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第二章
番外編 お説教の結末④
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右手の紙袋の重みに心が浮き足立って、執務室へと向かう足が急ぎ足になる。
スペードで最も有名なパティスリーのケーキだ。いつも行列が出来ていてなかなか買えなかったが、今日は運が良かった。
夜中にそっと抜け出すあの人に、俺ができることなどこれくらいだ。これで少しは叱りつけた償いになればいいのだが……やはりこれは、俺の自己満足でしかないのだろう。
レグサスは俺に、知っているとエルザに伝えたらどうかと言っていたが、エルザが言えないものを自分から話す勇気など、俺にはない。
少し気持ちが沈むも足はしっかり前へと進んでいて、いつのまにか執務室へと帰って来ていた。
ケーキがあるからとキッチンへの扉に手をかけてわずかに開き──止めた。
中からなにやら、会話が聞こえて来る。
「好き、じゃなくて?」
「うん」
何の話をしているんだろうか。いや、盗み聞きは良くない。彼らには彼らのプライバシーがある。大方、同じ年頃の女の子の話でもしているのだろう。
わざと音を立てて扉を開けば、彼らも会話を止めるだろう、と、再度扉の取手に手を伸ばし──。
「でも、さっき分かった。この気持ちってさ──ヒナに餌を運ぶ親鳥の気持ちなんだなって」
取手にかかった手を、口元へと慌てて運ぶ羽目になった。
──ああ、これは。エルザの話だな。
一人で肩を震わせる俺に侍女達が不審な目を向けて来たが、止まらなかった。
エルザは昼をいくらか過ぎた辺りでいつも小腹を空かせる。だからいつも昼のお茶休憩を取っていたが、今日は居眠りにより禁止を伝えていた。
しかし実のところ、俺は確信していた。必ずエルザは腹を空かせ、ザックは禁止を守るだろうが、グレンは食べさせてしまうだろうと。
それがよもや、親鳥の気持ちにさせてしまうとは。
申し訳ないやら可笑しいやらで、なかなか部屋に入ることができない。
そんな俺を追撃するかのように、ザックの声が聞こえて来た。
「そのヒナってさ……巣から落ちて、地面でピィピィ鳴いてないか」
声を出さないようにするのが精一杯だった。
確かにあのじっとしていられないエルザなら確実に巣から落ちている。そして巣の下で逞しく生きるだろう。
エルザの部下になると言った時の彼らには想像もできなかっただろうが、とにかくエルザの部下の仕事はキツい。なにせ上司が書類仕事においては無類のポンコツだからだ。
それは上下関係に厳しいクローバー育ちの俺が敬うことを放棄するほど酷い。
だからもしも、彼らがエルザのもとでは働けないと言い出したなら、俺の独断で他の部署へと異動させてやろうと思っていた。エルザはショックを受けるだろうが、これに関しては自業自得だ。
なのに彼らはエルザのポンコツ具合を笑って話している。
胸に広がるのは、安堵だ。
やっと扉を開いて、俺の姿を確認して慌てる二人に冗談を言った。俺にはやはりまだ少し硬いが、早く仲良くなりたいものだ。
──と、思っていたら、なんとエルザに仕事をすると約束させたらしい。約束は守るものというのが信条のあの人は、仕事をするという約束は避ける節がある。守れないからだろう。頓智のような人だ。
そんな人に仕事をすると約束させられるとは、なんという人材。これが一兵士として埋もれていたとは。
やはり、エルザの人を見る目というのは素晴らしいものがある。この子達はとても良い子だ。大切にしなければ。
興奮冷めやらぬまま騒ぐ俺を唖然と見守っていた二人だったが、ザックは俺が置いた荷物に目を止めた。
「オーウェン様……そちらは、どうされたのでしょうか?」
