微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

157 怖くて

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 水風船が弾けるように
 膨張しすぎて
 飛び散る自我




 母がやっと部屋から出ていってくれた時には、僕はすっかり不機嫌になっていた。
「ミントチョコレートにしたんだ。これならきみも食べるかと思って」
 鳥の巣頭は母の座っていた椅子に移動して、手のつけられていないチョコレートを皿ごと持ちあげ僕に差しだした。
 僕は小さく頭を振った。

 僕が好きだったのは、梟のくれる『アフターエイト』だ。ミント味が格別好きだって訳じゃない。

「マシュー?」
 黙りこんでしまった僕を申し訳なさそうに見つめ、「ごめんよ」と鳥の巣頭は唐突に謝った。

 ほら、こういうところ、僕にはやっぱりこいつが理解できない。

「ごめんよ、僕ばかりが話しこんでしまって」

 お門違いな謝罪に、僕は無理に笑顔を作った。

「違うよ、僕が悩んでいたのはね、」

 僕が腹を立てているのはこいつに対してじゃない。息子の前で、息子の友人にしなを作り媚を売る、あのとても母親とは思えない女のことだ!

 鳥の巣頭は、僕は真面目に生徒会役員を務めていて不安に思うことは何もないのだと、ただただ母を安心させようと、懸命に言葉を選びながら喋っていたのだから。鳥の巣頭はちっとも悪くない。

「ケネスのこと」

 すっと、こいつの顔色が変わった。

 これ以上母のことで悩まされるのが嫌だったから、僕は胸中の鬱積した思いは脇に押し遣り、ずっと頭にこびりついていた銀狐のことを尋ねることにした。

「彼と、何かトラブルでもあったの?」
「いたって順調」

 眉根を寄せるこいつの深刻な表情に、僕は努めて明るく笑ってみせ、一口大のチョコレートを一つ摘まんで口に放りこむ。

「でも、僕はどうしても不安なんだよ」

 鳥の巣頭は表情を崩さない。緊張した面持ちで頷いている。

「きみ、彼に僕のことをどんな風に話したの? 僕の入院の本当の理由、彼に話したの?」

 心臓がドキドキと脈打っていた。
 もし、鳥の巣頭が頷いたら……。
 自分で訊ねておいて、返事を聞くのが怖かった。

 もし仮に、銀狐が知っていて知らない振りをしているのだとしたら、僕はもう、彼を信じることはできなくなってしまう。鳥の巣頭に頼まれて、僕の罪に目を瞑っているというのなら、それはもう僕の惹かれる銀狐ではない。

 銀狐が権力を笠に好きなように人事を決め、犯罪を黙認するような奴なら、蛇や、アヌビスと変わりない。僕はまた、踏みにじられ、支配されるだけだ。


「一学年の時の、寮長のこととか、兄の、ラグビー部の事件のことを――、それが、オックスフォードでも続いていたことも。入院は、酷いパニック障害の治療のためだった、て……」

 苦しそうに、鳥の巣頭は言葉を絞りだす。そんなこいつとは裏腹の安堵の吐息が、ほっと漏れでる。

 銀狐に、ジョイントのことを知られるのは嫌だった。あの金色の瞳が蔑みの色に染まるところなんて、想像するだけで背筋が凍る。それなのに、僕は、彼が僕の罪を呑みこんでしまうのもまた、嫌なのだ。

 高潔で、正しい銀狐。それが僕の理想とする彼。腐りきった僕の対極の存在――。矛盾する思いを常に抱え、僕は平気な顔をして日々を過ごす。知られさえしなければいいのだ。知られさえしなければいいのだ。と、呪文のように繰り返して。


「彼には、ジョイントのことは絶対に言わないで。軽蔑されたくないんだ。彼に犯罪者のように見られるのかと思うと、怖くて堪らなくなるんだ。友人でいたいんだよ」

 僕の懇願に、鳥の巣頭は厳しい面持ちで頷いた。

「ケネスは真実を知っても態度を変えたりはしないよ。だって、全部あいつらのせいじゃないか。きみは被害者なんだよ、マシュー」

 あいつらのせい、と言いながら、本当は全部自分のせいだとでも言いたそうな悲痛な顔をして、白いティーテーブルの上に置かれた僕の手を、鳥の巣頭は痛いほど強く握りしめる。僕はなんだか胸がきゅっとなって、上手く笑えない。

 僕はもう被害者ではない。銀狐が僕のしていることを知ったら、迷わず警察に突きだすに違いない。鳥の巣頭だって……。

 寮にいる間、授業にでている間、執務室にいる間、ずっと考えまいとしていた問題が、僕の中で渦を巻いて突きあげていた。それはとぐろを巻いて暴れまわり、僕をぐるぐるに掻き乱し、ぐちゃぐちゃにして押し流す。

 タガが外れてしまったように、僕は泣きだした。

 急に、本当に急に、自分のしていることが、怖くて仕方がなくなったのだ。

 僕は上手く遣れる。絶対にしくじったりしない。そう信じていたのに。今はその信念がくるりとひっくり返り、こんな愚かな僕が上手く遣れる訳がない、僕はきっと警察に捕まるか、狼に食い殺されてしまうんだ、と、そんな風にしか思えなくなっていた。

 銀狐も、鳥の巣頭も、「馬鹿な奴」と僕をあざ笑い、すれ違うことがあっても「あんな奴は知らない」と他人のような顔をする。そうなるに違いないと、この時僕は確信していた。



「マシュー? マシュー、どうしたの?」

 鳥の巣頭の心配そうな声が、頭の上を通りすぎる。ひくつく背中を、温かい手が擦ってくれている。

 こいつには、言えない。絶対に言えない。

 小さく頭を振った。何度も、何度も。



「ベッドへ行こうよ。きっと、フラッシュバックのせいだと思う。怖いんだよ。怖くて仕方がないんだよ」


 やっとの思いでそれだけ言えた。僕はこいつの首筋にしがみついて、かぶりつくようなキスをした。






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