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目が覚めると、僕は自室のベッドの中だった。
昨夜の記憶は、すべてが夢のように朧げで曖昧だ。でも夢じゃない。
だって、頭ががんがんに痛いもの。これが二日酔いってやつだ。
ネルと二人で残っていたウイスキーのボトルを空けたからだ。そこまでは覚えている。でも、どうやって自分の部屋に戻ったのかが判らない。
僕はぼんやり窓を眺めた。閉じられたままの窓。白いモスリンのカーテンの向こうは、柔らかな蒼が広がっている。朝の日差しが目に痛い。窓から目を逸らしてくるりと寝返りをうった。
スツールに腰かけた兄が、腕組みしたまま壁にもたれて眠っていた。タキシードを着たままだ。黒いボウタイがだらしなく首からぶら下がっている。黒のジャケットの袖口も、肘まで引きあげられ折り返されている。こんな乱暴な着方をしたら、またマーカスに怒られるのに。
こくりこくりと舟を漕ぐ兄。その身体が、時折、がくりと大きく揺れる。
「兄さん、危ない。椅子から落ちそうだよ」
腕を伸ばして兄の膝をとんとんと叩いた。
薄らと目を開けた兄はにっこりと笑って、僕のベッドに雪崩込んだ。押し倒された僕の頭をわしわしと撫でる。
「おはよう、ジオ」
僕と同じ新緑の瞳が細められ、優しく僕を見つめている。
「おはよう、兄さん」
僕も笑って兄に応えた。
「星の王子さま」
僕は同じ枕にのっかった兄の顔を、その優しい瞳をじっと見つめて呟いた。
「また、兄さんの薔薇たちは、綺麗な花を咲かせるんでしょう?」
「そうだね。害虫を駆除して、植え替えて。秋にはまた綺麗な花を咲かせてくれるよ」
「兄さんの命よりも大切な薔薇だものね」
兄は目を細めてくすりと笑った。
「僕の命よりも大切な薔薇、それはお前だよ。『僕が水をかけて、覆いガラスもかけてやって、衝立で風に当たらないようにしてやった。毛虫も、殺してやった花なんだ』」
「『不平も聞いてやったし、自慢話も聞いてやった。黙っているならそれで、どうしたの、と聞き耳を立ててやった』?」
僕も兄と同じように、サン=テグジュペリの星の王子様から引用いて応えた。
「そうだよ。僕の育てた、この世のなにより大切な、たった一輪の薔薇の花だ」
兄は手を伸ばして僕の頭をくしゃりと撫でた。
僕も兄と同じように、目を細めて笑った。
僕は両親の顔を覚えていない。僕が物心つく前に、飛行機事故で亡くなったから。兄はきっと、父のように厳しく、母のように優しく僕を慈しんで育ててくれたから、僕は自分の境遇を寂しいなんて思ったことがない。
父で、母で、頼りになる兄。そして時々、弟のように手のかかる無邪気な兄。
兄は僕の世界の中心だ。
「ネルに兄さんの薔薇を一株あげてもいい? ――この夏の思い出に」
兄の顔から笑みが消える。
「彼女のことが好きかい、ジオ?」
「うん。でも、恋じゃない。こんなもの、恋じゃなかったよ、兄さん」
僕は自嘲気味に唇を歪めた。
兄の告白を聴いた日から、僕の想いはすっかり色褪せてしまっていたのだ。狂おしいばかりの兄の想いに比べたら、僕の想いは恋なんかじゃない。とてもそうとは思えなかった。
僕の抱いていた嫉妬と憧憬は一体どちらに向けられていたのだろう? 彼女の心を掴んだ兄に? それとも、僕の大事な兄に恋する彼女に?
僕の大好きな兄に焦がれる、彼女の瞳が好きだった。
兄に呼びかけるたび感じていたあの優越感。兄が応えてくれるたび僕は確かに愛されていることを実感して、嬉しくて堪らなかった。美しい彼女には、ついに一度も向けられることのなかった、兄の優しい瞳に映っていたのは、常に僕。僕だったもの。
僕は確かに知っていた。ずっと知っていたんだ。彼女の瞳が誰を追っていたか。彼女が誰を想っていたのかを。
「彼女は、『美しいけれど、ただ咲いているだけの薔薇の花』だ」
決して僕を見なかった彼女と、彼女を美しい花としか見なかった僕。
「いつか、僕も兄さんみたいに、心から愛せる人に出会いたい。でもそれは彼女じゃないよ」
兄の胸に僕の猫っ毛の頭を摺り寄せた。小さな子どもに戻ったみたいに、腕を廻して抱きしめて甘えた。森と土の、兄の香りが僕を包む。兄は僕の背中をトントンと叩き、僕の髪をわしわしと撫でてくれた。
彼女に翻弄され、壊され、奪い取られた僕は、兄の優しい抱擁でゆっくりと満たされ再生される。
とくんとくんと繰り返される兄の心臓の音を聴きながら、いつしか眠りについていた。
眠りながら僕は考えていた。
兄がネルを嫌いな理由。兄の友人たちが彼女を嘲り弄ぶ理由。
貞操観念のない彼女。誰をも受け入れず、誰をも拒まない彼女。
自分だけの星の王子さまを求めていた、自分勝手な薔薇の花。
でも僕は知っている。本当の彼女の純粋さを。彼女の美しさの源を。
それは、与えることを知らない彼女の、強欲な純粋さ。
僕はそれを認めることも、口に出すことも、もうしない。
だって、僕の世界は、兄の掌の上だからね。
僕は、僕の世界の規範に則って生きてゆく――。
