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 アデルダート王子と別れ、フェリシアはとぼとぼと廊下を歩いていた。
 陽は陰り、濃く縁取られた窓枠が床に伸びている。

「フェリシア嬢」

 体がびくりと跳ねた。
 この国に来る前から何度も何度も聞いた声が、自分の名前を呼んだ。

 いつもなら嬉しくてすぐに振り返るものも、今は何だかそんな気分ではない。
 しかしフェリシアの体は自らの気持ちなどお構いなしに後ろへと向いてしまう。

 案の定声をかけてきたのはタイシだった。

 こちらへと歩み寄りながら、やっと見つけたと、安堵したように息を吐いている。その表情は、どこか強張っているように見えた。
 
 ああ、と。

 その表情を見て、フェリシアは初めてこんなことを思った。

 ──今はタイシに会いたくなかったなぁ……。

 それなら言い訳でもしてさっさと逃げてしまえばいいのに、タイシの纏う雰囲気はそれを許してはくれない。
 自然とフェリシアの声も硬いものになった。

「なにか、わたしに用事? タイシ」

 しかしいつにもなく元気のないフェリシアに気付く余裕は、今のタイシにはないらしい。

 頷いて、用意していたらしい台詞を、一息に言った。

「何度も君は僕に求婚してくれて、それは本当に嬉しいんだけど……僕はリディア嬢と結婚する。もう陛下にも、話を進めるようお願いするつもりなんだ。だから──ごめん。僕は君とは、結婚しない」

 いつものどこか逃げるようなものとは違う、真摯な光を宿す淡い青の瞳が真っ直ぐフェリシアへと向けられている。

 つい、フェリシアの唇から言葉が零れ落ちた。

「それはわたしが……人魚だから?」

 人魚との結婚は嫌だった? と問いかけるとタイシは慌てた様子で首を横に振った。

「違うよ! それは関係ない。ああ、でも……ユージーンから聞いたよ。人魚は他種族と結婚したら、陸に住むことになって海には帰れなくなるんだって」

「そんなの……分かってて来たのよ。だからわたしは、人間のことをたくさん勉強してここに来たの。そんなことを気にしてるなら……」

 あれ? と。ふと疑問が浮かんだ。

「それ、ジーンからって……いつ聞いたの?」

 タイシは、ついさっきだと答えた。

 それならおかしい。タイシはこの話を聞く前からずっと、フェリシアを拒絶していたのだから。

 やはりタイシには何か、フェリシアと結婚したくない理由があるのだ。

「……タイシはどうしてわたしと結婚したくないのか、聞いてもいい? わたし、そんなに魅力ない?」

 人魚との結婚が嫌じゃないなら、自分に原因があるのだろうと思ったのに。
 タイシは首を横に振ったのだ。

「そんなわけない。君と結婚したくない男なんて、どこにもいないよ」

「タイシを除いて、よね。それならどうしてタイシは結婚が嫌なの? おじ様はわたしを応援してくれるって言ってたじゃない」

 タイシは目を伏せて、何度も口を開いては閉じてしまう。それでも、今度はフェリシアの番だった。

「ねぇ、タイシ。どうして?」

 ここで、この人を逃すつもりはなかった。

 押し負けたのか、タイシはようやく口を開いた。

「理由を言えば君はきっと……大丈夫だって言うんだ。でも僕は大丈夫なわけがないって分かってるから。君を苦しませることがわかっていて、結婚なんて出来るわけないんだよ……」

 震える声でタイシは続けた。

「僕の母様は父の正妻ではなくて、貴族の生まれでもなかった。ゴードンの、フォード伯爵家の養子になったから身分だけは貴族だけど、でもそんなのは関係ない。母様は地方の豪族の娘で、この城に巣食ってる貴族共からすれば本当なら自分の足元で跪いて顔を上げることもできない田舎者の娘でしかなかった。それが陛下に気に入られたというだけでこの国の王妃殿下の次に高貴な女性の地位を得て、それを妬む奴らの悪意を母様は一人で受け止めて……体を壊して、そのまま亡くなったよ。この国の王である父様ですら愛する人を守れなかったんだ。それならどうして母様を田舎からここに引っ張ってきたんだって、ずっと思ってた。恨んでたよ。僕なら好きな人を苦しませるくらいなら遠ざけるのにって。だから、僕が君に言えることはひとつだけだ」

 顔を上げてこちらを見つめるタイシの目は、光の差さない深く暗い海の底のような色をしていた。

「君とは結婚しない。僕の妻になっても苦しい思いをしないことが分かってる、公爵家に生まれたリディア嬢と結婚するよ。その方が君はきっと、幸せになれるから」

 この時、フェリシアの心を占めたのは──猛烈な怒りだった。

「わたしの幸せを勝手に決めないで」

 タイシの目が同様に揺れるも、かまわなかった。苛立ちのままに捲し立てた。

「わたしが大丈夫じゃないというのもよ。どうして勝手に決めてしまうの? わたしとあなたのお母様は別の人よ。わたしが大丈夫だっていうなら、どうしてそれを信じてくれないの」

 しかしタイシも同じようだった。眉が険しく寄り、声が荒く大きくなる。

「信じられるわけないよ。君には分からないんだ。母様、今日はお休みにしたらと聞いても大丈夫。今日は一緒に寝ようと言っても大丈夫だから先に休んでいなさいと遇らわれた。食事している姿さえ、記憶にないんだよ。最期だって……っ母様は大丈夫だからと言って、そのまま…………君は、目の前で母親が倒れるところを見たことがある? 声をかけても体を揺らしても返事をしてくれなくて、そのまま連れて行かれたまま会わせてももらえずにお母様は亡くなられましたと言われたことは!? 母様を死に追いやった連中が、顔だけは悲しそうに繕って憐んでくる地獄が君にわかるか!? お可哀想に、体を損なわれていたのかしらってどの口が言うんだなんて、口が裂けても言っちゃいけない! そんな屈辱を味わったことは!! ないだろう!!」

 慟哭のようなタイシの叫びに体が震え、思わず激しく動悸する胸を押さえた。



 ない。あるわけない。これほどまでに悲しく苦しいことなんて。

 それなりに海の中でのんびりと暮らして来た自分が、軽々しく大丈夫だなんてタイシに言ってはいけなかった。

 きっと今までタイシは、笑顔でわたしとの再会を迎え、笑顔で別れられるよう努力してくれていたのだろう。

 なのにわたしは自分のことばかり考えて、曖昧に濁された返事に腹を立ててばかりで、この人の開いてはいけない心の内を開いてしまったのだ。

 それでも……。

「…………そうね。息子から可哀想だと憐れまれ続けているお母様は、本当に不幸だと思うわ」

 くるりと身を翻してその場から逃げた。

 後に残ったのは、深い後悔だけだ。
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