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第一章 結婚は人生の墓場と言うが
結婚は人生の墓場
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「――おい! おい、グレウス! しっかりしろ!」
「え……」
体を揺さぶられて、グレウスはハッと正気に返った。
ここは謁見の間だ。跪いたまま気を失ってでもいたのか、玉座の周りにはもう誰もいなかった。
グレウスの肩を掴んで揺すっているのは、騎士団長のカッツェだ。
「あ、あれ……陛下とあの人は……」
「もうとっくに退出されたよ。ひとまず下がるぞ」
カッツェに促されて、グレウスはようやく立ち上がった。
長い時間跪いていたせいか、歩くと膝がガクガクする。気のいいカッツェが肩を支えてくれようとしたが、肩の高さが合わないので結局一人で歩くことになった。
「……それにしても、まさか『黒の魔王』が臣籍降嫁とはな……」
よろよろしながら歩くグレウスの耳に、カッツェの呟きが届いた。
前を向いたその顔は苦虫を噛み潰したかのように厳しい。
「黒の魔王……?」
グレウスが問い返すと、カッツェはハッとしたように周囲を見回した。ここは謁見の間から兵舎へと戻る廊下で、人通りは他にない。
辺りを憚るように見回しながら、カッツェは小声で囁いた。
「ご本人の前では言うなよ。あの御方は、貴族たちの間ではそう呼ばれて、怖れられているんだ」
伯爵家の当主でもある騎士団長の言葉に、グレウスは頷いた。
一目見た瞬間、グレウスもまるで古代の魔王のようだと思ったのだ。
黒いローブに長い黒髪。神秘的な赤い瞳。
エルフの末裔と言われるアスファロスの皇室とは、あまりにも異質な雰囲気を持つ人物だった。
「確かに、ちょっと凄みがある雰囲気でした」
「ちょっと!? お前、ちょっとなんてものか、アレが!」
グレウスが感想を述べると、カッツェは動揺も露わに声を荒げ、声が大きくなったことにハッとしたように口を押さえた。日に焼けた横顔が、幾分青褪めて見える。
それほど怖ろしい人物なのだろうか。
たしか選定で魔力が少ないと判じられて、ほとんど引きこもりのように王城の奥で十年を過ごした皇族のはずだ。グレウスのような庶民は、近衛騎士でなければ名も知らないことだろう。
腑に落ちない顔をしていると、カッツェはグレウスの腕を引っ張って、さらに人気のない中庭の方へと足を向けた。
太陽の光を燦燦と浴びて、騎士団長はやっと人心地がついたようだ。
「お前だから忠告するんだが、身辺には気をつけろ」
しきりと周囲を気にしながら、カッツェは小声で話し始めた。
「十年前の選定儀式の後、すぐにでも臣籍降嫁は決まるはずだったんだ。だが名が挙がった貴族が次々と失脚して、結婚相手は気が狂ったり行方不明になったりしている。あの御方が今も城に居られるのには、そういう事情がある」
確かに言われてみれば、臣籍降嫁する皇族というのは大抵二十歳そこそこだ。除籍されながら、いつまでも城に残る皇族の話は聞いたことがない。庶民でも嫁き遅れると肩身の狭いものだが、皇族ならばなおさらだろう。
しかし、皇弟は一味違うようだ。
「降嫁先がなくなったのをいいことに、あの方は裏で貴族院の議長を抱き込んで暗躍しているという話だ。あの黒い目を見ただろう。正面からあの目を見返すと、操り人形のようになるか、気が触れておかしくなると言われている」
『黒い目』と言ったカッツェに、グレウスは首を傾げた。
謁見の間で会った時、皇弟の目の色は朝焼けのような緋色だった。
珍しい目の色ではあるが、グレウスは幼い頃にも同じ色の目を見た気がする。美しいとは思ったが、怖ろしさは感じなかった。
カッツェは見るのを怖れて視線を逸らしていたので、噂を鵜呑みにしているのだろう。
しかし冷静になって考えてみると、例え噂が出鱈目だったとしても、結婚相手として喜ばしいとは言い難い。
皇室の警護で心身ともに疲れ切って帰宅すると、家にあの皇弟殿下が待ち構えている――どう考えても、気が休まるとは思えなかった。
皇族に離縁はあり得ないので、結婚すればこの先ずっと他に妻を持つことはできない。妾などもってのほかだ。
結婚は人生の墓場という言葉があるが、まさに文字通りになりそうだ。
いつか可愛い妻を迎えて、幸せな結婚生活を送るのだという淡い夢が、完全に断ち切られることになるのだから。
やっと事態が呑み込めてきて、グレウスは青くなって上官に縋った。
「なんとか穏便にお断りは……」
「諦めろ」
答えは無情だった。
丁寧に整えた髪を掻き回しながら、騎士団長は気の毒そうに言葉を発した。