昨夜の記憶は、すべてが夢のように朧げで曖昧だ。でも夢じゃない。
だって、頭ががんがんに痛いもの。これが二日酔いってやつだ。
ネルと二人で残っていたウイスキーのボトルを空けたからだ。そこまでは覚えている。でも、どうやって自分の部屋に戻ったのかが判らない。
僕はぼんやり窓を眺めた。閉じられたままの窓。白いモスリンのカーテンの向こうは、柔らかな蒼が広がっている。朝の日差しが目に痛い。窓から目を逸らしてくるりと寝返りをうった。
スツールに腰かけた兄が、腕組みしたまま壁にもたれて眠っていた。タキシードを着たままだ。黒いボウタイがだらしなく首からぶら下がっている。黒のジャケットの袖口も、肘まで引きあげられ折り返されている。こんな乱暴な着方をしたら、またマーカスに怒られるのに。
こくりこくりと舟を漕ぐ兄。その身体が、時折、がくりと大きく揺れる。
「兄さん、危ない。椅子から落ちそうだよ」
腕を伸ばして兄の膝をとんとんと叩いた。
薄らと目を開けた兄はにっこりと笑って、僕のベッドに雪崩込んだ。押し倒された僕の頭をわしわしと撫でる。
「おはよう、ジオ」
僕と同じ新緑の瞳が細められ、優しく僕を見つめている。
「おはよう、兄さん」
僕も笑って兄に応えた。
「星の王子さま」
僕は同じ枕にのっかった兄の顔を、その優しい瞳をじっと見つめて呟いた。
「また、兄さんの薔薇たちは、綺麗な花を咲かせるんでしょう?」
「そうだね。害虫を駆除して、植え替えて。秋にはまた綺麗な花を咲かせてくれるよ」
「兄さんの命よりも大切な薔薇だものね」
兄は目を細めてくすりと笑った。
「僕の命よりも大切な薔薇、それはお前だよ。『僕が水をかけて、覆いガラスもかけてやって、衝立で風に当たらないようにしてやった。毛虫も、殺してやった花なんだ』」
「『不平も聞いてやったし、自慢話も聞いてやった。黙っているならそれで、どうしたの、と聞き耳を立ててやった』?」
僕も兄と同じように、サン=テグジュペリの星の王子様から引用いて応えた。
「そうだよ。僕の育てた、この世のなにより大切な、たった一輪の薔薇の花だ」
兄は手を伸ばして僕の頭をくしゃりと撫でた。
僕も兄と同じように、目を細めて笑った。
僕は両親の顔を覚えていない。僕が物心つく前に、飛行機事故で亡くなったから。兄はきっと、父のように厳しく、母のように優しく僕を慈しんで育ててくれたから、僕は自分の境遇を寂しいなんて思ったことがない。
父で、母で、頼りになる兄。そして時々、弟のように手のかかる無邪気な兄。
兄は僕の世界の中心だ。
「ネルに兄さんの薔薇を一株あげてもいい? ――この夏の思い出に」
兄の顔から笑みが消える。
「彼女のことが好きかい、ジオ?」
「うん。でも、恋じゃない。こんなもの、恋じゃなかったよ、兄さん」
僕は自嘲気味に唇を歪めた。
兄の告白を聴いた日から、僕の想いはすっかり色褪せてしまっていたのだ。狂おしいばかりの兄の想いに比べたら、僕の想いは恋なんかじゃない。とてもそうとは思えなかった。
僕の抱いていた嫉妬と憧憬は一体どちらに向けられていたのだろう? 彼女の心を掴んだ兄に? それとも、僕の大事な兄に恋する彼女に?
僕の大好きな兄に焦がれる、彼女の瞳が好きだった。
兄に呼びかけるたび感じていたあの優越感。兄が応えてくれるたび僕は確かに愛されていることを実感して、嬉しくて堪らなかった。美しい彼女には、ついに一度も向けられることのなかった、兄の優しい瞳に映っていたのは、常に僕。僕だったもの。
僕は確かに知っていた。ずっと知っていたんだ。彼女の瞳が誰を追っていたか。彼女が誰を想っていたのかを。
「彼女は、『美しいけれど、ただ咲いているだけの薔薇の花』だ」
決して僕を見なかった彼女と、彼女を美しい花としか見なかった僕。
「いつか、僕も兄さんみたいに、心から愛せる人に出会いたい。でもそれは彼女じゃないよ」
兄の胸に僕の猫っ毛の頭を摺り寄せた。小さな子どもに戻ったみたいに、腕を廻して抱きしめて甘えた。森と土の、兄の香りが僕を包む。兄は僕の背中をトントンと叩き、僕の髪をわしわしと撫でてくれた。
彼女に翻弄され、壊され、奪い取られた僕は、兄の優しい抱擁でゆっくりと満たされ再生される。
とくんとくんと繰り返される兄の心臓の音を聴きながら、いつしか眠りについていた。
眠りながら僕は考えていた。
兄がネルを嫌いな理由。兄の友人たちが彼女を嘲り弄ぶ理由。
貞操観念のない彼女。誰をも受け入れず、誰をも拒まない彼女。
自分だけの星の王子さまを求めていた、自分勝手な薔薇の花。
でも僕は知っている。本当の彼女の純粋さを。彼女の美しさの源を。
それは、与えることを知らない彼女の、強欲な純粋さ。
僕はそれを認めることも、口に出すことも、もうしない。
だって、僕の世界は、兄の掌の上だからね。
僕は、僕の世界の規範に則って生きてゆく――。
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