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第二話 イザリス砦に棲む獣
世界、滅ぼせし者 Part.1
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「……こんなに静かでしたっけ?」
レイヴン達が、音を立てないように馬車から降ると、耳をそばだてていたアイリスが囁いた。所々の窓からは明かりが漏れているのだが、物音が一切聞こえてこないのである、極限まで抑えたアイリスの声でさえよく通り、他に鼓膜を揺らす音と言えば、門から吹き込んでくる風に転がされた土煙くらいのものだった。
「しっ、あそこに誰かおります」
土煙にかすんだ影、倒れ伏せているその些細いな異変をヴァネッサは見逃さず、アイリスも彼女のそばでじっと目をこらし、その正体を見分けようとしていた。
風が弱まり、土煙の隙間、そこにあった姿は……。
「蹄鉄少年君……!」
地面に倒れたまま動かない子供の影に、敵地ど真ん中というのも忘れて、アイリスはすぐさま駆け寄った。彼女だけならばそこまで驚きはしなかったろうが、ヴァネッサも続いたことが、正直レイヴンには意外で、彼は、少年の介抱をアイリス達に任せて、周囲の警戒を続ける。
その最中、レイヴンはちらと横目で少年の様子をうかがったが、具合は、悪そうだった。
アイリスが抱き起こした少年の服は、腹の部分がべったりとした赤色に染まっていた。
……銃で、撃たれている。
「うぅ……」
「しっかりしてくださいです! ――レイヴン、どうすれば……⁈」
「とにかく血を止めなければなりません、アイリス様」
この手の傷には慣れているヴァネッサが意見を述べ、次いで、未だ御者席に座ったままのアーサーへと水を向けた。
「アーサー、布と包帯はあるかッ⁈」
「え? ええ、勿論荷台に積んでおりますが、包帯もガーゼも商品ですので、無料と言うわけにはまいりませんぞ。それに、そのような古典的な方法より、わたくしの万能薬をお使いになられた方が――」
「「いいから早くッ!」」
女性二人の――狩人と人の姿をした龍の――猛獣さえ怯ませる眼光に貫かれては、一介の商人は従うしかなく、アーサーは渋々荷台へと入っていった。
その時だった、アイリスの袖が弱く引かれたのは――。
「ねえ、ちゃん……、いたいよぉ…………」
「気がつきました? 大丈夫ですよ、蹄鉄君。わたしが傍にいますからね」
少年はアイリスの温もりを手に感じながら、朦朧とした瞳でヴァネッサを見上げていた。
「……少年よ。主のその傷は、一体何者がつけたのだ」
「おねえちゃんは、ただしかったよ……。蒼いねえちゃんは、犯人じゃなかったんだ……。みんな、食べられちゃったんだ……あいつに…………」
「あいつ……? まさかサイモンですッ⁈」
ふるふる、と少年は弱く首を振り、目にしたことを言葉にする。キャロルの殺害に疑いを持った彼は、深夜に一人、両親の目を盗んでサイモン邸を調べようとしていたのであった。
「べつの人だよ。窓から話し声が聞こえてさ、サイモンと……だれかが話してたんだ。そしたらさ……そいつが言ったんだ、じぶんが『ダークエルフを見たって証言しなかったら、あんたが困っただろう』って」
ヴァネッサはやはり無実だった。喜ばしい事実だが、誰の気持ちも晴れはしなかった。
「それからさ、こう言ってたんだ……、『キャロルを殺したのはサイモンだって』…………! ぼく驚いて、見つかって……うぅゥ…………ッ!」
「もうよい少年よ、それ以上喋るな」
「ぼく、何もできなかった…………。キャロルを殺した奴も、町の人たちを襲った奴もつかまえられないなんて……」
