星間のハンディマン

空戸乃間

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第一話 Killer Likes Candy

Edge of Seventeen 14

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 振り向いたヴィンセントに、トンっ――とノーラが抱きついていた。

 驚きのあまり声も出ない、思考力が飛んでいき、戻った時には左脇腹に灼けるような痛みが走る。じわりヴィンセントのシャツに拡がる赤い染み。
 ノーラはヴィンセントに抱きついたのだ、その手にナイフを握りしめて。

「ぐッ……⁉」
 ケータイを手放し、ノーラを突き飛ばすヴィンセント。傷口を押さえ銃を構える。嵌められた。後悔も、理由も置き去りで、闇の中に浮かぶノーラの顔目掛けて拳銃を閃かせた。
 彼女はニィイィと嗤う――限界まで口角をつり上げた笑みは髑髏が笑っているかのよう。

「うふふふ、あ~あ、抵抗するから……痛かったでしょヴィンスさん」
 撃つことに躊躇はなく、ノーラに向けてヴィンセントは発砲したが、銃爪が落ちるより早く、ノーラの姿は闇に失せていた。
「はずれ~、キャハハハハ! あれ? どこに逃げるの~?」

 閉所は駄目だ、距離を取れ。
 嘲笑響く闇を睨み、ヴィンセントは痛む身体で豪雨の中へと歩み出る。容赦なく叩きつける雨にシャツを張り付かせながら十字路の方へと下がる。腕が、足が鉛のように重い。

「く、そ…………」
 目が慣れたおかげでビルの窓明かりだけでも照準には十分。激痛でトびそうになる意識を気力で繋ぎ止め、少しでも距離を取ろうとヴィンセントは退がる。牛歩だろうが距離を稼がなければ、ナイフの間合いに入られたら勝ち目がない。

 突然に弱くなる雨、クリアになる世界、だがヴィンセントの視界は暗くなる。

 ――目を開けろ。

 見なければ撃てない、瞼を閉じれば死ぬ。鼓動から一つ遅れて鈍痛が体中を駆け巡った。出血は治まらず、左手は血のぬめりに覆われていく。
 戸口は地獄の深淵が如くぽっかりと口を開けていて、銃口も視線も逸らせない。

 がり――……、
            じゃり――……、

 割れた硝子を踏みつけてノーラは戸口に立っていた。ふらりふらり、彼女は振り子のように揺れてやってくる。双眸に暗い影を落とし、引き攣らせた笑みを満面に張り付かせながら。

「な~んだ、まだそんなところにいたんですか? 死んじゃいますよ~」

 餓狼のようにノーラは口元を撫でた。がり、がり――……と飴玉を噛み砕く音が雨に混ざる。欠片の付いた歯を剥いて嗜虐の笑みを浮かべながら彼女は雨の中へと踏み出す、手にしたナイフは猛獣の牙だ。
 その変わりように動揺しながらも、ヴィンセントの本能が高らかな警報を発する特大級のアラームを認識し、ノーラこそが連続殺人犯だと確信出来た。あの笑みは、およそヒトが讃えていいものではない。そして死を降り撒く狂狼と目が合った時彼は見てしまった、酷く濁ったノーラの眼に写った自らの死を。
 腹を刺され満足に走ることさえままならず、このままでは逃げ切れない。今だってノーラの気分で生かされているようなものだ、――生き残るには殺るしかない。

 獲物に飛びかからんとノーラが前傾姿勢を取るのを察知し、銃爪を絞るヴィンセント。
 ――発砲、5・7㎜の反動が傷口を揺さぶる。

「――ぐッ……!」

 だが、激発よりも僅かに早く地を蹴ったノーラは、低く低く、這い寄る影の如く上体を屈めて、銃弾をくぐり抜けながらヴィンセントに迫る。
 黒服が闇に溶け込み照準を曖昧にし、白髪が死を呼ぶ。

 ヴィンセントは悟っていた、踏み込まれたら終わりだと。ナイフの間合いに入られたら詰みだ。しかし、接近を嫌うヴィンセントが続けざまに数発発砲したが、ノーラは銃弾がどこに飛んでくるのか判っているかのように最小限の回避行動で迫ってくる。

