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二章
28 揺れる蝋燭
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僕は逃れられない
永遠に
廻り続けるウロボロスの環の中から
梟に連れていかれたのはボート置き場じゃなくて、寮の敷地内にある、あの空爆シェルターだった。梟は蝋燭に火を点けて周り、壁際の棚の上で変な香りのお香を焚いた。カーテンやソファーに染みついたジョイントの匂いを誤魔化すためだ。
「蝋燭が燃え尽きるまでの間だ。頑張れよ」
梟はいつものように、僕の頭をくしゃりと撫でた。
「元気だった? しばらく来られなくてごめんね」
子爵さまは、変わらず優しく上品に微笑んでくれた。
仄暗い闇の中、煌めく蝋燭の焔に浮かび上がる毅然とした子爵さま。少し元気がない。僕の顔を物悲しげに見つめて、ため息をつく。でも、努めて明るく声をかけてくれている。その声は、どこか上擦っていてわざとらしい。
「良かった。前に逢った時よりも、顔色がいいね」
あれからジョイントを吸っていない。もう二週間だ。離脱症状は抜けている。眠れないのは相変わらずだけど。それに、梟に顔色のことを煩く言われたので、無理にでも食べるようにしていたからだ。でも僕はそんなことはおくびにも出さずに、にっこり笑った。
「乗馬が楽しくて。体力をつけて、レッスン時間を増やそうかと思っているんです」
そんな気なんて、さらさらなかったけれど。
「そう。それはいい事だね」
やはり口調にいつもの溌剌さがない。
それきり会話が続かない。
「僕は、何か失礼をしてしまったのでしょうか?」
僕のためにお金を払ってまでここに来る事の馬鹿馬鹿しさに気づいたのだと、そう思った。
「え?」と子爵さまは驚いたように伏せていた視線を上げた。ローテーブルの上の蝋燭がゆらりと揺れ、子爵さまの顔に濃い陰影を落とす。
「御気分を害されたのなら、本当に申し訳ありませんでした。どうか、」
僕は押し潰されそうな気分で言葉を絞りだす。
「どうしてそんな事を言うの?」
子爵さまはくすくすと笑い出しながら尋ねた。
「なんだか、沈んでおられるようなので。僕に、失望しておられるのかと――」
「それなら、謝らなければいけないのは僕の方だよ。きみに要らぬ気遣いをさせてしまった」
子爵さまの顔から笑みが消え、深いため息に変わる。
「先日、監督生が亡くなっただろ。――僕の先輩の元親友だったんだ。そいつは死んで当然の、先輩を手酷く裏切った最低な奴だったのに、先輩はそんな事を根に持つこともなく、そいつの死を心から悼んでおられる。とても、優しい方なんだよ。いつもと変わりなく皆にお心を配って下さって、その凛としたお姿が見ていられないほど、痛々しくてね……」
子爵さまは言葉を切って、息を呑み込み、眉根をきゅっと寄せた。ぐっと我慢するように。
子爵さまの憂いの種は、少なくとも僕ではないらしい。
「きみの元気な顔を見られたら、僕も元気を分けてもらえるかと思ったんだ。――きみは、もうあんな事はさせられてはいないのだろう?」
こくんと頷いた。子爵さまの深緑の瞳が蝋燭のゆらりとした焔を映して揺れる。
「良かった」
掠れるような囁き。
あれから外の誰かとはやっていない。梟は今それどころじゃないもの。
鳥の巣頭や部屋の奴らは僕に痕はつけないし、大丈夫だ。
体育の時間の着替えの時に、僕がいかに苦労しているか知っているから。
今度こそ、子爵さまは――、と、心臓がバクバクと暴れだす。自分でも顔が上気しているのが判り、恥ずかしくてならなかった。目を伏せて、闇の中柔らかな濃いオレンジ色に照らされている子爵さまのしなやかな長い指を、もどかしい思いで見つめていた。綺麗な指。綺麗な爪。綺麗な子爵さま。
「きみ、」
びくりと飛びあがった。おずおずと重い睫毛を瞬かせて視線だけ上げた。
「じゃあ、僕はもうそろそろ行くよ」
膨張仕切っていた心から、期待がしゅわしゅわと抜けていく。蝋燭は、まだ半分以上残っている。
「きみが元気そうで良かったよ」
立ち上がった子爵さまの影が、背後の灰色の壁に長く濃く映しだされる。ゆらゆらと。子爵さまの僅かな動作で蝋燭の炎が揺らめき、影も揺らめく。まるで踊っているようだ。
天井まで伸び上がったその影は、僕を見下ろし揺らめいて、嘲笑う。子爵さまは、そんなふうに笑ったりしないのに。
僕の目から、ぽとんと零れ落ちた涙を見て、子爵さまはもう一度座り直してくれた。
「どうしたの?」
「……僕のことが、そんなにお嫌いですか?」
僕は勇気を出して訊いてみた。
何のために呼び出されたのか、本当、解らない。こんな僕のことを軽蔑していることだけは解った。単に憐れまれている自分が、堪らなく惨めだ。
何より、子爵さまに嫌われていると思うと、心がキリキリと痛かった。
それでも、僕はジョイントが欲しい。
イースター休暇に、梟はジョイントをくれると約束してくれた。学校から離れたところなら、安全だからと。
ジョイントが欲しい。
あれがないと、眠れない。白い手から逃れられない。
白い彼にも、微睡む僕にも逢えない。何者でもない僕は、白い影に犯され続けるんだ。永遠に……。