少年の頬を伝う悔し涙を、ヴァネッサは優しく拭ってやる。今、彼女がしてやれるのは、それくらいしかない。
「信ずる物のため、そして愛する者のためと理解していても行動に起こすことは難しいのだ、誇りに思ってよいぞ少年、主の行動は、勇敢で立派なものだからのう」
優しく囁いたヴァネッサの微笑みは、まるで子供を寝かしつける母親のそれを思わせるものだった。
「今は静かに休むとよい、主の心意気は吾が確かに受け取ったからのう。目が覚める頃にはすべて終わっている、ダークエルフの誇りと主が示した勇気に誓おう。だからこそ、我らに任せて休むとよい」
――よく、がんばったのう。
小さな、しかし偉大な勇気をヴァネッサが讃えると、少年は脱力した頬でわずかに笑うだけだった。もう、言葉を発する力さえも彼には残されていなかった。
そして…………
「あぁ! 蹄鉄君、しっかりッ! ――アーサーさん、薬はまだですッ⁈」
悲痛な声をあげ急かすアイリスだが、もうどうにもならない。蝋燭の灯が風に掠われるのと同じように、終わりの瞬間は看て取れてしまう。冷淡であっても受け止めなければならないと、レイヴンは乾いた声で言うのだった。
「……アイリス、もう死んでる」
「そんなの…………わかって、ます、わかってますけど……、だけど…………レイヴンッ!」
「どうにもならなかった、自分を責めても変わらねえさ」
変わらずレイヴンは見向きもせず冷淡に返す。
悲しむのも、涙に暮れるのも大いに結構だし嗤いはしない。それはアイリスがより温かく、人間に寄り添える証拠であるからだ、話したのはたかだか一時間、そんな見ず知らずの子供のために涙を流すなんて、そう簡単にできることじゃあない。
……とはいえ、だ。
これだけ騒ぎ倒しても、誰一人として顔を覗かせない、奇妙な、いや寒気さえ感じる静寂が続いていることがレイヴンは気に入らない。
銃把が汗で湿り気を帯びていき、不意に止んだ風が、彼の予感に現実味を持たせていった。
「……いやな感じだ、墓場にいるみたいな」
「小僧」
声を殺してヴァネッサが言う。彼女は鼻先に二度触れると、酒場を指さした。そのおかげで、レイヴンも遅れて気がついた。風上に立っていた所為で感じ取れなかった、むせ返るような血の臭いに。
こうなれば余計な言葉は、発するだけ危険が増す。身振りでアイリスの世話を任せると、レイヴンは酒場へと近づいていった。
明かりは付いている。
撃鉄あげた拳銃携えて、スイングドアを軋ませた。
ゆっくりと入る店内は…………無人、しかし争った形跡がある。
荒れた店内を見ずとも鼻腔を抜ける湿りでわかる。
爆ぜた火薬に、こぼれた酒、そこに混ざった粘性のある鉄の臭い……惨状であるのは分かり切っていた、だのにである。店内を見回すレイヴンはその不可解に眉根を深く寄せていた。
弾痕がある、拳銃もある、棚や床には粉々になった酒瓶だ。ところが、一番臭うものだけが綺麗さっぱり、敷き詰めたばかりの大理石の床みたく、床のどこにもないってのはどういうことだ。カウンターには注がれたままのグラスだってあり、数分前か、数十分前か、人がいたのは確実で、店内に臭いが充満するほどの血が流れているはずなのに、死体はおろか、血染みの一つもない。
「……やっぱり、いやな感じだな」
そいつは動物的な勘だった。長居は無用と本能が囁き、素直に従うレイヴンが踵を返して酒場を出ると、通りではアイリスが少年の亡骸を丁寧に道具屋の軒下に横たえていた。
「ヴァネッサ、どうも妙だ。中には誰も――」
取り返す物を取り返し、足早に去るべきだが、レイヴンが捉えたのはヴァネッサの表情の方である。処刑台を三白眼で睨付ける彼女の視線をたどってみれば、足取り怪しい人影が、徐々に徐々に近づいてきていた。