 ヴィンセントは僅かに後退、その足取りもおぼつかない。
 しかしここが反撃の機会。ここしか勝機はなく、ロクに足が動かず退けぬのならば、撃ち倒して生き残るのみ。
 至近距離、照準も完璧だった。だが、ノーラは足を前後に大きく広げ、地を嘗めるほどに低く姿勢を落とす事で銃弾をかわしてみせる。

 ――速い。

 それでもヴィンセントはその動きを追えている、ぎょろりと必死に動く眼球は彼女の姿を捉えていた。拳銃の陰に僅かに覗く、見紛う事なき白髪を。
 ノーラは既に銃の間合いの内側に踏み込んでいた。光りの失せた、しかし鋭い獣の眼差しでヴィンセントを見上げていて、その下、彼女の右手には鋒鋭利な刃。

 咄嗟、ヴィンセントは後ろに飛ぶ、

 吹き上がる白刃、

 銃を持つ手に衝撃、

 切り飛ばされた銃身が舞い、跳ねる、

 退がるのが遅れていれば手首から先が――。

 狼狽えるヴィンセントを追い、間髪入れずにノーラは彼の首を鷲掴みにした。少女の細売れからは考えられない怪力でヴィンセントを重力から引き剥がすと、そのまま背中から地面に叩きつけ、馬乗りに跨がる。



 背中から落とされたヴィンセントは息が詰まり叫ぶことも出来ず、ボロ人形のようにされるがまま。だが大人しく殺されはしない、電気信号に眩む視界でも彼の右手は反撃手段を得る為に、右脇のホルスターへと飛んでいた。掴んだ銃把の感触は生の可能性。

 しかしその抵抗すらノーラの掌の上だった。

 銃把を掴み引き抜く刹那、彼女の膝がヴィンセントの腕を押さえ込んだのだ。いくら藻掻いても銃を掴んだ右手はびくともせず、手負いだろうが関係なく力負けしていた。少女が出せる力ではない、これは薬物によって引き出されたものだ。
 ヴィンセントが足掻けば足掻くほどにノーラは悦に入り、狂気に酔いしれながら覆い被さると、口付けんばかりに顔を寄せた。鼻腔を抜ける恐怖の香りをひとしきり楽しむと彼女は囁く。が、その意味をヴィンセントははっきりと解さない。朦朧とした意識には全てが虚ろで、現実感が消えていく。生き死にも、生殺も。緩やかな終焉が彼を包み込もうとしていた。

 あるいはノーラのナイフが締めくくるか。ゆっくりと振り上げられたナイフは断頭台の刃、昇りきれば落ちてくる、命を刈り取る為に。
 ノーラはまるで微笑んでいるかのようだった。

「じゃーねヴィンスさん、ありがとう・・・・・

 死の淵にありながら、ヴィンセントの右手は無意識でも銃を抜こうとしていた。勿論抜けやしない。死に体の彼は死体に変わるの待つだけのタンパク質の塊と同義……。

 ところが振りかぶられたナイフがヴィンセントを襲うことはなく、代わりに響いたのは目標を外した7・62㎜の高らかな炸裂音。ノーラは弾けるようにヴィンセントの上から飛び退き、貸し出し所の影へと身を隠した。

 ノーラの腸は煮えくり返っているのだろう、隠れてこそいるが、食事の邪魔をされたギラつく獣の形相でヴィンセントを凝視し続けている。猟奇殺人を繰り返してきた犯人が、正に絶頂を迎える寸前で邪魔が入ることを許せる筈がなく、血に餓えた吐息を撒き散らしながら、彼女はヴィンセントを睨んでいた。

 さぞ歯痒いだろう、撃ったのは虎女だろうか。
 虎女の狙いもまたノーラだったのだと、今更ながらにヴィンセントは思った、そしてまだ残っていたということは考えが見透かされていたことになる。