「──ん?」
店を知らない者でもパティスリーの字を見れば自ずと中身が分かる。
そのケーキはどうしたんですか、ということらしい。
「ああ。スペードでも有名なパティスリーなんだが、珍しく行列がなくてな。おやつに買ってきたんだ。お前達にもあるから、後で一緒にお茶にしような」
演技ではない、親しみを込めた笑顔を向ける。もはやこの子達に対して、一切表情を作る必要はなかった。
「おやつに……」
ザックはうわ言のようにそう繰り返し、グレンは眉尻を下げた。
「オーウェン様、すみません。エルザ様がお腹が空いたって言うので、俺がもうお茶とお菓子は出してしまいました……」
「そうか。君なら出してくれると思っていたから構わないよ。どうせあの人はお腹を空かせると思っていたから。それなら君らは夕食後にするかな? エルザはどうせすぐに食べると言うだろうが、腹が空いてなければ無理に付き合うことはない」
グレンはほっと安堵の表情を浮かべて「俺も甘いものは結構食べますから、ご一緒して良いですか」と尋ねてきた。もちろんだと頭を叩く。
叱られ待ちをする表情といい、安心して笑顔を浮かべるのといい、相変わらずのチワワっぷりだ。
そんな和やかに話す俺達を、ザックは何か言いたげな表情で見つめていた。
「どうした、ザック。心配しなくてもお前にもあるよ。甘いものは好きかな?」
「……オーウェン様」
まさに意を決したとも言うべき覚悟を決めた表情を浮かべたザックは「無礼を承知で申し上げてもよろしいですか」と丁寧に断りを入れてきた。
「何もそこまで畏まらなくても甘いものが好きではないのなら言ってくれれば……」
「違います……」
……なにやら、俺に対する敬意のバロメーターが下がったような気がした。
しかし気を取り直したらしいザックは、ほとんど睨むように鋭い目をして、声を上げた。
「では申し上げますが……オーウェン様は……エルザ様に甘過ぎます!!」
「ぐっ……」
──痛いところを突かれた。
常々、甘やかしすぎだろうかと心配になりながらも、誰からも止められないのをいいことに好き放題甘やかしてきたが。
「ついに指摘される日が来るとはな……」
「ご自分でも気付いてたなら、止めてください! おやつは抜きだとおっしゃったのはオーウェン様ご自身ですよ!」
「いや、エルザも頑張ってはいるからな……?」
「そのように甘やかしてはエルザ様のためになりません!」
この子は本当に優秀で、手厳しい……。言うことがいちいち正論で、ぐうの音も出ない。
そんな俺に、グレンが助け舟を出してくれた。
「ザック。エルザ様は、そんなしつけが必要な年齢の子供じゃないんだからさ……」
「だからこそ由々しき問題だと俺は思ってるんだよ!」
ザックにとってエルザの年齢はいくつの扱いなんだろうか…………二桁はあるだろうか……。
「グレンもグレンだぞ!」
そうして、ザックのお説教はグレンにも向いた。
「オーウェン様はお菓子は抜きだって言ったのに、なんで与えちゃったんだよ。……止めなかった俺も悪いけどさ。俺達の上官はもうあの頭のおかしい気味の悪い女じゃない。エルザ様が食べ物を渡さなきゃ飢えて死ぬってんなら命令の無視は必要なことだけど、そういうわけじゃないなら上官の指示には従うべきだろ。これはお前の信用の問題だぞ」
「お、おっしゃる通りです……」
思わずグレンが敬語になっている。
確かに俺は惚れた弱みとはいえエルザに甘すぎる。エルザと二人での生活に慣れ過ぎて、感覚が麻痺していたのかもしれない。
身の引き締まるような思いだった。
「……そうだな。ザックの言う通りだ。自分で言ったことを覆すのは良くないな。これはエルザには内緒に──」
俺にとっての苦渋の決断をした瞬間、バンッと大きな音がして扉が開いた。──執務室への扉が。
