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暗闇の世界とならぬように

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「おはよう、ティエラ」
「あぁ、おはよう。セラ」

 今日も君と、無事に目を覚ますことが出来たことに、心より感謝を。

 僕が生きるこの世界は現在、残念なことに悲しみに包まれている。気付けば涙が一粒、二粒と零れてしまい、それは空に住む雪の精霊が受け入れ変化し、日々粉雪をちらちらと降らせている。

 週に一度は激しい吹雪で、外を歩くこともままならない。そういう時は、きっと……誰かが哀しみに耐えられなくなり大粒の涙を流しているか、もしくはたくさんの人が泣き、溢れているのであろう。

「これまで一度も、光を見たことがない」

 決して、雪の精霊が悪さをしているわけではない。むしろ世界に広がる悲哀が全てを覆わないように、空で見守る雪の精霊たちが受け入れてくれるのだ。

――暗闇が、訪れないように。

「えぇ、光……そうですね」

 応えてくれたのは守護猫のセーラスだ。彼女は長きに渡りこの家を守ってくれている存在である。しかし、猫といってもそう見えるだけで、本来は人の姿を持つ女性なのだという。

――『数百年前、雪の世界となる前に受けた、ある魔術によるものです』

 そしてその魔法が解けるまで私は生き続ける、と。

 なぜこの家の守護猫になったのかは教えてくれなかったが、家の御先祖様に恩があるとだけは聞いていた。そんなセーラスと二人きりの生活は、僕にとっては平和だった。

 姿形は関係ない。僕にとって君は、かけがえのない大切な人だ。

 しかし、いつになれば……どれだけの笑顔があれば。
 僕が生きるこの世界に――。

「“光”が戻ってくるのだろうか?」

 そう日々が平和だと思い、涙を流す事がない僕ですら、笑顔というものが理解できていない。それは生まれた時から、この世界は“こんな光景”だったから。

 これは僕も知らない、むかしむかしの話だが。
 その頃は世界中がたくさんの笑顔で包まれ、幸せいっぱい。もちろん今と同じように涙を流す時もあっただろう。それでも『喜怒哀楽』のバランスがとれていたというのだ。

「季節……春夏秋冬……寒い、雪が……“冬”」

 ずっと読んできた古書は、僕の御先祖様が書いた物で当時の道具や風景の絵が文章と共に記されていた。春に咲く花、夏は暑く賑わう、秋は色を楽しむことが出来る、様々な言葉で表現された“知らない『世界』”。

――しかし、この本を見るとなぜか? とても懐かしい気分になる。

 そしてこの古書によれば、僕のいる雪が降る世界はその昔、“冬”と呼ばれていたらしいと解った。

「風が強くなってきました。ティエラ、もうすぐ雪嵐がきそうです」
「わかった、今のうちに外を見てくる」

 いつもこうして危険を察知し知らせてくれるセーラスは、本当に心強い。そんな君へ感謝の気持ちは伝えきれないほどあるのだが、もっと何かしてあげられないだろうか? と毎晩、寄り添い眠る君の顔を見ながら、考えるのだ。

 キィー……。

「雪の精霊か。しかし……苦しそうだ」

――世界の悲しみが、涙が多すぎるのだろうか。

 外へ出た僕は少しばかり胸騒ぎを感じた。見上げた空はいつもとは違う、いつもよりも暗い黒雲。しかし、どこかで見たことがある風景。

「そうだ、この景色は」
 古書で見た最後のページの絵と似ている。そしてその先は、白紙。

――もうこの世界は、悲哀の連鎖に。疲れてしまったんだ。

 こんな光のない世界でも、少しの希望はあった。

 ほんの少し前までの人々は、笑顔とまではいかないがフッと、一瞬だけ口元が緩むくらいの笑みはこぼしていた。恐らくその一瞬でも“笑い”があることによって、世界中でぽつぽつと小さな光が産まれていたのだろう。これは僕の推測だが、そのおかげでここまで持ちこたえてきたんだと思う。

