだ。
「まさか今まで寝ていたのかい?」
兄の冗談に笑い声がどっとあがる。
「まさか! 勉強していたんだよ。新学期明けの実力模試のね!」
暇な皆様方とは違うんだよ、僕は! ああ、本当にそろそろ取りかからなきゃ……。
「それはお疲れ様! じゃあ、お腹が空いているんじゃないのかい? エミリー特製の鰻パイはもう食べたかい? まだたっぷりと残っているよ」
輪の中の一人が指さした部屋の一角には、いつもはないテーブルが、そしてそのうえには、お茶と切り分けられたパイやサンドイッチ、スコーンが載っている。
ミート・ティーか。もうそんな時間だったんだ。
鉛のように重い足を引きずってテーブルの脇に立つと、パイとスコーンを取り分けた。マーカスが僕のためにお茶を淹れ直してくれている。皆のいる窓際のソファーには行かずに、僕はそのままテーブル脇にあったスツールに腰をおろした。
「パイはともかく、鰻のゼリー寄せだけは頂けないね。あれのせいで英国料理の評判はがた落ちだ!」
声高に語られる声に兄が応える。
「その意見には賛成できないね! 自虐と忍耐、鰻のゼリー寄せこそ英国を正しく象徴する国民的料理じゃないか!」
兄の朗らかな声はよく響く。
「それなら残った鰻はゼリー寄せにしてもらおう!」
「誰が食べることになるかな? この罰ゲーム!」
さんざめく笑い声に包まれる兄を、壁の端っこから見ていた。そして、その横で微笑んでいるネルを――。
その日一日、一度もネルと喋らなかった。
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