「止まるのだ、そこで……」
腰の投げナイフに手をかけて命令するヴァネッサは、唸るような声で感情を滲ませていた。
「何故かなどとは問うまい、理由も、なにもかも……。僅かばかりの同情もあったが、それさえも消え失せたよ。欲に溺れ、魔具に呑まれた主に質すのは一つ、覚悟の有無のみだ」
「なぜ、なんだ……ッ!」
吐き出されたのは噛み殺すように怒り。仄暗い影に包まれているが、その輪郭と声はサイモンの物である。しかし、そのどちらを見ても、聞いても、彼がこの街の長だとは誰も思わない、サイモンの表情からはありとあらゆる余裕が消え、紳士の仮面がはげ落ちしてまっていたから。
「……その理由を尋ねたいのはあなたではないですよ」
ゆっくりと、アイリスが立ち上がった。
金色の瞳はまだ悲しみに暮れている。
「問うことが許されるとしたら、それは彼らだけです。あなたに命を奪われた人達……、町を愛し真実を求めた少年、そして町に暮らす人達の幸せを祈ったキャロルさん、何故、彼らが死ななければならないんです」
「どいつもこいつもッ、なんなんだッ!」
突然、堪忍袋の尾が切れたのか、サイモンは爆発的な怒声で静寂を壊す。
「キャロル、キャロル、キャロルッ、キャロルッ! あの女がどうしたッてンだ、エェッ⁈にこにこ笑って、手を振るだけ、そんなことで町が良くなるものか! 多少勉強ができるからって、女の癖に、頭を使えだとか生意気ばかり抜かしやがる。誰がこの町を、このイザリス砦を守ってきたと思う⁈ この俺だぞッ! なのに、どいつもこいつも、あの女ばかりもて囃しやして、俺を添え物みたいに扱いやがる。誰のおかげで暮らせているか、まるで分かっちゃあいなけりゃ、感謝も尊敬もしない! 現実が見えてない連中が生きられるほど、西部は甘くねえんだ!」
アイリスは愕然とした。
人の命を奪うのには、あまりに、あまりにくだらない。
「……アイリス様はご存じないかもしれませんが、これが人間の、いえ我々が持つ嫉妬という感情なのです、欲と同じくその力は強く、人間は容易く踊らされる」
「人間モドキが分かったような口を利くんじゃねえ! てめぇなんぞに俺の気持ちが分かってたまるか! 常に妹と比べられ、馬鹿にされてきた俺の気持ちがよぉッ!」
「――御託はまだ続くのか?」
そもそも興味さえないと、レイヴンが口を挟む。事情はどうあれ、小さいプライドの為に妹殺しまでやった男の戯れ言など聞くだけ無駄で、魔具を寄越せと彼は言った。だが、サイモンがおとなしく従うはずがない。
「だ、だだ、誰が渡すか……! あれは俺のモンだ、あの力を使えば何だって出来る、どんな願いも叶うんだぜ! 魔具の力さえあれば、こんなちんけな砦じゃなく、このアトラスまるごと支配することさえ可能だ!」
一つでも強力な魔具をいくつも抱えているのなら、不可能な妄言とは言わないが、瞼を見開きタガの外れた笑い声を上げている男に、一体誰が国を任せるというのか。
無頼者のレイヴンでさえ、願い下げと言わざるおえない。
「器じゃねえよ、お前じゃあ」
「誰にも渡さねえぞ……、奴にも、お前らにも……」
ぐるぐると錯乱した瞳だけでは、言葉を解しているかさえも見極めにくいが、代わりに確かなこともある。サイモンは、完全に正気を失ってしまっているってことだ。
「そう、そうだ……、魔具は俺のモンだ……ッ! ひひ、ひゃは、ひゃはははッ!」
「話しかけるだけ無駄だ、小僧。こやつの魂は、すでに魔具によって深く呑みこまれているからのう。それに、こやつは魔具を――」
その時である、アイリスは頭上から迫る気配を感じ取った。
「――ヴァネッサ、危ないですッ!」