「なんだか騒がしいと思ったらオーウェンが帰ってきてるじゃないの! 私を仲間外れにして三人で何を──」
拗ねた表情でキッチンへと足を踏み入れたエルザの目が、俺の手元に釘付けになった。
その表情が、一気に喜び一色に染まる。
「その紙袋って……あの有名なパティスリーの!?」
まずい。そう思った時には手遅れだった。
たった今、エルザにはお預けにすることを決断したばかりだと言うのに。
恋人は跳ねるように一足で近づいて来て、輝かんばかりの眩しい笑顔を浮かべた。春の小川のように清らかなその瞳には、焦る俺の姿がくっきりと映っている。
「嬉しい! 頂き物のケーキが美味しかったからまた食べたいって言ったのを覚えていてくれたの?」
恋人の触り心地の良い柔らかな頰は薔薇色に色づき、形の良い艶やかな唇は美しい弧を描く。
俺はたった今。お預けの、決断を……。
「……………………ああ駄目だ可愛すぎるそうですあなたのために買ってきました!!」
「オーウェン様……」
ザックからの敬意が脆くも崩れ落ちたのが、その落胆の声から分かった。
「……エルザ様」
そうして、ザックはケーキに手を出そうとするエルザの隣に立ち、極めて静かに語りかけた。
「先程グレンの焼いたお菓子を食べたところじゃないですか。今はお仕事の時間ではないのですか。まさか今からお茶にするなんて言いませんよね」
言われたエルザはギクリと体を震わせた。
「約束しましたよね。仕事するって。ならこれはまだ食べちゃ駄目ですよね」
「うっ……そ、そうね……でも、お仕事、頑張ったわよ……?」
「たったの数分で何を仰いますか!! オーウェン様とグレンが役に立たない飴玉の今、俺があなたにとっての鞭になりますよ! これがあなたに命を救われた俺からの恩返しだと思いますので!」
役に立たない飴玉……。
「俺も飴なのか……」
グレンと二人、情けなく目が合い、同時に嘆息した。
「お、恩返しならケーキが食べた──」
「駄目です! さっき食べたばっかりでしょうが!」
こうして、ザックは見事にエルザを席へと連れ戻すことに成功した。
なんという手腕。見習わなくては……。
「パリブレスト……」
「はい、こちらは先日町で起きた乱闘騒ぎについての報告書ですよ。目は通しましたか?」
「モンブラン……」
「では問題です。乱闘騒ぎを起こした両チームのリーダー格の男二人に課せられた罰は何ですか」
「ガトーショコラ……」
「はい。三日間の禁固刑ですね。次行きますよ」
この手腕で仕事を終わらせて、あの出張の日に追いかけてきたのか……。
……ガトーショコラ刑は次に行ったら駄目だな。
「エルザ。ケーキから頭を離しなさい。夕食のデザートに出してあげますから」
「エクレール……」
…………。
ちらりとザックに目を向けると、優秀な部下はエルザのあまりの落ち込みように苦虫を噛んだような顔で汗をかいている。良心が痛いのだろう。
その目がエルザから俺へと移り、さらにその苦味が増したようだった。
逃げるザックの目はさらにグレンへと向き、グレンもまた飼い主に許しを乞う子犬のような顔をザックに向けている。
餌をちらつかせたまま、お預けを喰らわせるのは、あまりにもエルザが気の毒だと思っているのは明らかだった。
三対一は、いくら心を鬼にしたザックにも分が悪かった。
「………………ああもう分かりましたよ!! お茶にすればいいんでしょう! そのかわりお茶が終わったらすぐにお仕事するんですよ! 今度こそ約束ですよ!?」
……この子の鞭も、ソフトキャンディで出来ているらしい。
しゅんと落ち込んでいたエルザの表情が花開いたように輝き、ザックに飛びつかんばかりに喜んだものだから、危うくセクハラにより前言撤回の憂き目にあうところだった。
そうして、いそいそと四人でお茶の準備をしている最中、廊下からノックの音が響いた。
