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四十九. 彩
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瞬きをする。一度、二度、そして三度。繰り返すこと何度目だろうか。どこかに溜まっていたのであろうそれは、ついにホロリと頬を伝った。
──これは……?
微かに滲んだ視界はどこか心の奥のほうを投影しているのではないかと思える程に曇っており、覗き込もうと目を凝らすと逃げるようにして溢れ落ちる。
──これは……私の、涙……?
それを確かめるようにそっと指で拭う。恐怖か、安堵か。いや、それに意味などないのかもしれない。
少なくともキュロロ自身にその自覚はなかったのだ。
──脆いのね。本当に。
瞬きをする。一度、二度、そして三度。この雫を出し切れれば何か変わる。そんな予感と加えることもう一つ。
元の自分が現れるのでないか、戻ってくるのではないかという淡い期待も添えられた。
涙。そう、改めて思う。そのレンズを通して見る空は、息を呑むほど綺麗な茜色を映している。これを曇っているというならば、それはやはり自分の心がそうなのだろう。
ならば、と三度瞬きを繰り返す。迷いはある。しかし、それでも、無意識だとしても、確かに自分は前を見ている。いや、見ているはずなのだ。
もちろん、方法など知り得ない。しかし、この気持ちは絶対に自分のものだ。迷いはある。それでも確かに、自分は前に進みたいと思ったのだ。
──このレンズが私の心を映すのならば、この空は私の心だ。
最後に一度だけ目を閉じる。そして、伝う軌跡に決意する。
──この色はきっと、“私の色”だ。
◇
その刃はどこか格別で、一刀毎に心が跳ねた。ギリギリを掠めていく刃はどこか昔の記憶を連れてくるようでいて、ただただ華麗なのである。今こうして我が身が削がれる感覚でさえ、湧き上がるような高揚感を覚えてしまうほど美しい。
まるで二十年もの昔に還ったかのように青くも暖かな感覚は、やはり一味も二味も違うというのだろう。
ラウンデルは鬼気迫る一太刀から逃れるように身を捻る。見慣れた太刀筋は良くも悪くも変わっていない。
血の匂いと共に込み上げてくるこの気持ちが長年の蓄積なのだとしたら、感情としては些か歪である。懐かしさとも取れるが、単にそういったものでもないのだろう。
ラウンデルは今、首を傾げている。
──はて、こんな気持ちは久方ぶりでありますなあ。
追い求めるようにふらふらっと長い爪を刃へと向け、そして、指を開く。もし、掴めるなら……手に触れることができたなら……今度は何を見せてくれるのだろうか。
斬られるならそれもまた良しである。得られるものがあるならば、負傷などは厭わない。代償とするならば、その痛みは糧であるのだ。
ラウンデルの瞳に狂気が宿る。
奥へ、深みへ、内側へ。身を焦がすような衝動は、かつての好奇心と呼べるものに近い。
しかし、遅い来る刃に手を伸ばせば、もどかしくも波が引くようにそそくさと逃げてしまう。斬ることも、触れることもなく、されど、突き放すように。
その空気を察したのだろう。相手は慎重に距離を取ることを選択したようだ。
では仮に、今度は首を差し出したとすれば、その刃は自身を通り抜けてくれるだろうか、もしくは、それでもその波は引いてしまうのだろうか。
──否である。
「不意打ちとは味な真似を。一度決めると形振り構わないところなど、やはり少しも変わっていませんなあ、ユゲン」
「そりゃないぜ、ラウル。言ってたじゃないか、不意打ちでも何でも受け入れる、と」
気付けば互いの口元には笑みさえ浮かんでいた。
「それほどまでに、返して欲しいということですかな?」
「半分だ。お前に持たせておくものじゃない。それに狙っているのはそれとは違うぜ。忘れたのか? 俺はお前を探していたと言ったはずだぞ」
その言葉にラウンデルは大きく頷く。
「そうでしたな。して、それはフリージア様の遺志であると?」
その言葉にユーゲンフットは黙り込む。
「そうであるならば……いえ、認めるというのであれば、ですかな。確かに、これは私が受けるべき刃でありますな」
「……渡せ、とは言わんさ」
少し間の後、ゆっくりと口を開く。
「と、言いますと?」
「初めからだ。初めからそいつで仕留めるつもりはないぞ」
──段々と戻ってきましたなあ。
「貴殿は未だ立ち直っていないと見える。……可哀想に」
