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63 二十年前②

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 目を覚ますと視界には見覚えのある天井が広がっていた。どうやらここは、先程お姉様をもてなしていた居間らしい。
 ほっと体から力が抜けた。

 ──なんて恐ろしい夢を見たんだろう。

 公爵家の嫡男であるだけでも遥か遠い身分の方だというのに、まさかあの方が──国王陛下?

 体をそっと起こし、かけられていた毛布に顔から突っ伏した。

「ああ……夢で良かった……」

「……起きたかな? メイベル殿」

 聞こえた声に、吐いた安堵の息が喉で妙な音を立てた。





 時は少し遡る。

 リンドール家の屋敷の一番立派な応接室には、家人抜きに客だけが揃っていた。

 二人は重厚なソファに腰を下ろし、一人はそのソファの前方に立っている。

 仁王立ちだった。腰に拳を添えて、大きく張った腹をこれでもかと突き出して前方の二人を睨みつけている。

 睨まれている二人は、まるで叱られた子犬のようにしょんぼりと項垂れていた。

「……公爵家の名を騙るなど、なにを考えておられるのです! 一国の王とその妃ともあろう方々のなさることですか!?」

 美しい顔をどす黒く染めたフォード夫人の張り上げた声に、子犬一号がそっと言い訳した。

「か、騙るだなんて……陛下が鷹狩の帰りにこちらに寄らせていただいた時に名乗られなかったそうだから、つい、その、そのままになっていただけなのよ……?」

 子犬二号もしょぼくれつつ言い訳する。

「伯爵家ならばともかくこちらでは国王を迎えられるだけの身代ではないからとレストリド公が判断して、そのとき私は従者の振りをしていてね。だから名乗る機会を失ってしまって、つい、そのまま……」

「ついで他人の振りをされては困ります!!」

 ピシャリと落ちたカミナリに二人は同じ動作で首を竦めた。
 二号が恨めしそうに囁いた。

「……だから私は再度訪問することに反対したんだ。この地を治めているフォード伯家に嫁いだのは君の教師だったオズワフ候夫人の息女だぞ。見てみなさい、この説教の手慣れた姿。君を叱っていた夫人に瓜二つだ……」

「まぁ、わたくし一人に責任をなすりつけるなんて、一国の王のなさることとは思えませんわね。鷹狩から帰って来てからずうっと上の空で仕事も手につかず侍従を困らせていたのはどこのどちら様でしたかしら。意中の方と会えて嬉しそうにやに下がっておられたそのご尊顔、絵師に描かせてやれば良かったですわ」

「聞いておいでですか、御二方!」

 再び落ちたカミナリに二人は慌てて口を噤む。
 フォード夫人が大袈裟に嘆いた。

「ああ、可哀想にメイベル……初めから名乗っていただけていたのなら倒れることもなかったでしょうに、すっかり青くなって……っ」

 それを言われては、二人も反省せざるを得ない。
 廊下への扉を心配そうに見つめながら、王妃が立ち上がった。

「もう気が付かれたのではないかしら。わたくし、様子を見て参りますわ」

 青ざめて倒れたメイベルは別室に運ばれて休んでいる。

 打算から始まった友人関係でも、メイベルは明るく可愛らしい人で、王妃はすっかりメイベルが大好きになっていた。そんな友人が倒れて心配しないわけがないのだ。

 しかしその慌てた背中に静かな声が掛かけられた。

「待ちなさい、エヴァ」

 王妃──エヴァンジェリン・ベラ・グランドーラをそのように呼べるのは、一人だけだ。

 振り返ると夫であるグランドーラ国王、セオドア・アルシエル・リング・グランドーラが優しく微笑んでいる。

「私が行こう。君はここにおりなさい」

「……陛下。ですけど……」

 立ち上がった国王に、王妃は思わず反論した。

 そもそもここに来ることに反対した国王をここまで引きずってきたのは自分だ。

 彼女の身分では国王を前にして平静でいられるわけがないから。
 そもそも国王が足を運んだことで妙な注目を集めることになっては彼女の家には負担になるだろう。

 そんないくつもの反論を説き伏せ、王妃は驚くべき早業で公爵家の友人に名前を借りる許可を得て、ここまで夫を引きずって来たのだ。

 全ては、幼い頃から婚約者として側で見守ってきた弟のような王太子殿下、現国王の幸せのため。

 だからこのまま行かせてしまっても良いものか、王妃はわずかに迷った。

 しかし国王は首を振った。

「君が私のために手を回してくれたというのに、いつまでもはっきりさせず先延ばしにしてきた私が悪いんだ。私が行って話して来るというのが筋というものだろう」

 この発言に、王妃は喜色満面になった。

「まぁ! では遂にご決断を?」

「ああ。彼女のあの表情を見ただろう。私の気持ちなど、彼女には負担にしかならないとはっきり分かった」

 王の決断が自らの予想と正反対だと分かって、王妃の眉尻が下がる。しかし夫の決断に口を挟める雰囲気ではない。

 国王は妻を安心させるように微笑んだ。

「せめて君だけでもこれからも親しくしてもらえないかと話して来るよ。そもそもは、君の方が私とよりもずっと彼女仲良くしていたではないか?」

 優しく茶化してくる国王に、王妃は落胆とともに尋ねた。

「本当に、宜しいの……?」

 これに、国王は微笑みだけを返してきた。



 高い背を見送って、王妃はため息を吐いた。

 大公爵家に生まれた王妃は、国王とはまさに生まれた頃からの知り合いだった。

 微笑みの底にある深い悲しみを悟れないほど、短い付き合いではないのだ。
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