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第二話 イザリス砦に棲む獣

悪魔の化身 ~ストラグル オブ ウィクネス~ Part.2

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 そこから先に否応はなく、左手を魔方陣にかざしたヴァネッサは呪文を唱え始める。エルフ語の為、意味は不明でもつらつらと流れ出る雰囲気からして、多分呪文だろう。だがまぁ、発動しそうな気配がなければ、緊張も期待もしぼんでしまうものである、いつまでも火のついていない煙草を咥えていても馬鹿らしいだけ。

 五分は経ったか……。

 その間、意味を汲めないエルフ語の呪文を延々と聞かされていては、自分は何をしているんだろうという気にもなる。が、下手に声をかけて集中を乱したら、何が起きるか分からないので、結局レイヴンは黙っているしかなかった。

 ようやく事態が進展したのは、レイヴンがマッチを擦ろうとした時だ。杯を掲げるようにしたヴァネッサの右手に小さな火が灯ったのである。
「おぉ! 本当に発動した」
「動くと危ないぞ、小僧。いま火を点けてやる」

 そう言うと、ヴァネッサは掌の灯火に優しく息を吹きかける。すると、魔術で生み出された火は、するする細い糸の様に伸びていって、レイヴンが咥えている煙草にやる気を注いだ。
 待たされただけに吸い心地はいい。それに思わず魔術が発動した瞬間には感嘆を漏らしたレイヴンだったが、如何せん待たされすぎた。

「ちゃんと発動してよかった。良い物見せてもらったよ、けど……」
「なんだその顔は?」
「思ってたより、しょぼい」

 簡単な魔術でも、もう少し派手なものかと期待していたのもあるかもしれない。
「――それに時間が掛かりすぎだ、火を点けるのにどんだけ待たせるんだよ」
「言いたい事は分かる。しかし最初に言ったではないか、魔術の発動には時間が掛かると」
「便利かと思ってたんだが、魔術ってのは意外と不便だな」
「準備と発動までにかかる時間。その問題を解決するのに生み出されたのが魔法だ。魔力を体内で巡らせる事によって魔方陣の代わりをさせ、呪文によって発動させる、基本的には魔術と変わらん」
「規模が大きくなると、時間もかかるか」
「うむ、その通りだ。詠唱に必要な時間は効果の強さ、魔術の規模に比例する」

 頷くレイヴン。
 ヴァネッサの実演は期待外れだったが、戦いの場において魔術は実用的ではない。レイヴンにはその事実だけでも充分な収獲だったので、彼は次の質問に移る。
 獣よけはどういう仕組みなのか、だ。

「なんという事は無いぞ。見せた魔術と基本は同じ、異なるのは触媒くらいのものだ」
「獣よけに必要な触媒ってのは想像がつかねえな、何を使った?」
「ああ、これだ」

 そう言うと、ヴァネッサは革袋から瓶を取りだしてレイヴンに手渡す。中身は土色の、一見すると色黒な石のような塊だが、蓋を開ける前に悪戯っぽい笑みを視界の端で捉えたレイヴンは手を止めた。

「どうした小僧、開けんのか?」
「……中身を聞いてからにする。お前の事だ、普通の石じゃないだろ」
「開ければ分かるぞ、試してみると良い。怖がる事・・・・はない」

 馬鹿にされては退けない、売り言葉に買い言葉。
 挑発されるがままに、だがレイヴンは慎重に蓋を捻って臭いを嗅ぐ。非常に芳ばしいこの香りは馴染み深いものだった。

「糞か、狼のか?」
「いいや、もっと大物。ドラゴンの糞だ」

 そいつはなるほど、納得の代物だ。
 野生動物は臭いに敏感、卓越した嗅覚で獲物を、そして危機を察知する。例えば自分よりも強い動物の臭いが近くにあれば、野性に従って彼等は近づかない。安全に野宿するには最適な術だ。

「滅多にお目にかかれん代物だぞ? 小型龍ワイバーンならまだしも、ドラゴンは糞でも珍しい」
「まぁ……そうだけどよ……。あぁ、返す」

 龍の糞など珍品も珍品。牛を飼ってる牧場なら、それこそ狼避けの為に喉から手が出るくらい欲しい代物だし、レイヴンも価値は承知している。一ヶ月前なら彼だって驚いていたかもしれないが、今更龍のケツからひり出された物を、さもお宝のように見せられても反応に困るのだ。

 なにせ、その出所と一緒に旅までしているのだから。と、そんな考えついでに、他にもレイヴンの脳裏には、非常に趣味の悪い金策が思い浮かんだが、自分でもあまりの馬鹿馬鹿しさに、彼は考えるのを止めた。

 だが、まるでレイヴンの心を見通したかのように、ヴァネッサが笑みを浮かべる。
「小僧、いまアイリスの事を考えたか?」
「んァッ⁉ ……なんで!」
「ふふふ、伊達に長く生きてはおらんよ。町の方角を見たろう? 彼女以外に、主が町を見る理由はないからのう。――時に、吾も問いたいのだが良いか」

 こっちも尋ねた、断るのは不公平だろう。
 紫煙を吹上げてレイヴンは頷いてやった。

「人間にしては、主は魔法に詳しい。否、詳しすぎると言っていい。東の都市にいるような研究者ならば納得はゆくが、主は全くの無頼者、銃を生業とする生粋の拳銃遣いだろう。その主が一体どうやって魔法の知識を得たのだか、吾は気になってしまってのう」

 ごく自然に興味だけ。そう装ってはいるが、ヴァネッサはきっと確信を得て尋ねている、レイヴンが魔女かと尋ねた時のように。

「知り合いから聞いたんだ」
「知り合いとな? ははぁ……やはりのう……」

 言葉少なく応じたのが裏目に出たか。
 やはりヴァネッサは確信を持っているらしいが、その予想は的外れだ、絶対に。しかし真実に近づかれるよりは、そのまま勘違いさせておいた方がよく、レイヴンにはまだ、事実を紛らす策があった。

