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第一章

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 濃く赤いルビーの見事な装飾を施された剣は、持つ人の幼い容貌から、まるで玩具のようだった。
 しかし、その剣を抜く小さな体の、堂々とした立ち振る舞いを侮ってはいけない。
 うずうずとした好奇心の塊の赤い瞳が、どれだけ可愛くとも。

 この方は、攻略対象の中で一番幼い。
 この年の頃のルーファスも毎日剣を片手に試合しようぜーと来たものだ。
 うん、あれは可愛かった。

 腰に挿した細剣を抜き、構えずに剣先は地面へと向けた。
 あくまで向こうから仕掛けてもらわないと。

「エルザ」

 風に乗って声が届き、振り返らずに目線だけを向ける。
 深い隈の刻まれた両目が、鋭くこちらを見据えていた。

「勝つ気なら、長期戦は止めておけ。取り押さえてくれれば、すぐにそちらの勝ちにするから。……その後のことは自国のキングにどうにかしてもらえ」
「長期戦は駄目なの?」

 同じく風に声を乗せて飛ばす。
 さすがにこんな子供を相手に長期戦になるとは考えていないけど、わざと手こずるふりはするつもりだった。

「駄目だ。最近陛下は新しい遊びを」
「さぁ、はじめるぞ! フェリクス、何をしておるのだ!」
「はいぃ……ただいま……」

 主に急かされて、すぐに取り繕った笑みを浮かべたフェリクスは私と白の女王陛下の間に立った。
 どうやら彼が審判らしい。
 ちらちらとこちらに視線を向けられて、とにかくさっさと倒せと言われているらしいことは、わかる。
 小さく頷くと、フェリクスは肘を曲げて両手を肩の高さに上げ、珍しくも大きな声を上げた。

「それでは、白の国とスペードの国の親善試合を執り行います。はじめっ!」



 親善試合とはよく言ったものだ、と少し笑った。
 一部始終を各国の位持ちや貴族に目撃された中で『親善』とは、些か無理がある。

 しかしそれでも白の国が白といえば黒いものも白くなるのが政治というものなんだろう。
 ……いや、陛下の手を払った私に、多分に非があるのだから、フェリクスには感謝するべきかもしれない。ララをこちらに拉致した件はともかく。



 さて、試合に集中しないと。
 白の女王陛下は恐らくフェリクスが剣を教えているのだろう。小さな体に見合う、まだ短く細い脚で精一杯踏み込み、放たれた剣先は思っていたよりも遥かに鋭い。

 ……が、当然避けられる速さだ。問題はその後。
 いつもなら剣を受け流して利き手と逆の左拳で喉か腹を打つのが猪突猛進な相手への最初の一手だけど、これは相手の背が低いから却下。
 なら体を反転させて回し蹴りを、と慣れた頭は考えるけど、これも却下。蹴りは、目的通りすぐに終わらせられるだけの威力を籠められるけど、ひどい怪我をさせてしまう。
 というか、最初の喉突きも絶対に駄目だ。白の女王陛下が話せなくなったなんてことになったら、ルーファスだって庇いきれなくなる。
 これは思ったよりも難しい。怪我をさせないように試合を終わらせるには……。

「はぁっ!」

 声変わり前の高い声とは裏腹な威勢の良い掛け声と共に、下から掬い上げるように剣身が迫る。
 するりと避けた時には、剣を握る無防備な細い腕が目の前にあり、意識せずその腕を取った。

「なっ……は、離せっ!」
「流石の猛攻です、女王陛下。敬服致しました。が、手を取られたら脚を使いなさいませ。脚を取られたら、逆の脚を。相手には腕が二本しかありませんから、最後は当たります。その時に狙うのは喉です。うまく当たればしばらくは動けません」

 不機嫌に寄せられた眉はピクリと釣り上がり、腹に力が入ったのがわかった。
 空かさず上がった脚を残りの手で受け止めると、言われた通りに逆の脚が喉をめがけて蹴り上がる。
 言われたことをすんなり受け止める柔軟さはあるんだよなぁ。と、のんびり考えて手を離すと一瞬宙に浮く形になった女王陛下は重力に従い尻餅をついた。