 ヴィンセントは自らの間抜けさを呪いながらビルに向けていた視線をノーラへと戻す。まだ終わっていないのだ、一度殺しあいが始まれば、終わるのはどちらかがくたばった時だけ。銃すら満足に抜けない状態から気力で彼は持ち直したが、奇妙なことにノーラは彼を見ていなかった。

 括る寸前だった獲物に対して興味を失ったかのように、その目は貸し出し所の方を向いている。やがて嗜虐の笑みを白んだ顔に浮かべると、ノーラは深淵の闇にすぅ、と姿を溶かして消えた。
 不可思議な引き際だったが、罠でも何でもなくノーラは退いていた。だが逃げた風とはまた違う。泥沼に沈んでいく意識を繋ぎ止め、ヴィンセントは思考を巡らせる、刻んだ笑みには意味があるはずだ。

 あいつは何を見ていた……?
                一体何を…………
      何が可笑しかった? あの笑みが指すのは……

「……しまった…………、まさか、嘘だろ……」
 痛む身体を引き摺り、貸し出し所まで這いずり戻るヴィンセント。血溜りの傍で、ケータイの液晶画面が明るく光っている。

 彼女は会話を聞いていたし、その話し相手がルイーズであることも気付いただろう。顔は割れてしまっている、他の誰でもなくヴィンセントが引き合わせてしまっていた。そして、ノーラが嗤ったということは――。

 身体を起こして壁に寄り掛かりケータイを掴む。画面は血だらけで文字は読めないが、見慣れた画面は一部だけでもケータイの状態を知るには十分だった。まだ通話中になっている。

「よぉ、ルイーズ」
『ヴィンス⁉ よかった、貴方、無事なのね』
 ルイーズは今にも泣き出しそうな声だった。
「あぁ……なんとかな。いつも通り、な」

 強がりにもほどがある。ケータイすら重く、耳にあてがうだけでも体力が無くなっていくのが分かる。酷く寒い、気を抜くと眠ってしまいそうだ。細い意識を繋ぐ気力もいつまで持つか。

『――――ンス、――てい……の⁉ ヴィンスッ⁉』
「あ? あぁ……がなるなよ、ちゃんと聞こえてっから」

 一瞬気を失っていたらしい、完全に落ちるのも時間の問題だった。床の血溜りも広がり傷口を押さえている手の感覚も曖昧になってくる、温かい血液が境界を無くしているのだ。どうせ止血も出来ない状況では助かる見込みもほとんど無い、その時間を使ってでも伝えなければと彼は思う。

「ルイーズ、事務所から離れろ」
『な、何を言い出すのよ、いきなり』
「家にも帰るな……、ダンが戻ってくるまで身を隠せ……街を出るんだ。あいつは、お前も殺すつもりだ、俺への当てつけに……」

 どうしようもなく誤魔化せないのは彼が一番知っている。ルイーズだって馬鹿な女じゃない、勘付いた彼女は涙に擦れた声だった。
『あなた……』
 強がって笑うだけでもキツく、意地も張れなくなったらいよいよだ。だが、沈み逝く意識の中でヴィンセントはスピーカー越しの環境音が引っ掛かった、――車の走行音である。

「ルイーズ……どこにいるんだお前……?」
『どこだっていいでしょ⁉』
「馬鹿なこと考えるなよ。ダメだ、ここには来んな……」
 無力な彼女が来たところで出来る事などありはしない、なにより危険だし、こんな姿を見せたくなかった。
「頼む……」
『イヤよッ!』

 クラクションとスキール音、ヴィンセントは虚ろにそれらを聞いた。ルイーズの声も。よく通る、色っぽい声だった。妖しく微睡む月華のようで、されど内は澄み渡る。大事なことがなんなのか、ちゃんと弁えているいい女だ。誘惑多い世界だが、心を歪めずいてほしい。凛と咲く花の如く、艶やかにそして清らかに。

 冥府へ続く坂を転げながら、ヴィンセントは呟いていた。過去の自分への警告か、それとも懺悔の言葉なのか。遂に限界を迎え、彼の手が力なく血溜りに沈む。
 ルイーズの呼びかけは誰の耳にも届かない。
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