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第54話:癒し手の心
しおりを挟む講義室は絶対的な静寂に支配されていた。
完全に回復したグリフォンが、私の頬に大きな頭を親しげにすり寄せている。その光景を前に、学生も助手も、そして研究所の講師たちさえも、ただ言葉を失っていた。目の前で起きた奇跡が、まだうまく飲み込めていないのだ。
その静寂を破ったのは、意外にも首席のマーカスだった。
彼は砕け散ったプライドを必死でかき集めるように、ふらつきながら立ち上がる。顔は青ざめ、声は震えていた。だがその瞳にもはや侮蔑の色はない。ただ、理解不能なものを前にした純粋な畏怖と問いかけだけがあった。
「……今のは、一体……何なのだ……?」
彼の、か細い声が講義室に響く。
「どんな書物にも記されていない。あんな治癒魔術は……! あの精密な魔力制御と、グリフォンとの絆のようなものは……一体、どうすれば……!」
彼の魂からの問いに、他の学生たちも皆、頷いていた。
私はグリフォンの頭を優しく撫でてやると、ゆっくりと彼らに向き直った。
「―――皆さんの診断は、間違っていませんでしたよ」
私の予想外の言葉に、学生たちが目を見開く。
「彼の魔力循環が停滞していたのも、翼に炎症があったのも事実です。皆さんは教科書通り、完璧な診断をしました」
私はにこりと微笑んだ。
「でも、教科書に載っていることだけが、全てじゃないんです」
私は静かに語り始めた。
「皆さんは、彼を『診断』しようとしていました。まるで壊れた機械を調べるみたいに。でも、この子は機械じゃありません。心を持った生き物です。ヒーラーにとって一番大事なこと、それは魔術の知識や技術じゃない。最初にすべきことは、ただ一つ」
私は自分の胸に、そっと手を当てた。
「―――『聴く』ことです」
「聴く……?」
マーカスが、訝しげに繰り返す。
「はい。全ての生き物には『声』があるんです。生命が奏でる、魂の歌声が。病気や怪我は、その美しい歌のどこか一つの音が外れてしまった状態なの。ヒーラーの本当の仕事は、その不協和音を力でねじ伏せることじゃない。どの音が、なぜ外れたのか、その声にじっと耳を傾けてあげること。そして患者さん自身の生命力が、もう一度正しい旋律を思い出せるように、そっと手を貸してあげることなんです」
私の言葉に、学生たちは呆然としていた。
魔術の理論や術式ではない。あまりにも情緒的で、そして根源的なヒーラーとしての在り方。
「わたくしが彼の第二心臓や寄生虫に気づけたのは、ただ彼の歌を聴いていただけです。そして彼の歌が一番乱れていた原因は、身体の痛みなんかじゃありませんでした」
私はグリフォンの澄んだ瞳を見つめ返した。
「彼の心が、泣いていたんです。身体の治療はただの外科手術。簡単です。でも、それだけでは彼の魂は救えなかった。ヒーラーは傷だけを診るんじゃない。その奥にある心ごと、患者さんの全てを診るんです。そのことを、絶対に忘れないでください」
それは、この国のどんな高名なヒーラーも語ることのなかった、あまりにもシンプルで、そしてあまりにも難しい、癒しの本質。
講義室は再び静寂に包まれた。
やがて。
首席のマーカスがゆっくりと私の前に進み出た。そして彼は、高かったはずの貴族のプライドを完全に捨て去り、私に深く、深く頭を下げた。
「……我々の不明を、お許しください。そして……どうか、我々にご指導を……ユヅカ、先生!」
その一言を皮切りに、他の全ての学生たちが立ち上がり、私に一斉に頭を下げた。
その瞳に宿っているのは、もはや侮りでも好奇心でもない。
真の叡智を前にした、純粋な尊敬と渇望の光だった。
「ええっ!? せ、先生って……!」
突然のことに私が狼狽えていると、講義室の隅で腕を組み、満足げにその光景を眺めていた師匠が、すっと前に進み出た。
「―――今日の講義は、ここまでだ」
彼の静かな一言が、その場の熱狂を鎮める。
「残りは自習とする。今日お前たちが何を見て、何を感じたか。それこそが貴様らにとって、生涯最高の課題となるだろう」
学生たちはその言葉にはっとしたように顔を上げた。
彼らはもう、以前の彼らではない。
一人の少女がその身をもって示した奇跡と、その奥にある真理。
彼らのヒーラーとしての本当の道は、今この瞬間から始まったのだ。
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