「副団長への大昇進に、侯爵位だぞ。今度こそ皇帝陛下は何が何でもあの方を降嫁させる構えだ。お前にできることは聖教会に寄付でもして、呪いにかかりませんようにと祈ることくらいだよ」
「え……」
体を揺さぶられて、グレウスはハッと正気に返った。
ここは謁見の間だ。跪いたまま気を失ってでもいたのか、玉座の周りにはもう誰もいなかった。
グレウスの肩を掴んで揺すっているのは、騎士団長のカッツェだ。
「あ、あれ……陛下とあの人は……」
「もうとっくに退出されたよ。ひとまず下がるぞ」
カッツェに促されて、グレウスはようやく立ち上がった。
長い時間跪いていたせいか、歩くと膝がガクガクする。気のいいカッツェが肩を支えてくれようとしたが、肩の高さが合わないので結局一人で歩くことになった。
「……それにしても、まさか『黒の魔王』が臣籍降嫁とはな……」
よろよろしながら歩くグレウスの耳に、カッツェの呟きが届いた。
前を向いたその顔は苦虫を噛み潰したかのように厳しい。
「黒の魔王……?」
グレウスが問い返すと、カッツェはハッとしたように周囲を見回した。ここは謁見の間から兵舎へと戻る廊下で、人通りは他にない。
辺りを憚るように見回しながら、カッツェは小声で囁いた。
「ご本人の前では言うなよ。あの御方は、貴族たちの間ではそう呼ばれて、怖れられているんだ」
伯爵家の当主でもある騎士団長の言葉に、グレウスは頷いた。
一目見た瞬間、グレウスもまるで古代の魔王のようだと思ったのだ。
黒いローブに長い黒髪。神秘的な赤い瞳。
エルフの末裔と言われるアスファロスの皇室とは、あまりにも異質な雰囲気を持つ人物だった。
「確かに、ちょっと凄みがある雰囲気でした」
「ちょっと!? お前、ちょっとなんてものか、アレが!」
グレウスが感想を述べると、カッツェは動揺も露わに声を荒げ、声が大きくなったことにハッとしたように口を押さえた。日に焼けた横顔が、幾分青褪めて見える。
それほど怖ろしい人物なのだろうか。
たしか選定で魔力が少ないと判じられて、ほとんど引きこもりのように王城の奥で十年を過ごした皇族のはずだ。グレウスのような庶民は、近衛騎士でなければ名も知らないことだろう。
腑に落ちない顔をしていると、カッツェはグレウスの腕を引っ張って、さらに人気のない中庭の方へと足を向けた。
太陽の光を燦燦と浴びて、騎士団長はやっと人心地がついたようだ。
「お前だから忠告するんだが、身辺には気をつけろ」
しきりと周囲を気にしながら、カッツェは小声で話し始めた。
「十年前の選定儀式の後、すぐにでも臣籍降嫁は決まるはずだったんだ。だが名が挙がった貴族が次々と失脚して、結婚相手は気が狂ったり行方不明になったりしている。あの御方が今も城に居られるのには、そういう事情がある」
確かに言われてみれば、臣籍降嫁する皇族というのは大抵二十歳そこそこだ。除籍されながら、いつまでも城に残る皇族の話は聞いたことがない。庶民でも嫁き遅れると肩身の狭いものだが、皇族ならばなおさらだろう。
しかし、皇弟は一味違うようだ。
「降嫁先がなくなったのをいいことに、あの方は裏で貴族院の議長を抱き込んで暗躍しているという話だ。あの黒い目を見ただろう。正面からあの目を見返すと、操り人形のようになるか、気が触れておかしくなると言われている」
『黒い目』と言ったカッツェに、グレウスは首を傾げた。
謁見の間で会った時、皇弟の目の色は朝焼けのような緋色だった。
珍しい目の色ではあるが、グレウスは幼い頃にも同じ色の目を見た気がする。美しいとは思ったが、怖ろしさは感じなかった。
カッツェは見るのを怖れて視線を逸らしていたので、噂を鵜呑みにしているのだろう。
しかし冷静になって考えてみると、例え噂が出鱈目だったとしても、結婚相手として喜ばしいとは言い難い。
皇室の警護で心身ともに疲れ切って帰宅すると、家にあの皇弟殿下が待ち構えている――どう考えても、気が休まるとは思えなかった。
皇族に離縁はあり得ないので、結婚すればこの先ずっと他に妻を持つことはできない。妾などもってのほかだ。
結婚は人生の墓場という言葉があるが、まさに文字通りになりそうだ。
いつか可愛い妻を迎えて、幸せな結婚生活を送るのだという淡い夢が、完全に断ち切られることになるのだから。
やっと事態が呑み込めてきて、グレウスは青くなって上官に縋った。
「なんとか穏便にお断りは……」
「諦めろ」
答えは無情だった。
丁寧に整えた髪を掻き回しながら、騎士団長は気の毒そうに言葉を発した。
「副団長への大昇進に、侯爵位だぞ。今度こそ皇帝陛下は何が何でもあの方を降嫁させる構えだ。お前にできることは聖教会に寄付でもして、呪いにかかりませんようにと祈ることくらいだよ」
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