「最初に会った時から、ただならぬ気配を感じていたがのう。主がひた隠す訳だ、彼女……、アイリスは魔女だろう?」
「…………惜しい」
「惜しい? 吾も魔女だと明かしたのだ、隠さずともよかろうよ」

 実際に違うのだ、アイリスは魔女ではない。
 ただ友人の魔女の自宅をうっかり吹き飛ばして呪いを掛けられ、遠く大陸北部の住処から、西部の果てまで飛ばされただけの、どこにでもいない若い雌龍なだけである。
 嘘ならばヴァネッサに気付かれただろうが、レイヴンが語るのは必要最小限の彼女の予想と異なる事実だけである。

「アイリスは魔女ではない」
「含みがあるのう、ではない・・・・、とは――。これまた奇妙な表現をする。処女が姦通すれば女、どちらかだけで、それ以外はないぞ。魔女か、ただの女か、二つに一つだ」
「魔女じゃねえ。魔法について詳しいだけで、色々知りたくて旅をしてる」
「魔法探求の旅路と? 魔女ではない人間の女子おなごがか?」
「アイリスは好奇心が強いんだ。――それから知り合いってのは昔の仲間だ、そこに魔女がいたもんでね」
「ギャングに魔女が? ……ふぅむ、それもまた信じられんな」

 興味深そうなヴァネッサ。確かに、はいそうですか、と飲み込めるとは思えない。レイヴンにしても当事者でなければ信じなかったろうから。

「色々いたからな、きっとこっちの話の方が信じられないと思うぜ。インディアン、黒人、メヒカーノ、オーク、ダークエルフもいた、他に海の向こうから渡ってきた連中も。まるで世界の縮図だ、魔女が混ざってたって驚きゃしねえ」
「……主が図太い理由を知った気がするのう、やはり主は面白い。だが、それ故に解せん」
「元ギャングの男が、アイリスみたいのと旅する理由がか?」
「主はどうか知らんが、吾は分かっているよ。彼女が魔女ならば、まるで神話時代より伝わるお伽話のようだと言っただろう、魔女を守った騎士の話によく似ている。分からんのは魔具を求めるその訳だ 無闇矢鱈と力を欲している訳でもあるまいに何故魔具を求めるのか。今回の化物騒動に、魔具が関係していると主は知っておるな?」

 これは慎重に答えるべき問い。レイヴンの直感はそう告げていた。理由は単純にアイリスの為であるのだが、下手な理由を口にするより先に、一つ探りを入れるべきだと。

「……魔具っていっても所詮は道具だ。やけに神経質だな、ヴァネッサ」
「魔具の秘めたる力を理解していれば慎重になってしかるべきだ。吾に言わせれば、主はその片鱗を味わっているにもかかわらず、迂闊に過ぎる。本来ならば人の手に渡ってはならぬ代物なのだぞ」
「じゃあお前は、気遣って俺から盗みを働いてくれた訳だ。ありがとよ、礼を言っておく。だが余計な世話だから返してくれ、あれは俺の銃だ。呪われてようが危なかろうが、あれは俺の銃だ。手放す時は自分で決める」

 まるで主の為だぞと、そう言われているような気がしてレイヴンは熱くなっていた。ろくに知りもしない相手の計りにかけられて、勝手にあれこれ決められる、その行為を許容できる人間ならば無法者になどなってはいない。
 それにヴァネッサは、魔具に関してアイリスも知らない秘密を知っているようだ。ならば探らぬ手はないだろう。

「分からぬ男だのう、ならんと言っているのに。魔銃は諦めろ、そして他の魔具を求めることもだ。主にどのような理由があろうとも、これだけは断言できる。必ず後悔するぞ」
「……かもな」

 先の話など誰にも分からない、他人の未来となれば尚のこと。しかし、自分自身が悔やむかどうかは見当が付く。肯定しながらも、レイヴンは譲る気はないと煙草を踏み消した。

「いや、もうしてるかもしれない。それかすぐにする事になる。このまま、お前に、銃を盗られたままならな。何故、撃たなかった・・・・・・・・のかと悔やむだろうな、俺は」
「だとすれば八方塞がりだ、撃っても主は悔やむよ。しかし吾としても魔銃は渡せぬし、かといって主を殺めてはアイリスに恨まれる。……ふぅむ、難しいのう、主の事は気に入っておるから、荒事抜きで退いてもらいたいのだが」
「方法はあるだろ」

 出し抜けに、レイヴンは警戒心を解いて温和に言った。舌戦ではヴァネッサに勝てない以上、場作りとしては上出来なはずだ。

「納得させてくれ。すんなり手放したくなるように、そうしたら渡してやる」

 レイヴンの意志は鉄より固く、手放すつもりなど毛頭無いが、しかしその意志を揺るがすほどの理由があるのならば、億に一つ、いや兆に一つは、手放す可能性が無きしもあらずだ。
 それに彼としても聞いておきたかったのだ、魔銃がどういうものなのかを。潜ったいくつかの死線の中には、魔銃の力に助けられたものもあった。一時でも命を預けた銃であれば、多少なりとも愛着は湧く、いくら道具と割り切っていようとも。それなら、愛銃に付いた曰くぐらい知っておいてやりたいものだから。

 レイヴンは待った、熟考するヴァネッサの唇が秘密を語るのを、じっと……じっと……。

 だが残念ながら、静寂を破ったのは彼女の言葉でなかった。
 湖の方から銃声が響き、悲鳴が宵闇を引き裂く。
 どうやら気の早い化物が現れたらしい。

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