アイリスの発した鋭い警告に反応、ヴァネッサは見るより先に白髪翻して飛び下がり、その直後、空から降ってきた巨大な影が、ぐちゃりと――、サイモンを踏みつぶし、宵闇を引き裂く咆哮を上げた。
レイヴン達が、音を立てないように馬車から降ると、耳をそばだてていたアイリスが囁いた。所々の窓からは明かりが漏れているのだが、物音が一切聞こえてこないのである、極限まで抑えたアイリスの声でさえよく通り、他に鼓膜を揺らす音と言えば、門から吹き込んでくる風に転がされた土煙くらいのものだった。
「しっ、あそこに誰かおります」
土煙にかすんだ影、倒れ伏せているその些細いな異変をヴァネッサは見逃さず、アイリスも彼女のそばでじっと目をこらし、その正体を見分けようとしていた。
風が弱まり、土煙の隙間、そこにあった姿は……。
「蹄鉄少年君……!」
地面に倒れたまま動かない子供の影に、敵地ど真ん中というのも忘れて、アイリスはすぐさま駆け寄った。彼女だけならばそこまで驚きはしなかったろうが、ヴァネッサも続いたことが、正直レイヴンには意外で、彼は、少年の介抱をアイリス達に任せて、周囲の警戒を続ける。
その最中、レイヴンはちらと横目で少年の様子をうかがったが、具合は、悪そうだった。
アイリスが抱き起こした少年の服は、腹の部分がべったりとした赤色に染まっていた。
……銃で、撃たれている。
「うぅ……」
「しっかりしてくださいです! ――レイヴン、どうすれば……⁈」
「とにかく血を止めなければなりません、アイリス様」
この手の傷には慣れているヴァネッサが意見を述べ、次いで、未だ御者席に座ったままのアーサーへと水を向けた。
「アーサー、布と包帯はあるかッ⁈」
「え? ええ、勿論荷台に積んでおりますが、包帯もガーゼも商品ですので、無料と言うわけにはまいりませんぞ。それに、そのような古典的な方法より、わたくしの万能薬をお使いになられた方が――」
「「いいから早くッ!」」
女性二人の――狩人と人の姿をした龍の――猛獣さえ怯ませる眼光に貫かれては、一介の商人は従うしかなく、アーサーは渋々荷台へと入っていった。
その時だった、アイリスの袖が弱く引かれたのは――。
「ねえ、ちゃん……、いたいよぉ…………」
「気がつきました? 大丈夫ですよ、蹄鉄君。わたしが傍にいますからね」
少年はアイリスの温もりを手に感じながら、朦朧とした瞳でヴァネッサを見上げていた。
「……少年よ。主のその傷は、一体何者がつけたのだ」
「おねえちゃんは、ただしかったよ……。蒼いねえちゃんは、犯人じゃなかったんだ……。みんな、食べられちゃったんだ……あいつに…………」
「あいつ……? まさかサイモンですッ⁈」
ふるふる、と少年は弱く首を振り、目にしたことを言葉にする。キャロルの殺害に疑いを持った彼は、深夜に一人、両親の目を盗んでサイモン邸を調べようとしていたのであった。
「べつの人だよ。窓から話し声が聞こえてさ、サイモンと……だれかが話してたんだ。そしたらさ……そいつが言ったんだ、じぶんが『ダークエルフを見たって証言しなかったら、あんたが困っただろう』って」
ヴァネッサはやはり無実だった。喜ばしい事実だが、誰の気持ちも晴れはしなかった。
「それからさ、こう言ってたんだ……、『キャロルを殺したのはサイモンだって』…………! ぼく驚いて、見つかって……うぅゥ…………ッ!」
「もうよい少年よ、それ以上喋るな」
「ぼく、何もできなかった…………。キャロルを殺した奴も、町の人たちを襲った奴もつかまえられないなんて……」
少年の頬を伝う悔し涙を、ヴァネッサは優しく拭ってやる。今、彼女がしてやれるのは、それくらいしかない。
「信ずる物のため、そして愛する者のためと理解していても行動に起こすことは難しいのだ、誇りに思ってよいぞ少年、主の行動は、勇敢で立派なものだからのう」