「挑発か。全く器用な男だ。しかし、相手を選ぶべきだ。策に溺れてもお前を助ける者はもういないのだからな」
お互いひねくれている。これは挑発などではないのだ。ほんの悪戯であり、言い換えればただの意地悪なのである。
それを察しているのか、それともどこかで躊躇ったのかはわからない。反応こそするものの、やはり下手にユーゲンフットが動く様子はなかった。
例え、もしそれがただの意地であるとしても、それはそれで大したものだといえる。自制ができているのだから。
「はて、それはどういう意味ですかな?」
「仕返しというつもりなら、俺のはそれほど棘はないということだ」
ラウンデルは小さく嗤う。やはり、バレていたようだ。さも面白くなさそうに、足で土を蹴っている姿がどこか昔を思い出させてくれる。
そうだ、彼はそうやって踏み留まるのだ。
「なるほど。確かに不意打ちなど可愛いものでしたな」
「ここでいつまでも遊んでいるわけにはいかない。わかるな?」
確かに彼の言う通りで、少し戯れが過ぎたのだろう。それでもまだ、まだもう少しは付き合ってもらわねばとラウンデルは強く願う。
何故ならこんな楽しみなど、そうないのだから。
「では、そろそろ仕切り直しとしますかな? 非情なる天才、青鬼のユーゲンフットよ」
「そうでもないさ。お前ほどじゃない。慧眼と謳われし羅刹、赤鬼のラウル」
──戻ってきた。
心の中で歓喜する。
あの頃の天才が──。
バルビルナの──青鬼が。
迷うことなく短刀を放り投げる。こんなものはもういらない。
くるりと舞うそれは、色付いた空に一点の煌めく雫を連想させた。
◇
目を伏せる。一秒、二秒、そして、三秒。繰り返すこと何度目だろうか。どこかで抑えていたのであろうそれが、ついにチラリと頭を過る。
──やっぱり……。
漂ってくる血の匂いはまるで自分から放たれているかのように執拗に纏わりつき、確かめるように顔を寄せるとあっという間に周囲に溶ける。
──やっぱり……消えない、のね……。
ヴィルマからは見えない様に顔を伏せると、ファニルは微かにその表情を曇らせた。
決して血の匂いが嫌だからというわけではない。もちろん、好きでもない。しかし、今更綺麗事を並べる程に潔白でないことくらいは自覚している。
時折覗くこの素顔はとても幼く、かつて不要と捨て去ったものだ。そんなものが今更出てくるべきではないのである。特に、戦場では尚更に。
「はぁ、……探し物とはどんなものですか?」
そんなファニルを見かねたのだろう。ヴィルマが控えめに声を掛ける。
「……御守り、です」
無理を言った手前、黙っているのも憚られたので曖昧に返事する。
「それは本当に御守りですか? ……呪い、ではなくて?」
今度は黙っていると、間を置いて続きが来た。
「正直に言えば俺はそれが見つからなければいいと、そう思い始めている」
決してお互い顔は見ない。
「もう動けますので、降ろしてください」
質問には答えずに、ファニルはヴィルマの背から飛び降りようとする。話し合いなどする気がなかった。
「寂しいですね」
ヴィルマも答えず、そのままファニルを離さなかった。そして、ポツリポツリとつぶやいた。
「今この戦場に散っているものは脱け殻です」
「……脱け殻?」
話しているのか、諭しているのか、もしくはただの独り言なのかすらもわからない。ただ、ヴィルマの口からはゆっくりと言葉が紡がれ始める。
「ここにあるものはみな、離れてしまったモノたちだ」
「……離れた?」
聞いた言葉を繰り返す。
「知っていますか? ここだけはもう時が止まっている」
「……時が……止まる?」
弾かれたように戦場を見渡す。そして──息を呑む。
「ファニル、君は優しいのですね」
その言葉はどうして今、私に向けられたのだろうか。
目を伏せる。一秒、二秒、そして、三秒。次はもう目を逸らしてはいけない。あの日、確かに自分は決めたのだ。もはやちらつく淡い期待などは彼方へと流してしまおう、と。
血。そう、改めて思う。瞼の向こう側に描かれた情景は圧倒されるほどの鮮明な朱色を映している。それが血塗られた証だというのなら、それはきっと私が通ってきた道なのだろう。
ならば、としばらく目を伏せる。迷いはしない。しかし、必ず苦しい時が来るだろう。もちろん、どうしていいかなど今はわからない。しかし、それでも自分は決めたのだ。迷いはしないと。これが自分の運命なのだと。
──この情景が私の心を映すのならば、この空は私の心だ。
最後に一度だけ目を閉じる。そして、漂う軌跡に決意する。
──この色はきっと、“私の色”だ。
──これは……?