「いっ! ……嘘をついたな!?」
「いえいえ。このような可能性もあると示したまでにございます」

 膝をつき、薄い胸を軽く押さえてにっこり笑うと女王陛下は苦々しくこちらを睨む。
 なんとか怪我なく終わらせられたが、やはりスペードの10としての生活は終わりらしい。
 視界の端でフェリクスが駆け寄ってくるのが見えた。

「……まだ終わっておらんぞ。余もお前に教えてやろう」

 すっかり終わったと思っていて、油断した。
 薄い胸を押さえていた手は何にも触れておらず、女王陛下の声が反響して辺りに響く。

「ああっ、まずい!」

 フェリクスの心底焦る声がしたのと、地を蹴ったのは同時だった。

 これを避けられたのは、ほとんど剣を使う人生を生きてきた故の勘のお陰だ。
 空中にぽっかりと顔ほどの大きさの穴が開き、そこから飛び出している剣には見事なルビーが輝いている。

「まさか……」

 背中に伝う汗が冷たく感じた。
 口から溢れた言葉に、フェリクスから諦めすら感じさせる苦い息に乗って言葉が届いた。

「最近、魔法の妙な使い方を思いつかれたんだ。どうやら、ララ様の住む世界から体の一部だけをこちらに送ってきているらしい……」

 やっぱりだ。
 穴から覗く高い高い建物は間違いなくこの世界にはない、あちらの世界のオフィス街にあるようなビル群だ。
 まじまじと見つめていると再び剣が襲ってくる。

「……これ、ワニを叩くあのゲームに似てるわね……」
「ワニ?」

 叩かれるのはあいにく私の方だ。

「どうすればいいのよ、これ……」
「すまないが、そうなっては俺も勝てた試しがない……エルザ、死にゆく君にこんなことを伝えては重荷になるとはわかっているが、俺の一方的で身勝手なケジメだ。聞いてほしい。俺は、君を一目見た時から愛」
「死にゆくって何よ。勝手に殺さないで! 私はまだ諦めてないわよ!」
「最後まで聞いてから突っ込んでくれるか!?」

 最後のは風ではなく地声で聞こえた。
 こっそり話してるのが周りにバレちゃったじゃないの。



 とにかく対策を立てないと。
 動きを最小限に抑えて子供が飽きて飛び出すのを待つ、くらいしか思いつかないけど。

 見たことのない魔法の使い方でも、私は自分の優位を疑ってはいなかった。
 相手は幼い子供だし、剣で身を立ててきたからこその自負もある。
 声を上げられる場ならきっとルーファスやゼンに『油断しない!』と怒られただろうが。

 宙から生えた剣を受けたと同時に足元に嫌な気配がして地面を蹴った。
 が、遅かった。

 燃える氷を当てられたような、熱くヒヤリとする鋭さが走り、悲鳴を飲み込み、歯を食いしばる。

 腰に差していた剣は一本だったのに、これはどういうことか。

「やったぞ! やっと一発だ!」

 年相応の無邪気なはしゃぎ声が響いた。
 ざっくりと深く斬られた左足の太ももが脈打つように痛み、じわりじわりと赤く滲む。
 そちらの足に体重をかけると痛みでバランスを崩して、動きに制限がかかってしまった。

「……足を狙え、とか教えた?」

 わざと明るく話しかけるも、フェリクスからは返事がこない。
 それもそうだ。どこから剣が飛び出すかわからない、この状況で足を怪我してはもう碌に避けられない。
 おまけに今ので味を占めただろう女王陛下は、私が一本止めているうちにまた足を狙った攻撃をしてくるに決まってる。
 私の負けを悟って、言葉が出ないのだろう。