扉の外に立っていた人物を見とめて、エルザの表情が更に輝く。
当然の如く、時間内に本日の仕事が終わることはなかったが、これはスペードの10の業務においてはいつものことだから大した問題ではない。
スペードで最も有名なパティスリーのケーキだ。いつも行列が出来ていてなかなか買えなかったが、今日は運が良かった。
夜中にそっと抜け出すあの人に、俺ができることなどこれくらいだ。これで少しは叱りつけた償いになればいいのだが……やはりこれは、俺の自己満足でしかないのだろう。
レグサスは俺に、知っているとエルザに伝えたらどうかと言っていたが、エルザが言えないものを自分から話す勇気など、俺にはない。
少し気持ちが沈むも足はしっかり前へと進んでいて、いつのまにか執務室へと帰って来ていた。
ケーキがあるからとキッチンへの扉に手をかけてわずかに開き──止めた。
中からなにやら、会話が聞こえて来る。
「好き、じゃなくて?」
「うん」
何の話をしているんだろうか。いや、盗み聞きは良くない。彼らには彼らのプライバシーがある。大方、同じ年頃の女の子の話でもしているのだろう。
わざと音を立てて扉を開けば、彼らも会話を止めるだろう、と、再度扉の取手に手を伸ばし──。
「でも、さっき分かった。この気持ちってさ──ヒナに餌を運ぶ親鳥の気持ちなんだなって」
取手にかかった手を、口元へと慌てて運ぶ羽目になった。
──ああ、これは。エルザの話だな。
一人で肩を震わせる俺に侍女達が不審な目を向けて来たが、止まらなかった。
エルザは昼をいくらか過ぎた辺りでいつも小腹を空かせる。だからいつも昼のお茶休憩を取っていたが、今日は居眠りにより禁止を伝えていた。
しかし実のところ、俺は確信していた。必ずエルザは腹を空かせ、ザックは禁止を守るだろうが、グレンは食べさせてしまうだろうと。
それがよもや、親鳥の気持ちにさせてしまうとは。
申し訳ないやら可笑しいやらで、なかなか部屋に入ることができない。
そんな俺を追撃するかのように、ザックの声が聞こえて来た。
「そのヒナってさ……巣から落ちて、地面でピィピィ鳴いてないか」
声を出さないようにするのが精一杯だった。
確かにあのじっとしていられないエルザなら確実に巣から落ちている。そして巣の下で逞しく生きるだろう。
エルザの部下になると言った時の彼らには想像もできなかっただろうが、とにかくエルザの部下の仕事はキツい。なにせ上司が書類仕事においては無類のポンコツだからだ。
それは上下関係に厳しいクローバー育ちの俺が敬うことを放棄するほど酷い。
だからもしも、彼らがエルザのもとでは働けないと言い出したなら、俺の独断で他の部署へと異動させてやろうと思っていた。エルザはショックを受けるだろうが、これに関しては自業自得だ。
なのに彼らはエルザのポンコツ具合を笑って話している。
胸に広がるのは、安堵だ。
やっと扉を開いて、俺の姿を確認して慌てる二人に冗談を言った。俺にはやはりまだ少し硬いが、早く仲良くなりたいものだ。
──と、思っていたら、なんとエルザに仕事をすると約束させたらしい。約束は守るものというのが信条のあの人は、仕事をするという約束は避ける節がある。守れないからだろう。頓智のような人だ。
そんな人に仕事をすると約束させられるとは、なんという人材。これが一兵士として埋もれていたとは。
やはり、エルザの人を見る目というのは素晴らしいものがある。この子達はとても良い子だ。大切にしなければ。
興奮冷めやらぬまま騒ぐ俺を唖然と見守っていた二人だったが、ザックは俺が置いた荷物に目を止めた。
「オーウェン様……そちらは、どうされたのでしょうか?」
「──ん?」
店を知らない者でもパティスリーの字を見れば自ずと中身が分かる。
そのケーキはどうしたんですか、ということらしい。