微かに滲んだ視界はどこか心の奥のほうを投影しているのではないかと思える程に曇っており、覗き込もうと目を凝らすと逃げるようにして溢れ落ちる。
──これは……私の、涙……?
それを確かめるようにそっと指で拭う。恐怖か、安堵か。いや、それに意味などないのかもしれない。
少なくともキュロロ自身にその自覚はなかったのだ。
──脆いのね。本当に。
瞬きをする。一度、二度、そして三度。この雫を出し切れれば何か変わる。そんな予感と加えることもう一つ。
元の自分が現れるのでないか、戻ってくるのではないかという淡い期待も添えられた。
涙。そう、改めて思う。そのレンズを通して見る空は、息を呑むほど綺麗な茜色を映している。これを曇っているというならば、それはやはり自分の心がそうなのだろう。
ならば、と三度瞬きを繰り返す。迷いはある。しかし、それでも、無意識だとしても、確かに自分は前を見ている。いや、見ているはずなのだ。
もちろん、方法など知り得ない。しかし、この気持ちは絶対に自分のものだ。迷いはある。それでも確かに、自分は前に進みたいと思ったのだ。
──このレンズが私の心を映すのならば、この空は私の心だ。
最後に一度だけ目を閉じる。そして、伝う軌跡に決意する。
──この色はきっと、“私の色”だ。
◇
その刃はどこか格別で、一刀毎に心が跳ねた。ギリギリを掠めていく刃はどこか昔の記憶を連れてくるようでいて、ただただ華麗なのである。今こうして我が身が削がれる感覚でさえ、湧き上がるような高揚感を覚えてしまうほど美しい。
まるで二十年もの昔に還ったかのように青くも暖かな感覚は、やはり一味も二味も違うというのだろう。
ラウンデルは鬼気迫る一太刀から逃れるように身を捻る。見慣れた太刀筋は良くも悪くも変わっていない。
血の匂いと共に込み上げてくるこの気持ちが長年の蓄積なのだとしたら、感情としては些か歪である。懐かしさとも取れるが、単にそういったものでもないのだろう。
ラウンデルは今、首を傾げている。
──はて、こんな気持ちは久方ぶりでありますなあ。
追い求めるようにふらふらっと長い爪を刃へと向け、そして、指を開く。もし、掴めるなら……手に触れることができたなら……今度は何を見せてくれるのだろうか。
斬られるならそれもまた良しである。得られるものがあるならば、負傷などは厭わない。代償とするならば、その痛みは糧であるのだ。
ラウンデルの瞳に狂気が宿る。
奥へ、深みへ、内側へ。身を焦がすような衝動は、かつての好奇心と呼べるものに近い。
しかし、遅い来る刃に手を伸ばせば、もどかしくも波が引くようにそそくさと逃げてしまう。斬ることも、触れることもなく、されど、突き放すように。
その空気を察したのだろう。相手は慎重に距離を取ることを選択したようだ。
では仮に、今度は首を差し出したとすれば、その刃は自身を通り抜けてくれるだろうか、もしくは、それでもその波は引いてしまうのだろうか。
──否である。
「不意打ちとは味な真似を。一度決めると形振り構わないところなど、やはり少しも変わっていませんなあ、ユゲン」
「そりゃないぜ、ラウル。言ってたじゃないか、不意打ちでも何でも受け入れる、と」
気付けば互いの口元には笑みさえ浮かんでいた。
「それほどまでに、返して欲しいということですかな?」
「半分だ。お前に持たせておくものじゃない。それに狙っているのはそれとは違うぜ。忘れたのか? 俺はお前を探していたと言ったはずだぞ」
その言葉にラウンデルは大きく頷く。
「そうでしたな。して、それはフリージア様の遺志であると?」
その言葉にユーゲンフットは黙り込む。
「そうであるならば……いえ、認めるというのであれば、ですかな。確かに、これは私が受けるべき刃でありますな」
「……渡せ、とは言わんさ」
少し間の後、ゆっくりと口を開く。
「と、言いますと?」
「初めからだ。初めからそいつで仕留めるつもりはないぞ」
──段々と戻ってきましたなあ。
「貴殿は未だ立ち直っていないと見える。……可哀想に」
「挑発か。全く器用な男だ。しかし、相手を選ぶべきだ。策に溺れてもお前を助ける者はもういないのだからな」
お互いひねくれている。これは挑発などではないのだ。ほんの悪戯であり、言い換えればただの意地悪なのである。
それを察しているのか、それともどこかで躊躇ったのかはわからない。反応こそするものの、やはり下手にユーゲンフットが動く様子はなかった。