もう、消えてしまいたい――。
永遠に
廻り続けるウロボロスの環の中から
梟に連れていかれたのはボート置き場じゃなくて、寮の敷地内にある、あの空爆シェルターだった。梟は蝋燭に火を点けて周り、壁際の棚の上で変な香りのお香を焚いた。カーテンやソファーに染みついたジョイントの匂いを誤魔化すためだ。
「蝋燭が燃え尽きるまでの間だ。頑張れよ」
梟はいつものように、僕の頭をくしゃりと撫でた。
「元気だった? しばらく来られなくてごめんね」
子爵さまは、変わらず優しく上品に微笑んでくれた。
仄暗い闇の中、煌めく蝋燭の焔に浮かび上がる毅然とした子爵さま。少し元気がない。僕の顔を物悲しげに見つめて、ため息をつく。でも、努めて明るく声をかけてくれている。その声は、どこか上擦っていてわざとらしい。
「良かった。前に逢った時よりも、顔色がいいね」
あれからジョイントを吸っていない。もう二週間だ。離脱症状は抜けている。眠れないのは相変わらずだけど。それに、梟に顔色のことを煩く言われたので、無理にでも食べるようにしていたからだ。でも僕はそんなことはおくびにも出さずに、にっこり笑った。
「乗馬が楽しくて。体力をつけて、レッスン時間を増やそうかと思っているんです」
そんな気なんて、さらさらなかったけれど。
「そう。それはいい事だね」
やはり口調にいつもの溌剌さがない。
それきり会話が続かない。
「僕は、何か失礼をしてしまったのでしょうか?」
僕のためにお金を払ってまでここに来る事の馬鹿馬鹿しさに気づいたのだと、そう思った。
「え?」と子爵さまは驚いたように伏せていた視線を上げた。ローテーブルの上の蝋燭がゆらりと揺れ、子爵さまの顔に濃い陰影を落とす。
「御気分を害されたのなら、本当に申し訳ありませんでした。どうか、」
僕は押し潰されそうな気分で言葉を絞りだす。
「どうしてそんな事を言うの?」
子爵さまはくすくすと笑い出しながら尋ねた。
「なんだか、沈んでおられるようなので。僕に、失望しておられるのかと――」
「それなら、謝らなければいけないのは僕の方だよ。きみに要らぬ気遣いをさせてしまった」
子爵さまの顔から笑みが消え、深いため息に変わる。
「先日、監督生が亡くなっただろ。――僕の先輩の元親友だったんだ。そいつは死んで当然の、先輩を手酷く裏切った最低な奴だったのに、先輩はそんな事を根に持つこともなく、そいつの死を心から悼んでおられる。とても、優しい方なんだよ。いつもと変わりなく皆にお心を配って下さって、その凛としたお姿が見ていられないほど、痛々しくてね……」
子爵さまは言葉を切って、息を呑み込み、眉根をきゅっと寄せた。ぐっと我慢するように。
子爵さまの憂いの種は、少なくとも僕ではないらしい。
「きみの元気な顔を見られたら、僕も元気を分けてもらえるかと思ったんだ。――きみは、もうあんな事はさせられてはいないのだろう?」
こくんと頷いた。子爵さまの深緑の瞳が蝋燭のゆらりとした焔を映して揺れる。
「良かった」
掠れるような囁き。
あれから外の誰かとはやっていない。梟は今それどころじゃないもの。
鳥の巣頭や部屋の奴らは僕に痕はつけないし、大丈夫だ。
体育の時間の着替えの時に、僕がいかに苦労しているか知っているから。
今度こそ、子爵さまは――、と、心臓がバクバクと暴れだす。自分でも顔が上気しているのが判り、恥ずかしくてならなかった。目を伏せて、闇の中柔らかな濃いオレンジ色に照らされている子爵さまのしなやかな長い指を、もどかしい思いで見つめていた。綺麗な指。綺麗な爪。綺麗な子爵さま。
「きみ、」
びくりと飛びあがった。おずおずと重い睫毛を瞬かせて視線だけ上げた。
「じゃあ、僕はもうそろそろ行くよ」
膨張仕切っていた心から、期待がしゅわしゅわと抜けていく。蝋燭は、まだ半分以上残っている。
「きみが元気そうで良かったよ」
立ち上がった子爵さまの影が、背後の灰色の壁に長く濃く映しだされる。ゆらゆらと。子爵さまの僅かな動作で蝋燭の炎が揺らめき、影も揺らめく。まるで踊っているようだ。
天井まで伸び上がったその影は、僕を見下ろし揺らめいて、嘲笑う。子爵さまは、そんなふうに笑ったりしないのに。
僕の目から、ぽとんと零れ落ちた涙を見て、子爵さまはもう一度座り直してくれた。
「どうしたの?」
「……僕のことが、そんなにお嫌いですか?」
僕は勇気を出して訊いてみた。
何のために呼び出されたのか、本当、解らない。こんな僕のことを軽蔑していることだけは解った。単に憐れまれている自分が、堪らなく惨めだ。
何より、子爵さまに嫌われていると思うと、心がキリキリと痛かった。
それでも、僕はジョイントが欲しい。
イースター休暇に、梟はジョイントをくれると約束してくれた。学校から離れたところなら、安全だからと。
ジョイントが欲しい。
あれがないと、眠れない。白い手から逃れられない。
白い彼にも、微睡む僕にも逢えない。何者でもない僕は、白い影に犯され続けるんだ。永遠に……。
もう、消えてしまいたい――。
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