「ああ。スペードでも有名なパティスリーなんだが、珍しく行列がなくてな。おやつに買ってきたんだ。お前達にもあるから、後で一緒にお茶にしような」
演技ではない、親しみを込めた笑顔を向ける。もはやこの子達に対して、一切表情を作る必要はなかった。
「おやつに……」
ザックはうわ言のようにそう繰り返し、グレンは眉尻を下げた。
「オーウェン様、すみません。エルザ様がお腹が空いたって言うので、俺がもうお茶とお菓子は出してしまいました……」
「そうか。君なら出してくれると思っていたから構わないよ。どうせあの人はお腹を空かせると思っていたから。それなら君らは夕食後にするかな? エルザはどうせすぐに食べると言うだろうが、腹が空いてなければ無理に付き合うことはない」
グレンはほっと安堵の表情を浮かべて「俺も甘いものは結構食べますから、ご一緒して良いですか」と尋ねてきた。もちろんだと頭を叩く。
叱られ待ちをする表情といい、安心して笑顔を浮かべるのといい、相変わらずのチワワっぷりだ。
そんな和やかに話す俺達を、ザックは何か言いたげな表情で見つめていた。
「どうした、ザック。心配しなくてもお前にもあるよ。甘いものは好きかな?」
「……オーウェン様」
まさに意を決したとも言うべき覚悟を決めた表情を浮かべたザックは「無礼を承知で申し上げてもよろしいですか」と丁寧に断りを入れてきた。
「何もそこまで畏まらなくても甘いものが好きではないのなら言ってくれれば……」
「違います……」
……なにやら、俺に対する敬意のバロメーターが下がったような気がした。
しかし気を取り直したらしいザックは、ほとんど睨むように鋭い目をして、声を上げた。
「では申し上げますが……オーウェン様は……エルザ様に甘過ぎます!!」
「ぐっ……」
──痛いところを突かれた。
常々、甘やかしすぎだろうかと心配になりながらも、誰からも止められないのをいいことに好き放題甘やかしてきたが。
「ついに指摘される日が来るとはな……」
「ご自分でも気付いてたなら、止めてください! おやつは抜きだとおっしゃったのはオーウェン様ご自身ですよ!」
「いや、エルザも頑張ってはいるからな……?」
「そのように甘やかしてはエルザ様のためになりません!」
この子は本当に優秀で、手厳しい……。言うことがいちいち正論で、ぐうの音も出ない。
そんな俺に、グレンが助け舟を出してくれた。
「ザック。エルザ様は、そんなしつけが必要な年齢の子供じゃないんだからさ……」
「だからこそ由々しき問題だと俺は思ってるんだよ!」
ザックにとってエルザの年齢はいくつの扱いなんだろうか…………二桁はあるだろうか……。
「グレンもグレンだぞ!」
そうして、ザックのお説教はグレンにも向いた。
「オーウェン様はお菓子は抜きだって言ったのに、なんで与えちゃったんだよ。……止めなかった俺も悪いけどさ。俺達の上官はもうあの頭のおかしい気味の悪い女じゃない。エルザ様が食べ物を渡さなきゃ飢えて死ぬってんなら命令の無視は必要なことだけど、そういうわけじゃないなら上官の指示には従うべきだろ。これはお前の信用の問題だぞ」
「お、おっしゃる通りです……」
思わずグレンが敬語になっている。
確かに俺は惚れた弱みとはいえエルザに甘すぎる。エルザと二人での生活に慣れ過ぎて、感覚が麻痺していたのかもしれない。
身の引き締まるような思いだった。
「……そうだな。ザックの言う通りだ。自分で言ったことを覆すのは良くないな。これはエルザには内緒に──」
俺にとっての苦渋の決断をした瞬間、バンッと大きな音がして扉が開いた。──執務室への扉が。
「なんだか騒がしいと思ったらオーウェンが帰ってきてるじゃないの! 私を仲間外れにして三人で何を──」
拗ねた表情でキッチンへと足を踏み入れたエルザの目が、俺の手元に釘付けになった。