 諦めていないと言ったのは嘘ではないが、かなり本気で動いていても、避けきれずにどんどんと傷が増えていく。
 このままではジリ貧だ。
 こうして考えている間にも女王陛下は遠慮なく剣を私に向け、傷が増えていった。



 一つ、覚悟を決めて左手を前にかざした。

 左手を中心として風と水の渦が生まれる。
 魔力を高めたそれは、どんどんと私を中心に大きくなり、周りを囲む令嬢達のドレスがふわりと浮き上がり、慌てて押さえているのが見えた。だから使いたくなかったのだけど、仕方ない。このままだと高飛びができなくなる。



 渦が開かれた場の端から端へと到達しても、更に魔力を籠める。
 まだ私達がアカデミーの生徒だった頃に、思いついたことがあった。

『光の魔法があるなら、光の屈折を利用して姿を隠すことが出来るかも』と。

 紛れもなく前世の知識だ。
 しかし、ゼンに説明して試すも、専門的な知識のない私の説明ではうまく伝わらず、結局実現はしなかった。
 それでも敵が使わないという保証はない。
 使われたらどう対処するか、具体的な打開策のないまま大人になり、補佐となったオーウェンとの会話で一つの魔法の使い方を思いついた。

『闇の魔法で物を掴むと、掴んだ感覚ってあるの?』
『言われてみれば、感覚はありますね。当たり前のように使っていたので意識もしていませんでしたが』

 私の水や風には感覚なんてないのに、闇にだけあるのかと、その時は思った。

 後でわかったことだが、具体的には闇の魔法以外に感覚があると、術者が困るのだ。
 ぐらりと頭が揺らぎ、ああ始まったかと意識を現実に戻す。

 パシンと水が地面に叩きつけられ、体に衝撃が走った。
 私の周囲を囲む渦はぐるぐると回り、遊園地のコーヒーカップというアトラクションに乗っているような感覚に足元が揺れる。

 闇以外の魔法では、術者は本能的に感覚を遮断している。
 それが私が考えた、闇だけが感覚を持っている理由だ。

 火の玉を出したルーファスは熱くてとても使えないと言い、土塊を放ったゼンは地面に落ちた感覚で体がバラバラになるように感じたという。
 一緒に試した私は、風に体を空中で引きちぎられたように感じ、地面に溢れた水には高いところから落ちたような痛みを感じた。
 それでもこれは、もしも見えない敵が出てきたとしても、相手がどこにいるのか魔法で触れられるからわかる、という利点があるなと記憶の片隅にしまっておいた。



 体が引きちぎられようとも、叩きつけられようとも、今使わないで、いつ使うのか。



 身体中に止めどなく走り続ける衝撃と、視界が回る感覚に意識が遠くなるのを歯を食いしばって耐える。
 ここで気を失ったら負けが確定してしまう。
 早く。一度でいい。剣が穴から出るところが分かれば……。

「っ!」

 左手が掴んだのはルビーの装飾を濡らした剣身。
 手に痛みはもう、感じなかった。

「遊びは終わりよ。この、イタズラ坊主!」
「わぁっ!」

 ぐいと思い切り引っ張ると、網漁のように白い頭が穴から覗き、べちんと水浸しの地面に顔から落ちた。
 すぐに渦を散らすが、疲弊した体が回復するわけではない。

 今、気を失えば私の負けになる。
 この子に負けたと言わせないと……。

「負けたと、言いなさい」

 地面に巻きつくばりこちらを睨んだ赤い目を睨み返す。
 ぐらりと体が傾き、左足で踏ん張る。

「あなたの負けよ。早く、言いなさい」
「い、嫌だっ!」

 まだ我儘を言うつもりらしい。
 右手の剣先を白い顔に当て『傷の一つでも負えば、素直になるだろうか』と考え、右手に力を込めた。
 キンッと鋭い音がした。

「こちらの負けでございます。白のジャックが、負けを宣言いたします!」

 白のジャック。ああ、これは、フェリクスか。

「そう……そちらの、負け……」

 体から力が抜けて視界は暗転し、私はやっと意識を手放すことができた。
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