 しかしもう限界のようだなと、僕は初めて諦めの境地に至る。目の前に広がり続ける黒い影、それは冷たく乾燥し始める空気。

 空から聴こえてくるのは、世界の終わりを告げるかのような轟音ごうおん

 それでも僕らは……僕の生きるこの世界は、ずっと待っていたのだ。あの古書に記された季節にまた出会える日を。心に残る描写と、一文の実現を。いつか必ずこの世界が光輝く空と、潤う大地に草花を取り戻す日が、来ることを信じて。

「“春”は、暖かい、花と……鮮やかな草木」

――絵ではなく、本物をこの目で。

「見てみたかった」
 きっともう、それも叶わぬ夢となる。

 もうすぐこの世界は、雪の精霊の力でも負えなくなるだろう。誰が悪いわけでもなく、望んでこうなったわけではない。いつからこの世に光が失われたのか? 僕には分からないが、ずっと長い間。世界中、皆で頑張ってきたんだから――。

「雪の精霊たちよ、今まで悲しみを受け入れてくれてありがとう」

 いつかまた、この世界に笑顔が戻り、復活する時が……奇蹟が起きる時節が、来るのであれば――。

「やはり、忘れられない」

 諦めたはずの心に、まだ微かな希望を灯す。その胸に刻まれた古書に描かれる“春景色”の記憶が、僕にもう一度だけ信じる力を与えていた。

「あの描かれた美しい桃色の木を。光の根源となる花を見たい」
 大きな空に広がり続ける黒雲を抱きしめる仕草をした僕は、願う。

――『眠りし光の精霊は、桃色の花と共に舞う』

「どうか、もう一度だけ。この世界に光を」

 心では古書で読んだ一文を唱えながら、僕は暗くて悲哀で溢れるこの空に、光のない空に向かって――願いを伝えた。

「やっと、言ってくれたのですね」

 声のする方を振り返るとセーラスが、少し首を傾げながら座っていた。

「どうしたセラ、ここは危ないんだよ。さぁ、家の中へ入ろう」

 彼女の言った言葉の意味は分らなかったが今は身の安全を確保することが先決だ。今までの嵐と同じように過ごせば良い。君と寄り添い、雪嵐の夜を過ごそう。これが最後の時だとしても、大切な君と一緒にいられたら僕は――。

「大丈夫ですよ、ティエラ」

 そう言うと彼女の小さな体は、神々しい光で包み込まれた。その暖かく、穏やかな光は僕が見たことのない、感じたことのない体験。

「セラ……セーラス!!」
――消えてしまう!?

 目を開けていられないほどの光量に瞑ってしまう僕の瞳は、セーラスの姿を見失ってしまう。それでも必死で光の中心にいる彼女を、手探りで追いかけた。

 パァァァァァ――――……!!

「……こ、これは」

 突然現れた、大きな木。といっても、古書の絵で見たことのあるだけの“樹木”という存在を、今初めて目にして驚き言葉を失う。

 しばらく呆然と立ち尽くした後に見上げた空は、見たことのない色をしていた。色彩でいうと青色、と言うべきだろうか。
 見つめてはいられないほどの丸い光が空に浮かんでいる。これも初めて見る光景で恐らくあれは、“太陽”というものだろう。 