その表情が、一気に喜び一色に染まる。
「その紙袋って……あの有名なパティスリーの!?」
まずい。そう思った時には手遅れだった。
たった今、エルザにはお預けにすることを決断したばかりだと言うのに。
恋人は跳ねるように一足で近づいて来て、輝かんばかりの眩しい笑顔を浮かべた。春の小川のように清らかなその瞳には、焦る俺の姿がくっきりと映っている。
「嬉しい! 頂き物のケーキが美味しかったからまた食べたいって言ったのを覚えていてくれたの?」
恋人の触り心地の良い柔らかな頰は薔薇色に色づき、形の良い艶やかな唇は美しい弧を描く。
俺はたった今。お預けの、決断を……。
「……………………ああ駄目だ可愛すぎるそうですあなたのために買ってきました!!」
「オーウェン様……」
ザックからの敬意が脆くも崩れ落ちたのが、その落胆の声から分かった。
「……エルザ様」
そうして、ザックはケーキに手を出そうとするエルザの隣に立ち、極めて静かに語りかけた。
「先程グレンの焼いたお菓子を食べたところじゃないですか。今はお仕事の時間ではないのですか。まさか今からお茶にするなんて言いませんよね」
言われたエルザはギクリと体を震わせた。
「約束しましたよね。仕事するって。ならこれはまだ食べちゃ駄目ですよね」
「うっ……そ、そうね……でも、お仕事、頑張ったわよ……?」
「たったの数分で何を仰いますか!! オーウェン様とグレンが役に立たない飴玉の今、俺があなたにとっての鞭になりますよ! これがあなたに命を救われた俺からの恩返しだと思いますので!」
役に立たない飴玉……。
「俺も飴なのか……」
グレンと二人、情けなく目が合い、同時に嘆息した。
「お、恩返しならケーキが食べた──」
「駄目です! さっき食べたばっかりでしょうが!」
こうして、ザックは見事にエルザを席へと連れ戻すことに成功した。
なんという手腕。見習わなくては……。
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「はい、こちらは先日町で起きた乱闘騒ぎについての報告書ですよ。目は通しましたか?」
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「はい。三日間の禁固刑ですね。次行きますよ」
この手腕で仕事を終わらせて、あの出張の日に追いかけてきたのか……。
……ガトーショコラ刑は次に行ったら駄目だな。
「エルザ。ケーキから頭を離しなさい。夕食のデザートに出してあげますから」
「エクレール……」
…………。
ちらりとザックに目を向けると、優秀な部下はエルザのあまりの落ち込みように苦虫を噛んだような顔で汗をかいている。良心が痛いのだろう。
その目がエルザから俺へと移り、さらにその苦味が増したようだった。
逃げるザックの目はさらにグレンへと向き、グレンもまた飼い主に許しを乞う子犬のような顔をザックに向けている。
餌をちらつかせたまま、お預けを喰らわせるのは、あまりにもエルザが気の毒だと思っているのは明らかだった。
三対一は、いくら心を鬼にしたザックにも分が悪かった。
「………………ああもう分かりましたよ!! お茶にすればいいんでしょう! そのかわりお茶が終わったらすぐにお仕事するんですよ! 今度こそ約束ですよ!?」
……この子の鞭も、ソフトキャンディで出来ているらしい。
しゅんと落ち込んでいたエルザの表情が花開いたように輝き、ザックに飛びつかんばかりに喜んだものだから、危うくセクハラにより前言撤回の憂き目にあうところだった。
そうして、いそいそと四人でお茶の準備をしている最中、廊下からノックの音が響いた。
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