悪役令嬢の休暇は婚約破棄から始まります

有栖川灯里

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王国の国境門が背後で重々しく閉ざされた音は、ディアナの耳には、長年彼女を閉じ込めていた鉄格子の鍵が、ついに砕け散った快音のように響いた。

 馬車は揺れ、帝国の領土へと入り込む。窓から差し込む陽光は、王国のそれよりも幾分か鋭く、峻烈しゅんれつな輝きを帯びているように感じられた。道端の草花ですら、王国の温室育ちのものとは違い、どこか野生の、逞しい生命力を漲らせている。

「……空気が、違いますわね」

 ディアナは、窓枠に肘を突き、静かに呟いた。

 目の前に広がるのは、整備された石畳の街道と、その先に聳え立つ帝国の検問所である。王国の検問所が、どこか懶惰らんだで、微睡みの中に沈んでいるような印象を与えるのに対し、帝国のそれは、まるで精密な時計仕掛けの一部であるかのように、整然とした緊張感を漂わせていた。

 やがて馬車が止まり、軍服に身を包んだ帝国の役人が、木靴を鳴らして近づいてきた。

「止まれ。入国管理官のハンスである。……ほう、王国の貴族紋か。しかも公爵家の。旅の目的を伺おうか、お嬢さん」

 ハンスと名乗った男は、ディアナの美貌に一瞬だけ目を奪われたようだが、すぐに事務的な、冷徹な表情へと戻った。その態度は、ディアナにとって、王国の貴族たちの阿諛あゆ追従に満ちた言葉よりも、はるかに心地よいものであった。

「休暇ですわ」

 ディアナは、淀みなく答えた。

「休暇、だと? 王国の公爵令嬢が、護衛も付けず、このような簡素な馬車一台で、国境を越えて『休暇』に来たと申すのか。……冗談にしては、少々諧謔かいぎゃくが過ぎるのではないか」

「冗談など。私は大真面目ですわ。これからは、誰にも邪魔されず、泥のように眠り、読みたい本を読み、飽きるまで空を眺める。それが私の、全霊を賭した計画ですの」

 ハンスは、ディアナの差し出した「追放宣告書」を手に取り、その乱暴な筆跡を凝視した。彼の眉間に、深い皺が刻まれる。

「……これは、ヴィンセント王太子の署名か。国外追放……。つまり貴女は、王国を追われた『亡命者』ということになる。それを『休暇』と呼び換えるとは、王国の貴族というのは、よほど強情なのか、それとも……」

「それとも?」

「いや、失礼。……しかし、これほど有能そうな女性を放り出すとは、王国もよほど余裕があるらしいな。我ら帝国から見れば、資源の遺棄にも等しい暴挙ぼうきょだ」

 ハンスの言葉に、ディアナは思わず失笑した。

「資源、ですか。私は自分を、ただの使い潰された歯車はぐるまだと思っておりましたわ。……ところで管理官さん、貴方の持っているその入国記録簿、三行目の日付が前頁と食い違っておりますわよ。あと、五行目の入国税の計算も、端数が切り捨てられていませんわね」

 ハンスは、弾かれたように手元の帳簿を見た。

「な、何だと……? ……っ! 確かに、これは……」

「お仕事、大変でしょうけれど、正確さは大切ですわよ。もしよろしければ、私がその帳簿の整合せいごう性を整えて差し上げましょうか? ……ああ、いけない。これは『休暇』だったわ。危うく、職業病が顔を出すところでしたわ」

 ディアナは、わざとらしく口元を扇で隠した。

 ハンスは、顔を真っ赤にして帳簿を閉じると、咳払いを一つして、ディアナに入国許可の印を押した書類を突き返した。その手は、僅かに震えていた。

「……許可する。行きなさい。貴女のような女が帝国に長く留まれば、我ら役人の心臓がいくつあっても足りん」

「あら、光栄ですわ。それでは、失礼いたします」

 馬車が再び動き出す。ディアナは、検問所を通り過ぎる際、ハンスの背後に並ぶ他の役人たちが、慌てて自分たちの帳簿を確認し始めているのを見て、愉快そうに肩を揺らした。

 帝国の土を踏んだ瞬間、彼女の心に、ある種の色鮮やかな寂寥せきりょうが広がった。

 誰も彼女を知らない。誰も彼女に期待しない。誰も彼女に、翌朝までの決裁を求めない。その絶対的な孤独こそが、今の彼女には、何よりの贅沢に感じられた。

「まずは、この先の宿場町ですわね」

 彼女は、膝の上のクッションを優しく撫でた。

 帝国の道は、どこまでも真っ直ぐに伸びている。その果てに、どのような「安息」が待っているのか、彼女はまだ知らない。だが、彼女を運ぶ馬車の車輪は、かつてないほど軽快なリズムで、新しい物語を刻み始めていた。
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