優しく囁いたヴァネッサの微笑みは、まるで子供を寝かしつける母親のそれを思わせるものだった。
「今は静かに休むとよい、主の心意気は吾が確かに受け取ったからのう。目が覚める頃にはすべて終わっている、ダークエルフの誇りと主が示した勇気に誓おう。だからこそ、我らに任せて休むとよい」
――よく、がんばったのう。
小さな、しかし偉大な勇気をヴァネッサが讃えると、少年は脱力した頬でわずかに笑うだけだった。もう、言葉を発する力さえも彼には残されていなかった。
そして…………
「あぁ! 蹄鉄君、しっかりッ! ――アーサーさん、薬はまだですッ⁈」
悲痛な声をあげ急かすアイリスだが、もうどうにもならない。蝋燭の灯が風に掠われるのと同じように、終わりの瞬間は看て取れてしまう。冷淡であっても受け止めなければならないと、レイヴンは乾いた声で言うのだった。
「……アイリス、もう死んでる」
「そんなの…………わかって、ます、わかってますけど……、だけど…………レイヴンッ!」
「どうにもならなかった、自分を責めても変わらねえさ」
変わらずレイヴンは見向きもせず冷淡に返す。
悲しむのも、涙に暮れるのも大いに結構だし嗤いはしない。それはアイリスがより温かく、人間に寄り添える証拠であるからだ、話したのはたかだか一時間、そんな見ず知らずの子供のために涙を流すなんて、そう簡単にできることじゃあない。
……とはいえ、だ。
これだけ騒ぎ倒しても、誰一人として顔を覗かせない、奇妙な、いや寒気さえ感じる静寂が続いていることがレイヴンは気に入らない。
銃把が汗で湿り気を帯びていき、不意に止んだ風が、彼の予感に現実味を持たせていった。
「……いやな感じだ、墓場にいるみたいな」
「小僧」
声を殺してヴァネッサが言う。彼女は鼻先に二度触れると、酒場を指さした。そのおかげで、レイヴンも遅れて気がついた。風上に立っていた所為で感じ取れなかった、むせ返るような血の臭いに。
こうなれば余計な言葉は、発するだけ危険が増す。身振りでアイリスの世話を任せると、レイヴンは酒場へと近づいていった。
明かりは付いている。
撃鉄あげた拳銃携えて、スイングドアを軋ませた。
ゆっくりと入る店内は…………無人、しかし争った形跡がある。
荒れた店内を見ずとも鼻腔を抜ける湿りでわかる。
爆ぜた火薬に、こぼれた酒、そこに混ざった粘性のある鉄の臭い……惨状であるのは分かり切っていた、だのにである。店内を見回すレイヴンはその不可解に眉根を深く寄せていた。
弾痕がある、拳銃もある、棚や床には粉々になった酒瓶だ。ところが、一番臭うものだけが綺麗さっぱり、敷き詰めたばかりの大理石の床みたく、床のどこにもないってのはどういうことだ。カウンターには注がれたままのグラスだってあり、数分前か、数十分前か、人がいたのは確実で、店内に臭いが充満するほどの血が流れているはずなのに、死体はおろか、血染みの一つもない。
「……やっぱり、いやな感じだな」
そいつは動物的な勘だった。長居は無用と本能が囁き、素直に従うレイヴンが踵を返して酒場を出ると、通りではアイリスが少年の亡骸を丁寧に道具屋の軒下に横たえていた。
「ヴァネッサ、どうも妙だ。中には誰も――」
取り返す物を取り返し、足早に去るべきだが、レイヴンが捉えたのはヴァネッサの表情の方である。処刑台を三白眼で睨付ける彼女の視線をたどってみれば、足取り怪しい人影が、徐々に徐々に近づいてきていた。
「止まるのだ、そこで……」
腰の投げナイフに手をかけて命令するヴァネッサは、唸るような声で感情を滲ませていた。
「何故かなどとは問うまい、理由も、なにもかも……。僅かばかりの同情もあったが、それさえも消え失せたよ。欲に溺れ、魔具に呑まれた主に質すのは一つ、覚悟の有無のみだ」
