悪役令嬢の休暇は婚約破棄から始まります

有栖川灯里

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微睡まどろみの中、ディアナは自身の指先が、空中で羽ペンを動かす奇妙な痙攣に襲われていることに気づいた。

 宿屋の二階、西日の差し込む部屋で彼女は椅子に深く腰掛け、読書に耽っていたはずだった。しかし、頁をめくる指はいつの間にか、行間の余白に架空の修正指示を書き込もうとしている。無為に過ごすことの難しさは、長年、国家という巨大な歯車はぐるまを回し続けてきた彼女にとって、予想だにしない苦行くぎょうであった。

「……いけませんわね。数字という名の亡霊ぼうれいが、私を執拗に追いかけてきますわ」

 彼女は本を閉じ、深く溜息をついた。

 階下からは、昨日の徴税官ミュラーの件を聞きつけた近隣の商人が、何やら騒がしく詰めかけている気配がする。彼女の「休暇」は、その卓越した実務能力という、隠しきれない光輝によって、刻一刻と蝕まれていた。

 その時、宿の前に一台の馬車が止まった。

 それは、この辺境の宿場町には到底似つかわしくない、磨き抜かれた黒漆塗りの馬車であった。紋章こそ隠されているが、その造りの重厚さは、乗る者の身分を雄弁に物語っている。ディアナは窓越しにその影を見下ろし、嫌悪けんおに近い予感に眉をひそめた。

「……また、面倒な客ですわね」

 扉を叩く音は、短く、そして拒絶を許さない傲慢ごうまんな響きを湛えていた。

 入ってきたのは、数日前に広場で出会った、あの銀鼠色の外套を纏った青年――帝国の第三皇子、シルヴァン・エデルシュタインであった。彼は部屋の粗末な調度を一瞥すると、さも当然のようにディアナの向かいにある椅子を引いて腰を下ろした。

「失礼する。……いや、再会は必然であったと言うべきか」

「お言葉ですが、殿下。私にとって再会とは、互いの利益が一致した際に行われる事務的な手続きを指しますわ。貴方のような、他人の平穏を軍靴で踏みにじるような方を迎える予定は、私の手帳には一行も記されておりません」

 ディアナは冷淡に応えた。その瞳には、皇子という至高の身分に対する畏怖など、微塵も存在しない。

 シルヴァンは、その言葉を心地よい音楽でも聞くかのように、薄く笑みを浮かべて受け流した。

「相変わらず、鋭い刃物のような女だ。……ミュラーから報告を受けたぞ。貴女がわずか十五分で、一年分の徴税記録の齟齬を解消したとな。あれはもはや、人知を超えた神業かみわざに近い」

「あれは単なる『お掃除』ですわ。汚れた床を掃くのと、何ら変わりはありません。……それで、御用件は? まさか、私の掃き掃除の腕前を称賛するためだけに、わざわざこのような肥溜めのような宿まで足を運ばれたわけではありますまい」

「単刀直入に言おう。我が別荘へ来い。……いや、これは『休暇』の招待だ」

 シルヴァンの言葉に、ディアナは片方の眉を跳ね上げた。

「別荘、ですか。……ふふ。私の知る限り、貴方のような方が差し出す『招待状』には、必ずと言っていいほど、見えないインクで『労働契約書』と記されておりますわ。私はもう、誰かのために帳簿と格闘する日々には飽き飽きしておりますの」

「誤解しないでほしい。そこは帝国の北部に位置する、風光明媚な場所だ。温泉もあり、蔵書も豊富にある。貴女が望む『何もしない贅沢』を叶えるには、この不潔な宿屋よりも、はるかに相応しい舞台だろう」

 シルヴァンは、懐から一枚の書状を取り出した。そこには、帝国の皇帝印が押された「特別滞在許可証」があった。

「これは、貴女を帝国の国賓として扱うという証明だ。……同時に、王国の追求から貴女を完全に保護するという約束でもある。……どうだ、悪くない取引だろう?」

 ディアナは、その書状を冷めた目で眺めた。

「……保護、ですか。王国が私を連れ戻しに来るとでも? あの王子が、私の不在を嘆いて涙を流しているとでも仰りたいのかしら。それは、太陽が西から昇るよりもあり得ない喜劇きげきですわ」

「王子の涙など興味はない。だが、貴女が王国で処理していた仕事の『代償』は、間もなく現れるだろう。混乱した国家は、往々にして有能なスケープゴートを求めるものだ。……貴女を安全な場所に囲っておくのは、私の、いや帝国の利益にかなう」

 シルヴァンの言葉には、打算と、そして拒絶しがたい説得力があった。ディアナは、再び机の上の木目を見つめた。

(……温泉。豊富な蔵書。そして、王国の五月蝿いハエどもから遮断された空間)

 彼女の脳内で、急速に損得勘定が展開される。この宿屋に留まれば、いずれ噂を聞きつけた役人共が、列を成して押しかけてくるだろう。それは、彼女の望む「休暇」とは程遠い、終わりのない労働の再生産でしかない。

「……分かりましたわ。その『招待』、受けて立ちましょう」

 ディアナは、優雅に立ち上がった。

「ただし、条件があります。もし、その別荘とやらに一冊でも整理されていない帳簿があった場合、私は即座にそこを立ち去りますわ。……分かっておりますわね? 私は今、『休暇中』なのです」

「承知した。……貴女に仕事はさせない。……私が、それを誓おう」

 シルヴァンの唇に浮かんだ笑みは、しかし、どこか食えない策士のそれであった。

 ディアナは、片手で荷物を纏めると、シルヴァンが差し出した手を取ることなく、先に部屋を出た。

 彼女の新しい「休暇先」は、果たして楽園か、それとも新たな戦場か。

 夕闇の迫る街道を、黒い馬車が静かに走り出した。ディアナは、揺れる車内の中で、再び目を閉じた。彼女の指先は、もう、架空のペンを動かしてはいなかった。しかし、その代わりに、次なる運命の予感よかんに、微かに震えていたのである。
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