例え、もしそれがただの意地であるとしても、それはそれで大したものだといえる。自制ができているのだから。
「はて、それはどういう意味ですかな?」
「仕返しというつもりなら、俺のはそれほど棘はないということだ」
ラウンデルは小さく嗤う。やはり、バレていたようだ。さも面白くなさそうに、足で土を蹴っている姿がどこか昔を思い出させてくれる。
そうだ、彼はそうやって踏み留まるのだ。
「なるほど。確かに不意打ちなど可愛いものでしたな」
「ここでいつまでも遊んでいるわけにはいかない。わかるな?」
確かに彼の言う通りで、少し戯れが過ぎたのだろう。それでもまだ、まだもう少しは付き合ってもらわねばとラウンデルは強く願う。
何故ならこんな楽しみなど、そうないのだから。
「では、そろそろ仕切り直しとしますかな? 非情なる天才、青鬼のユーゲンフットよ」
「そうでもないさ。お前ほどじゃない。慧眼と謳われし羅刹、赤鬼のラウル」
──戻ってきた。
心の中で歓喜する。
あの頃の天才が──。
バルビルナの──青鬼が。
迷うことなく短刀を放り投げる。こんなものはもういらない。
くるりと舞うそれは、色付いた空に一点の煌めく雫を連想させた。
◇
目を伏せる。一秒、二秒、そして、三秒。繰り返すこと何度目だろうか。どこかで抑えていたのであろうそれが、ついにチラリと頭を過る。
──やっぱり……。
漂ってくる血の匂いはまるで自分から放たれているかのように執拗に纏わりつき、確かめるように顔を寄せるとあっという間に周囲に溶ける。
──やっぱり……消えない、のね……。
ヴィルマからは見えない様に顔を伏せると、ファニルは微かにその表情を曇らせた。
決して血の匂いが嫌だからというわけではない。もちろん、好きでもない。しかし、今更綺麗事を並べる程に潔白でないことくらいは自覚している。
時折覗くこの素顔はとても幼く、かつて不要と捨て去ったものだ。そんなものが今更出てくるべきではないのである。特に、戦場では尚更に。
「はぁ、……探し物とはどんなものですか?」
そんなファニルを見かねたのだろう。ヴィルマが控えめに声を掛ける。
「……御守り、です」
無理を言った手前、黙っているのも憚られたので曖昧に返事する。
「それは本当に御守りですか? ……呪い、ではなくて?」
今度は黙っていると、間を置いて続きが来た。
「正直に言えば俺はそれが見つからなければいいと、そう思い始めている」
決してお互い顔は見ない。
「もう動けますので、降ろしてください」
質問には答えずに、ファニルはヴィルマの背から飛び降りようとする。話し合いなどする気がなかった。
「寂しいですね」
ヴィルマも答えず、そのままファニルを離さなかった。そして、ポツリポツリとつぶやいた。
「今この戦場に散っているものは脱け殻です」
「……脱け殻?」
話しているのか、諭しているのか、もしくはただの独り言なのかすらもわからない。ただ、ヴィルマの口からはゆっくりと言葉が紡がれ始める。
「ここにあるものはみな、離れてしまったモノたちだ」
「……離れた?」
聞いた言葉を繰り返す。
「知っていますか? ここだけはもう時が止まっている」
「……時が……止まる?」
弾かれたように戦場を見渡す。そして──息を呑む。
「ファニル、君は優しいのですね」
その言葉はどうして今、私に向けられたのだろうか。
目を伏せる。一秒、二秒、そして、三秒。次はもう目を逸らしてはいけない。あの日、確かに自分は決めたのだ。もはやちらつく淡い期待などは彼方へと流してしまおう、と。
血。そう、改めて思う。瞼の向こう側に描かれた情景は圧倒されるほどの鮮明な朱色を映している。それが血塗られた証だというのなら、それはきっと私が通ってきた道なのだろう。
ならば、としばらく目を伏せる。迷いはしない。しかし、必ず苦しい時が来るだろう。もちろん、どうしていいかなど今はわからない。しかし、それでも自分は決めたのだ。迷いはしないと。これが自分の運命なのだと。
──この情景が私の心を映すのならば、この空は私の心だ。
最後に一度だけ目を閉じる。そして、漂う軌跡に決意する。
──この色はきっと、“私の色”だ。
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