「なぜ、なんだ……ッ!」
吐き出されたのは噛み殺すように怒り。仄暗い影に包まれているが、その輪郭と声はサイモンの物である。しかし、そのどちらを見ても、聞いても、彼がこの街の長だとは誰も思わない、サイモンの表情からはありとあらゆる余裕が消え、紳士の仮面がはげ落ちしてまっていたから。
「……その理由を尋ねたいのはあなたではないですよ」
ゆっくりと、アイリスが立ち上がった。
金色の瞳はまだ悲しみに暮れている。
「問うことが許されるとしたら、それは彼らだけです。あなたに命を奪われた人達……、町を愛し真実を求めた少年、そして町に暮らす人達の幸せを祈ったキャロルさん、何故、彼らが死ななければならないんです」
「どいつもこいつもッ、なんなんだッ!」
突然、堪忍袋の尾が切れたのか、サイモンは爆発的な怒声で静寂を壊す。
「キャロル、キャロル、キャロルッ、キャロルッ! あの女がどうしたッてンだ、エェッ⁈にこにこ笑って、手を振るだけ、そんなことで町が良くなるものか! 多少勉強ができるからって、女の癖に、頭を使えだとか生意気ばかり抜かしやがる。誰がこの町を、このイザリス砦を守ってきたと思う⁈ この俺だぞッ! なのに、どいつもこいつも、あの女ばかりもて囃しやして、俺を添え物みたいに扱いやがる。誰のおかげで暮らせているか、まるで分かっちゃあいなけりゃ、感謝も尊敬もしない! 現実が見えてない連中が生きられるほど、西部は甘くねえんだ!」
アイリスは愕然とした。
人の命を奪うのには、あまりに、あまりにくだらない。
「……アイリス様はご存じないかもしれませんが、これが人間の、いえ我々が持つ嫉妬という感情なのです、欲と同じくその力は強く、人間は容易く踊らされる」
「人間モドキが分かったような口を利くんじゃねえ! てめぇなんぞに俺の気持ちが分かってたまるか! 常に妹と比べられ、馬鹿にされてきた俺の気持ちがよぉッ!」
「――御託はまだ続くのか?」
そもそも興味さえないと、レイヴンが口を挟む。事情はどうあれ、小さいプライドの為に妹殺しまでやった男の戯れ言など聞くだけ無駄で、魔具を寄越せと彼は言った。だが、サイモンがおとなしく従うはずがない。
「だ、だだ、誰が渡すか……! あれは俺のモンだ、あの力を使えば何だって出来る、どんな願いも叶うんだぜ! 魔具の力さえあれば、こんなちんけな砦じゃなく、このアトラスまるごと支配することさえ可能だ!」
一つでも強力な魔具をいくつも抱えているのなら、不可能な妄言とは言わないが、瞼を見開きタガの外れた笑い声を上げている男に、一体誰が国を任せるというのか。
無頼者のレイヴンでさえ、願い下げと言わざるおえない。
「器じゃねえよ、お前じゃあ」
「誰にも渡さねえぞ……、奴にも、お前らにも……」
ぐるぐると錯乱した瞳だけでは、言葉を解しているかさえも見極めにくいが、代わりに確かなこともある。サイモンは、完全に正気を失ってしまっているってことだ。
「そう、そうだ……、魔具は俺のモンだ……ッ! ひひ、ひゃは、ひゃはははッ!」
「話しかけるだけ無駄だ、小僧。こやつの魂は、すでに魔具によって深く呑みこまれているからのう。それに、こやつは魔具を――」
その時である、アイリスは頭上から迫る気配を感じ取った。
「――ヴァネッサ、危ないですッ!」
アイリスの発した鋭い警告に反応、ヴァネッサは見るより先に白髪翻して飛び下がり、その直後、空から降ってきた巨大な影が、ぐちゃりと――、サイモンを踏みつぶし、宵闇を引き裂く咆哮を上げた。
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