エートス 風の住む丘

萩尾雅縁

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第一章 Ⅰ 僕を取り巻く人々

3.室内銀河

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「サラ! どこ?」

 部屋に戻るなり彼を呼んだ。玄関の靴は僕のだけだった。今、この家には他に誰もいないってことだ。だから安心して普通に声に出して。

「おう!」

 応じた声はまるでトライアングルの残響だ。空気と摩擦しあう振動がチラチラと火花をあげる。灯りの消えた部屋のなかを駆け巡る眩いばかりの閃光。懐かしい手持ち花火の輝きのように流れ落ちては消えて――

「どこにいるんだよ! 姿を見せろよ!」

 拗ねて、疲れた体をベッドへダイブさせた。くるりと寝返ると、天井へと両腕を伸ばす。指先に触れるか触れないかの距離に、たっぷん、とっぷんと金色の川が波うつ。その水底のそこかしこで鈍く、朧に瞬く蛍光色の星々。

「なんだ、コウ、えらくくたびれた顔してるな。また凝りもせずに、あいつにいびられに行ったのか!」

 波間をぽかぽかと漂いながら近づいてくる、赤い三日月が答えた。まるで笑っているかのように不自然にその身が揺れている。
 とぷんと音を立てて、その月は絡まる光の束にくるりと飛びこんだ。次の瞬間には形を変えて飛びあがる。蝙蝠こうもりのように薄くて尖った羽をパサパサと忙しなく羽ばたかせ、鱗粉のような火花を散らして――、金色の瞳孔をにっと細める。

「サラ~、いびるなんて――、彼がそんなことするわけないだろ! 失礼なこと言うなよ! 前に話した通り、あの人は文句なしの紳士ジェントルマンだよ。もう嫌味なくらいにね」

 持ち堪えられなくなった喉元から、ため息が大きく零れていた。ぷすぷすと不完全燃焼を起こしたどす黒い煙みたいなやつが。

「――アルが足りない! アルに逢いたい! なのにまだ水曜日だよ。今日、明日、明後日、まだ三日間もこなさなきゃいけないなんて……。サラ、ドラコはアルのこと困らせたりしてない?」
「馬鹿を言うな! 俺があいつを困らせるなんて、あるわけないだろ! あの頭の悪い唐変木がだな、俺の言うことをだな、まったく理解しないだけであって。だからあれはだな、」
「あー、解った、解った! もういいよ、アルの悪口言わないでよ! 僕だって、疲れてるんだからね!」

 ぷっとふくれっ面をして寝返りをうち、機関銃のような愚痴を遮った。
 どうせ訊いても無駄。
 枕に顔を埋め、息をつく。森のなかのしっとりとした下草のような虫襖むしあお色のベッドには、爽やかな香りがいまだ幽かに揺れている。このアルビーの残り香を胸いっぱいに吸いこんだ。雨の日の湿度の高い大気のように、しっとりと重く僕を潤してくれるもの。

 だけどサラは、この部屋にいると落ち着かない。忙しなく動き回り、この湿り気を追い払おうと、背中の翼を高速ではためかせる。

 ちょっと意地悪が過ぎるんじゃないかな。こと、アルビーのこととなると――。


 アルビーが、意識が戻らないままのお父さんの看病のために、予定していたドイツ留学を断念して実家に戻ることになってから、僕の魂を分け合い、火の精霊サラマンダー人形ひとがたとなったドラコは、アルビーの実家に棲むことになった。

 ドラコいわく、地の精霊グノームの末裔であり、本人はまるで自覚がないにも拘わらず精霊の霊力を過分にまとって、に困った影響を与えかねないアルビーを見張るため。
 そしてアルビーいわく、人間に過剰な悪影響を与える火の精霊サラマンダーの力を削ぎ抑制するために、ドラコを見張る、という地の精霊グノームとの約束を果たすため。

 どっちの言い分も嘘じゃない。ちょっと自分にひいき目なのもね。

 だけどドラコは、火の精霊サラマンダーの魔力の余剰分をこっそり火蜥蜴ひとかげの形に切り分けた。赤い羽、赤い身体の手のひらサイズの精霊だ。そしてここ、ロンドンにいる僕の傍に、いる。
 もちろんアルビーには内緒。フェアじゃないな、って僕だって思う。でも、ドラコだって僕を心配してくれてのことだし、僕だって、彼と暮らすことになったアルビーのことが心配だ。小さな火蜥蜴のサラが、遠く、湖水地方にいる彼らの様子を教えてくれるなら不安が和らぐ。
 それに、アルビーだって僕のことを心配して、元カレを僕の相談役に指名しているじゃないか。お互い様じゃないかな。

 などと――、僕たちは、とても互いを信頼してるとはいえない遠距離恋愛のまっただなか。

 一番大切な存在を欠いた日常は、心がぼやけて、どこか現実ではないようで。言い訳ばかりでやり過ごしてしまう。それでいて身体と神経は、忙しない時間と空間にぎゅうぎゅう圧し潰されてでもいるようで、心底疲労させられる。

 大学が始まってから、そんな日々がもう三週間も過ぎようとしている。





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