微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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三章

53 リフレイン

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 片羽の大鴉は
 地上に堕ちてなお
 冷ややかに嗤う




 コツコツと、二人分の足音が遠ざかっていく。

 僕は自分で自分の口を覆い、嗚咽を漏らさないように声を殺す。そして、灯りの届かない物陰から、立ち去っていく二つの背中を見送った。

 白い彼と、あの人は――、白い彼の友人?

 しばらくして、また別の足音が響いた。あの控え室から出てきたのは、自分の片腕をぐっと握りしめ、顔を歪ませている大鴉だった。足早にその背中が遠ざかる。


 僕は心を落ちつかせようと、大きく深呼吸する。

 
 大勢の足音とざわめきが戸口から流れ混んでくる。コンサートが終わったのだ。口々に互いを労いあう一団の中に、きょろきょろと僕を捜す、鳥の巣頭の心配そうな顔があった。






 恒例の寮の大掃除を終え、次々と帰省につく混雑を避けて少し遅めに寮を出た。迎えにきている車もまばらになった駐車場で、偶然、大鴉を見かけた。

 黒いローブのいつもの格好だ。ちょうど彼も車に乗り込むところだった。助手席に座るとき、変に右腕を庇って、ローブの裾を身体を捻って左手でたくしあげている。

 横にいた鳥の巣頭が、その車の脇に佇む若い男に会釈しているので、僕は訝しげにこいつの顔を見あげた。すると「ラザフォード卿だよ」と小声で教えてくれた。

 昨日は白い彼、今日は大貴族の子息。あの大鴉が特別視されているのも納得がいく――。

 僕たちは、なんとなく彼らの車が去って行くのを眺めてから、車に乗り込んだ。




「あの噂、本当なのかなぁ?」

 好奇心を抑えられない様子で鳥の巣頭が切りだした。

「ソールスベリー先輩の弟と今の彼が大喧嘩して、弟くんがあの鴉の子に大怪我させたっていうんだよ」
「怪我――?」
「ほら、あの子、右手にギプスを嵌めていただろう? 骨折したらしいよ、昨夜のコンサートの後に」


「そんなの――、信じられないな。あの大人しそうな子が……」

 いきなりあのときの話題を出されて動揺する僕に、鳥の巣頭はバツが悪そうな顔をして、控えめに、「まぁ、本人は転んだ、って言っているらしいけれどね」と、早々にこの話題を切りあげた。こいつは、僕が他人の噂話は嫌いだと思っているからだ。


 黙り込んだまま、昨夜のことを考えていた。

 あのときの天使くんの叫び声を聴いていた奴が、僕以外にもいたのかもしれない。でも、会話までは聞き取れなかったのだろう。かなり近くにいた僕だって、全部聞き取れた訳じゃないもの――。あのときの様子からすると、大鴉に怪我を負わせたのは白い彼だ。おそらく、白い彼が天使くんを傷つけようとして、大鴉が庇った。そういうことだと思う。けれど、大鴉も、天使くんも、その事実は伏せている、ということか。


「昨夜、ソールスベリー先輩を見かけたよ。弟さんの演奏を聴きにいらしていたんだね」

 昨夜の白い彼の剣呑とした言葉を思いだし、いったん終わったこの話題を蒸し返した。

「うーん、どうかなぁ。先輩の米国の親族嫌いは有名だからね。後見をしている奨学生の子の方の様子を見にきたんじゃないの? お兄さんも一緒だったし」
「お兄さん?」
「ほら、さっきのあの子のお兄さんだよ」

 僕が訊き返したので、鳥の巣頭は喜々として喋り始めた。話したくて堪らなかったみたいだ。今朝の朝食も取らなかったから知らなかったけれど、やはり、食堂での話題の中心は昨夜のコンサートだったらしい。久しぶりに白い彼が訪れたことで、蜂の巣をつついたような騒ぎだった、て。


 あのときの白い彼の連れは、白い彼が転校した先のウイスタン校での彼の同期で、白い彼の創った会社の一番のブレーンなのだそうだ。
 エリオット校にいた頃から、誰にでも公明正大、公平で分け隔てをしない白い彼は、その反面、親友と呼ばれる友人は非常に少ないのだそうだ。

 その彼自ら、親友と言って憚らないのが、昨夜、連れ立っていた人なのだという。


「あの問題児の後見を引き受けているのだって、その日本人の友人のためだっていうからね。きみは知らないだろうけれど、先輩がいきなり転校したのも、その日本人と同じ学校に行くためだった、って噂されているくらいなんだ」


 自身をあんなに慕っている子爵さまを裏切って、転校してしまった白い彼――。その彼を、そこまで夢中にさせている昨夜の人――。

 一気に雪崩込んできている情報量の多さに、吐息を漏らした。


「大丈夫、マシュー。疲れているんじゃないの? 昨夜もあんなに泣いて……。きみは感受性が豊かだから――」

 鳥の巣頭が僕の手をそっと握った。


 昨夜のわけの解らない感情の昂ぶりを、鳥の巣頭には、久しぶりに聴いたコンサートの演奏に感動したからだ、と説明していた。
 鳥の巣頭なんかに、話せるはずがなかった。

 俯いて眉根をよせ、唇を引き結んだ。こいつの手をぎゅっと握りしめた。こいつが、ますます心配そうな顔をして、僕を覗き込むほどに――。




 自分自身でさえ、なぜあのとき、あの言葉がああも心に刺さったのか理解できなかった。



 ――この子の容貌が、昔のきみを思い起こさせるからって、それはこの子のせいじゃないよ!


 僕は決して、天使くんにかつての自分を重ねているわけではない。
 彼を傷つけることで、あの頃の、弱い、ただ、弱くて何もできない自分の痛みを踏襲している、なんて、ありえない。



 ――これ以上、この子を傷つけないで。それはきみ自身を傷つけているのと同じだよ。


 あの人の言葉が頭の中で鳴り響く。まるで鐘の音のように。何度も。何度も。


 ――幼かったきみを、誰も守ってくれなかったのなら、僕が守るよ。きみがこれ以上幼いきみを傷つけないように、僕が守るからね。


 そんなふうに、誰かに言ってもらいたかったなんて、僕は思わない――。絶対に、思わない――。



 そんな、弱い、自分なんて、いらない。

 そんな自分なんて、殺してやる。





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