夏の嵐

萩尾雅縁

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 ドアを開けたネルは美しい眉をきつく寄せて、思いきり不機嫌な顔をしていた。
「ちょっと待っていて下さる? まだ用意できていないの」
 彼女は僕を部屋に通し、自分はその横に続く寝室に戻っていった。

 通りしなのネルの、甘い香りが鼻腔をくすぐる。人工的な華やかな香りだ。彼女の香水のムスクの香り。
 僕はくるりと部屋を見廻した。窓辺のティーテーブルには朝食がのっている。運ばれてきたばかりなのか、まだかすかに湯気が立っている。壁際の暖炉には、もう僕の置いたガレの花瓶も、紅い薔薇も残ってはいない。この部屋に薔薇はない――、それなのに、かすかに交じるこの薔薇の香りは?

 その香りをたどって、暖炉の傍に歩み寄った。マントルピースに置かれた古い写真立ての前に、枯れた白薔薇が置かれているではないか。

 僕の贈った白い薔薇!

 高鳴る胸の鼓動に慄きながら、その薔薇を手に取って鼻先に近づけると、優しい香りが仄かに香った。

「それに触らないで」
 彼女の険のある高い声が背後で響いた。僕は薔薇をもとの場所に戻して振りむいた。
「この薔薇、変わった香りがするでしょう? 世界広しといえども、うちにしかない薔薇なんですよ。兄が手ずから交配した新種なんです」 

 僕は声の震えを誤魔化すように、拳をぎゅっと握り締めた。

 彼女は驚いたように花弁のような唇を開き、きゅっと横に引いて微笑んだ。
「素敵ね。私にも一株分けて下さらない?」
「――、あ、兄に訊いてみます」
 僕も無理に笑みを刷いた。

 カタン、と隣の部屋で物音がした。ネルが眉根を寄せる。腹立たしそうに吐息を漏らし、「なにか置き方が悪かったのかしら、見てくるわ」と、彼女はまた寝室に戻っていく。

 僕は勝手にテーブルにつき、勝手にお茶を淹れて飲んだ。砂糖を山盛り入れたので冷めかけた紅茶には上手く溶けず、一気に飲み下したミルクティーは、どこかざらざらと甘ったるく口に残った。しばらくの間、カップの底に溜まったどろりとした塊を、僕はじっと睨めつけていた。
 立ちあがり、暖炉の上のあの白薔薇を手に取ると、花弁をむしり取ってティーポットに入れた。そしてもう一度熱い湯を注ぐ。

 広がる芳香を胸一杯に吸い込んで、僕はカップに紅茶を注いだ。今度はミルクは入れなかった。濃い琥珀色の液体は苦く、香り高く、僕の口内を痺れさせた。

 僕のために用意されたのではない朝食も、ドア越しに聞こえるかすかな話し声も、もう、どうだって良かった。僕は立ち上がり、そっと彼女の部屋を出た。

 十把一絡げの花はいらない――。
 そう言った彼女にとって大切な、たった一本の特別な花は、あの夜会の日、兄が彼女の髪にさした兄の胸元を飾っていた白薔薇だなんて。
 香り高く、上品な、兄そのもののような白い薔薇。

 それなのに、どうして彼女は……。

 僕には彼女が解らない。さっぱり理解できなかった。




 一日中、自分の部屋に閉じ篭って、窓を開け放ち空を眺めていた。ぬけるように蒼い空。どこまでも広がる自由な空。
 窓の下ではいつもの笑い声が響いている。彼女の甲高い声と兄の友人たちの――。
 僕は、床にしゃがみ込み窓枠に頬杖をつく。彼女は、欄干に座りこちらを見ている。

 ああ、だから彼女はいつもそこにいるのか――。日に焼けるのもかまわずに。

 僕はぼんやりと彼女を見下ろす。
 僕の部屋の窓を通り越し、隣の兄の部屋をじっと見守る彼女を。

 ふっと彼女の瞳が僕を捉えた。彼女は艶やかに微笑んで、手を振った。
「ジオ! 降りていらっしゃいな!」
 彼女の甲高い声が空にぬける。
「じきに行きます。もう少しで終わるので!」

 僕は傍らの机から教科書を持ちあげ、振ってみせる。
 そして、そのままパタンと後ろに倒れ、床に寝転がった。


 白いモスリンのカーテンがふわりとなびく。
 漆喰天井に装飾された丸く連なる小さな花を、ひとつ、ふたつ、と数えてみる。
 部屋に吹き込む風は生温く、戸外の日差しはきついのに、背中に伝わる温度はひんやりと冷たく、僕の中の熱を冷ましてくれた。

 金属的な甲高い声が、また僕を呼んだ。喧騒が、僕の部屋まで追いかけてくる。彼女のあの甘い香りが忍び込む。こんなところまで――。

 早く夏が終わればいい。僕はもう僕の日常に戻りたい。

 僕はぎゅっと両手で耳を塞ぎ、目を瞑った。




 夕食の前に兄の部屋へ寄った。
 ドアを開けたとたん、ふわりとムスクが漂った。驚いて辺りを見廻した。彼女がここにいるはずもない。
 兄は、鏡の前でタキシードに着替えていた。

「兄さん、どこかへ行くの?」
「うん。お隣さんの夜会に呼ばれているんだ」

 あの香りが気になって上の空で聞いていた。兄が背中を向けている間に、きょろきょろと辺りに目を配る。ドアのすぐ横の小さな花台の上に、封の切られた手紙があった。僕は壁に向いて、隠すようにそれを持ち上げ嗅いでみた。間違いない。ネルの香りだ。


「ジオ」

 兄に呼ばれ、びくりと振り返る。慌てて背後に手紙を隠し、握り締めてポケットに突っ込んだ。

「なに、兄さん?」
「タイ、結んで」

 兄はしかめっ面をして喉元をあげ、首にかけたボウタイといまだに悪戦苦闘していたのだ。

「上級生になったら、お前もボウタイだろ?」
「兄さん、兄さんと同じ学校だよ」

 僕は笑いながら、兄の首元の黒いボウタイを蝶蝶に結んだ。まったく、兄さんの在学中は、誰がボウタイを結んであげていたんだろうね?


「今日は遅くなるの?」
 僕はベッドに腰を下ろし兄を見あげた。長身な兄の広い肩越しに、鏡を睨みつけている明るいライムグリーンの瞳と目があった。
「顔だけ出して早めに戻るよ。あいつらもいるし」
「兄さんの友達?」
 兄は鏡に向かって苦笑いして、くるりと僕に向き直った。

「じき、夏も終わるからね」

 タキシードをすきなく着こなした兄は、どこから見ても完璧な貴公子だ。上品で、気高く、どこまでも優雅で美しい。






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