「こんな世界が……これが、昔と同じ景色なのか?」

 信じられない、しかしなぜ――。

 この瞬間ハッと気付く。光の中に溶けていくように見えなくなった、セーラスがいないことに。

「あ、どうして。セラ……せらぁ!」

 僕は光を取り戻した美しい世界と引き替えに、一番大切な心を失ったのではないかと、彼女の名を泣きながら叫ぶ。

「セーラス!!」

 ガサガサ……。

「はい。私はここにいます、ティエラ」

「セ、セラ……良かった。僕は君が、君が」
――消えてしまったのかと……。

「いえ、いるには、いるのですが……」

 彼女にしては珍しく歯切れの悪い応え方だった。少し冷静さを取り戻した僕は、改めて目の前にある大きな木を見つめる。

「桃色の木、これがあの、桜……なのか?」

 そしてその陰から顔だけを出した彼女を見て、僕は驚きと初めての感情を胸に抱く。それは胸の奥が熱く、心臓が早く鼓動を打ち心地良いものだ。

「しかしセーラス、その姿は――」

「えぇ、その。貴方が唱えてくれた呪文で魔術が解けて、この世界の光となり消える……はずだったのですが」

「呪文? あ、あの古書の一文を心で唱えたあの言葉が!?」

「はい、身を持って光の精霊となり消えることが、私の宿命でした。しかし、なぜか人の姿に……戻れたようなのです」

 コクっと頷くセーラスは唇の端を上にあげ、とても美しい表情をしていた。が、しかし。茶色い木に隠れたままこちらへ来ようとしないのだ。その間を、桜と思われる桃色の花がひらひらりと舞っている。

「セラ、これからも一緒にいて……僕と一緒に、いられるのか?」
「もちろんです。だって私はずっと、貴方だけを待っていたのですから」

 顔を真っ赤にしながら答えてくれた彼女を見ていると、僕は自分の顔が変化しているのが分かった。それは本当に自然な表情。すると、セーラスが教えてくれた。

「ティエラ、その表情が“笑顔”というものです」
「――!!」

 うっすらと視えるもの。懐かしい感覚――頭の片隅で何か、音がしたような気がした。僕はセーラスの傍へ行くと、心臓が止まるほどの高揚感を覚える。

「キャッ! あの実は。人に戻ったのは良いのですが。猫の姿でしたので、お洋服が……その、どうしましょう! “恥ずかしい”」

 もちろん僕も衣服を身につけていなかったら問題がある、というよりも。

「気付かなくて悪かった、寒いだろう」

 自分の着ていた上着をセーラスにかけると、僕は抱きしめていた。彼女が猫の姿だった時と変わらない、僕の心は――。

「君と寄り添い、最後の日まで大切な君と一緒にいられたら僕はそれだけで」

 その言葉を発した瞬間、脳裏に駆け巡る遠い昔の記憶。

――そうか、そうだったんだ。僕は遠い昔、君に約束した。

『セーラス、必ず君を元の姿に! ぜったいに消させやしない』

「ティエラ……えっと」
「恥ずかしい、の意味を思い出した」
「あっ!! それでは、まさか」

 僕はもう一度、抱きしめる。

「寂しい想いをさせて、すまなかった」

 そうだ。君は光の精霊で、この桜の花びらと奏でていたんだ。そんな君に人である僕は恋をした。しかし精霊である君と結ばれることは許されず、落胆した。それでもただ、一緒に過ごす時間が幸せであれば、それだけで良かったんだ。

 そんなある日、この世界は一気にバランスを崩した。共に助け合い暮らしてきた人と精霊は引き離され、暗い時代が訪れる。そして数百年も、経ってしまっていたのだ。

「長い間、待たせてしまったね」

 僕の記憶はもちろん、前世とも言える。先祖の“僕”が成し得なかった想いの想像体かもしれない。それでも、今の僕が持つこの想いは本物だ。

 深く深いこの愛を、セーラスへ伝えようと、強く抱きしめた。

「大丈夫です、猫の姿も気に入っていました」

 この世界はかつて、悲しみで溢れていた。

「もう二度と、寂しい思いはさせない」
「えぇ、ずっと。これからも一緒に」

 しかし、光の精霊である彼女の力により、光の根源である桜の木が復活したのである。

「愛してるよ、セーラス」

 桜の花びらの祝福を受けながら甘く、甘い口づけの後――。
 雪解けの中、満開に咲く桜の木の下で、僕らは再び結ばれた。

 僕たちは、僕たちの創っていく、新しい世界となって。

 もしもまた、光が消えてしまう日が来たとしたら。いや、そんなことはもう起きてはいけない……起こしてはいけないのだ。

「私もです、ティエラ。心から愛しています」

 そして僕たちは、この世界で。
――永遠の愛を、誓ったのだった。
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