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マンホール
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午前二時過ぎの、渋谷の裏通り。週末の喧騒が嘘のように静まり返り、自分の足音だけが妙に大きく響く。俺(タケル)は、今日の飲み会で感じた、どうしようもない虚しさを引きずりながら、家路を歩いていた。
ふと、足元のマンホールの蓋から、音が聞こえた気がした。
カリ…カリカリ…。
金属を、爪か何かで引っ掻くような、微かな音。
立ち止まって耳を澄ます。一瞬の静寂。…気のせいか。ネズミか何かだろう。俺は再び歩き出した。
だが、その日から、俺は街中の「下」から聞こえる音に、妙に敏感になった。
深夜、人気のない道を歩いていると、決まって、足元のマンホールや、道路脇の排水溝の格子蓋から、あの音が聞こえるのだ。
カリカリカリ…! 時にそれは、必死さに満ちた、狂ったような引っ掻き音に変わる。
ある時は、しくしく、と、幼い子供が、声を押し殺して泣いているような音が聞こえた。
またある時は、複数の人間が、早口で、しかし内容は聞き取れない言葉を、ぶつぶつと囁き合っているような声がした。
近づくと、音はいつも、ぴたりと止む。
蓋の隙間から中を覗き込んでも、そこには、重くよどんだ闇が広がっているだけだ。時折、湿った土と、何かが腐ったような、微かな悪臭が漂ってくる。
まるで、俺が通りかかるのを待って、音を立てているかのようだ。俺が聞いていることに、気づいている?
俺は、マンホールや排水溝のある場所を、無意識に避けて歩くようになった。それでも、音は時折、予期せぬ場所から聞こえてくる。俺の行動を、まるで嘲笑うかのように。
この街の、アスファルトの下には、俺たちの知らない、別の世界が広がっているのではないか? そこには、一体、何が「いる」のだろうか?
そんな考えが、頭から離れなくなった。
昨夜、俺は、恐怖と、そして抗いがたい好奇心に突き動かされ、わざと音が多く聞こえる路地へと足を踏み入れた。
案の定、前方にあるマンホールから、激しい囁き声が聞こえてくる。
俺は、意を決して、その場に膝をつき、マンホールの鉄格子の隙間に、顔を近づけた。
息を詰め、闇の奥を凝視する。
最初は何も見えなかった。だが、目が慣れてくると、暗闇の中に、何か、白っぽいものが動いているのが分かった。
それは———二つの、人間の手、だった。
泥にまみれ、異常に長く伸びた爪が、必死に、鉄格子の裏側を掴み、掻きむしっている。カリカリ!ガリガリ!
そして、その手の奥で、ぬぅっ、と、一対の目が開いた。
それは、光を一切反射しない、乳白色の、濁ったビー玉のような目だった。その目は、まっすぐに、すぐ間近にある俺の顔を、捉えた。
——— ヒッ……。
下から、空気が鋭く吸い込まれるような音が聞こえた。
俺は、声にならない悲鳴を上げ、後ろへ転がるように飛びのいた。
そのまま、脇目もふらずに走り出した。もう、あの路地へは二度と近づかない。
だが、知ってしまった。
この、華やかな都会の、固いアスファルトの、ほんの数センチ下には、確かに「何か」がいるのだ。
あの、白く濁った目で、地上を渇望するように見上げる、名も知れぬ存在が。
あの、泥まみれの手で、必死に鉄格子を掻きむしる、無数の「何か」が。
今も、この瞬間も、俺の足元で、奴らは囁き、泣き、爪を立てているのかもしれない。
そう思うと、もう、地面の上を、普通に歩くことさえ、怖くてたまらない。
ふと、足元のマンホールの蓋から、音が聞こえた気がした。
カリ…カリカリ…。
金属を、爪か何かで引っ掻くような、微かな音。
立ち止まって耳を澄ます。一瞬の静寂。…気のせいか。ネズミか何かだろう。俺は再び歩き出した。
だが、その日から、俺は街中の「下」から聞こえる音に、妙に敏感になった。
深夜、人気のない道を歩いていると、決まって、足元のマンホールや、道路脇の排水溝の格子蓋から、あの音が聞こえるのだ。
カリカリカリ…! 時にそれは、必死さに満ちた、狂ったような引っ掻き音に変わる。
ある時は、しくしく、と、幼い子供が、声を押し殺して泣いているような音が聞こえた。
またある時は、複数の人間が、早口で、しかし内容は聞き取れない言葉を、ぶつぶつと囁き合っているような声がした。
近づくと、音はいつも、ぴたりと止む。
蓋の隙間から中を覗き込んでも、そこには、重くよどんだ闇が広がっているだけだ。時折、湿った土と、何かが腐ったような、微かな悪臭が漂ってくる。
まるで、俺が通りかかるのを待って、音を立てているかのようだ。俺が聞いていることに、気づいている?
俺は、マンホールや排水溝のある場所を、無意識に避けて歩くようになった。それでも、音は時折、予期せぬ場所から聞こえてくる。俺の行動を、まるで嘲笑うかのように。
この街の、アスファルトの下には、俺たちの知らない、別の世界が広がっているのではないか? そこには、一体、何が「いる」のだろうか?
そんな考えが、頭から離れなくなった。
昨夜、俺は、恐怖と、そして抗いがたい好奇心に突き動かされ、わざと音が多く聞こえる路地へと足を踏み入れた。
案の定、前方にあるマンホールから、激しい囁き声が聞こえてくる。
俺は、意を決して、その場に膝をつき、マンホールの鉄格子の隙間に、顔を近づけた。
息を詰め、闇の奥を凝視する。
最初は何も見えなかった。だが、目が慣れてくると、暗闇の中に、何か、白っぽいものが動いているのが分かった。
それは———二つの、人間の手、だった。
泥にまみれ、異常に長く伸びた爪が、必死に、鉄格子の裏側を掴み、掻きむしっている。カリカリ!ガリガリ!
そして、その手の奥で、ぬぅっ、と、一対の目が開いた。
それは、光を一切反射しない、乳白色の、濁ったビー玉のような目だった。その目は、まっすぐに、すぐ間近にある俺の顔を、捉えた。
——— ヒッ……。
下から、空気が鋭く吸い込まれるような音が聞こえた。
俺は、声にならない悲鳴を上げ、後ろへ転がるように飛びのいた。
そのまま、脇目もふらずに走り出した。もう、あの路地へは二度と近づかない。
だが、知ってしまった。
この、華やかな都会の、固いアスファルトの、ほんの数センチ下には、確かに「何か」がいるのだ。
あの、白く濁った目で、地上を渇望するように見上げる、名も知れぬ存在が。
あの、泥まみれの手で、必死に鉄格子を掻きむしる、無数の「何か」が。
今も、この瞬間も、俺の足元で、奴らは囁き、泣き、爪を立てているのかもしれない。
そう思うと、もう、地面の上を、普通に歩くことさえ、怖くてたまらない。
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