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第三章 けだものでも、まおうでも
なべて世は事もなし(終)
「アロイーズ!」
グレウスが名を呼ぶと、黒竜は獰猛な唸り声をあげながら翼を広げて羽ばたいた。
頭上から照り付ける真夏の太陽が熱を失い、凍り付くような冷たい風が吹き荒れる。
近衛騎士たちが放った火の魔法は黒い翼に吸い込まれて効力を失った。風の魔法は強風に掻き消され、水の魔法は瞬く間に凍り付く。
「まだだ! 魔力を込め続けろ!」
上官からの命令に騎士たちは必死で従おうとするが、竜と人では元の魔力の保有量が違う。渾身の力を込めて放った魔法を打ち消されて、騎士たちが力尽きたように地面に膝を突いていく。
それを目にして、グレウスは号令をかけた。
「止め! そこまで!」
ぴたりと風が止んだ。
冷たい暴風に晒された芝生は氷の結晶を纏い、太陽の光を受けて輝いている。
騎士たちは凍り付いた大地に次々と身を投げ出した。地面のあちらこちらで、絞り出すような声が上がる。
「はぁぁ……涼しい~~~~」
ここは城の中庭だ。
数年前のアッテカ山の竜騒動の後、ディルタスは皇族が乗馬や剣術の練習に使っていた西の庭園を、黒竜と騎士たちのために明け渡した。以来、アロイーズは毎朝グレウスと共に城に出仕し、この場所で近衛騎士団の訓練に参加してくれている。
「やぁ、やってるな」
中庭の入り口から声が聞こえた。
騎士たちはその声に気づくと、慌てて体を起こして敬礼の姿勢を取る。グレウスも顔を綻ばせて、かつての上官を出迎えた。
「お久しぶりです、バルバドス将軍」
笑みを浮かべて中庭にやってきたのは、カッツェ・バルバドス元近衛騎士団長だ。
「どうだ。訓練は捗っていそうか、ロア騎士団長」
「まずまずです」
カッツェは今までの功績を認められて、国防軍の将軍の一人に昇進した。それに伴い、近衛騎士団長の後任にはグレウスが就くこととなった。アスファロス史上初の、平民出身の騎士団長だ。
グレウスの騎士団長就任は、多くの騎士に希望を与えた。この国では力を磨きさえすれば、たとえ平民でも出世の道が拓かれるのだと。
この頃では地方貴族の子弟や平民から大勢の志願者が押し寄せてくる。騎士団だけでなく軍の歩兵団や聖教会の魔導師も、大幅に人員を拡充したようだ。
騎士団では、夏の間だけではあるが伝説の魔竜が訓練に参加することも、志願者が増えた大きな理由の一つだ。
魔導皇アスファロトの英雄譚とともに、世界の破滅を目論んだ魔王とその恐ろしい黒竜の伝説もまた、広く国民に知られている。
その伝説の魔竜が城に居る。ただ居るだけでなく、実際に対峙して戦うことができるのだ。
見た目は背筋も凍るほど獰猛な竜だが、性格は温和で、伝説のように人や家畜を喰らうこともない。攻撃と防御の両面で魔法の実践ができる上に、夏は居るだけでとにかく涼しい。
しかも興が乗れば前脚で掴み上げて、時には国境近くまで空の散歩に連れて行ってくれることもある。
黒竜の気まぐれに付き合わされた騎士たちは大抵肝を冷やして帰るが、国境に駐屯する他国の兵士が黒竜を見上げて大騒ぎする様子を見ると、なにやら誇らしい気分になるらしい。
世界広しと言えども、さすがに竜を手懐けている国は他にないからだ。
新しく騎士団長になったグレウスの人気も上々だ。
見た目は手負いの熊のように厳ついが、平民出身だけあって性格は気取らず朴訥。剣技や肉弾戦はアスファロス随一で、魔法に関しては聖教会の卿が束になっても打ち破れない高度な対魔法障壁を展開できる。
爵位を持ってはいるが、貴族にありがちな家絡みの確執を持たないので、才能さえあれば誰でも取り立ててくれる。下の者にとっては願ったりの上官だ。
それに大変な愛妻家で、何かと悪い噂のあった皇弟も結婚後はすっかり絆され、今では城の皇族とも親密な交流を持つようになったと言われている。勿論、誰も不幸に襲われていない。
人数が大幅に増えた騎士たちは、皆生き生きとした様子で訓練に励んでいる。
訓練場と化した中庭には、近衛騎士団だけでなく城の警備や街の巡回を担当する騎士、それに一部の国防軍兵士までが参加していた。
アスファロスの国の守りは、これまでは戦いにはあまり向かない聖教会の魔導師と、地方の国境警備兵に頼りっぱなしだったのだが、人員が増えたこともあって正式に国防軍が組織された。
今までのような地方貴族が指揮する領民集団ではなく、皇国所属の将校が、訓練を受けた練度の高い兵を率いて、主要な国境を押さえている。
諸外国に於いて、ディルタスの名は今や覇王の代名詞だ。
選定の宝珠を真昼のように輝かせ、獰猛な魔竜さえも膝下に屈させる大魔導師。今では引退したヴァルファーレン聖教皇の代わりに、聖教会の長も兼任している。
軍の練度は上がる一方だが、アスファロスの領土を狙おうなどという無謀な国は、暫く出そうにもない。
「騎士たちに差し入れだ。訓練の後で食べてくれ」
カッツェは小脇に抱えていた籠をグレウスに渡した。中には大きな西瓜が二つ入っている。夏の訓練で火照った体には最高の褒美だ。騎士たちの間から歓声があがる。
グレウスはありがたく受け取り、水を満たした特大の桶に籠の中身を空けた。
日向に置かれているにも関わらず、桶の水は手が痺れそうに冷たい。城の厨房から預かった野菜や果物が水面一杯に浮かんでいた。
『ピィ! ピィ!』
『ピピッ!』
「いい子だな。これも冷やしておいてくれ」
水面から出た二つの黒い頭を交互に撫でると、犬ほどの大きさに育った二匹の雛が嬉しそうに尻尾を振り上げる。
アロイーズが産んだ黒い竜の雛だ。
鼻面を寄せてきた黒竜を、グレウスは優しく撫でる。
アロイーズという優美な名を持つ黒竜は、火喰い竜という種族らしい。彼らは植物の実や生きた動物なども食すが、一番の好物は『熱』だ。
昔この大陸には多くの活火山があった。
火山の噴火や溶岩の流出による被害が絶えなかったために、アスファロトは時空魔法を用いて卵を探し出し、この国に持ち帰った。
愛情深く育てられた竜は穏やかで、人の側にいることを好む。
しかし居るだけであたりの気温が下がるので、餌となる熱が少ない冬の時期にはこの大陸を離れて、温かい南の島へ飛び立っていく。
毎年初夏になると南の島から舞い戻ってくるのだが、今年はいつもより随分早く戻ってきた。と思ったら、グレウスの屋敷で大きな卵を二つ産んだ。
てっきり雄だと思っていたので、腹の下に卵を抱いているのを見た時には、飛び上がるほど驚いたものだ。
卵が孵化する瞬間にたまたま居合わせたせいで親の一人と思われたらしく、どこへ行くにもこの雛がついて来ようとするので、現在グレウスは子守りに追われている。
なにせ遊び好きのやんちゃな種族で、目を離すと辺りを破壊しかねないので、根気よく躾けている最中だ。
「それから、その……すまないが、これを凍らせておいてもらえないか」
少々申し訳なさそうに、カッツェが小振りな木箱を取り出した。
緩衝材の布に包まれて大切そうに入っていたのは、よく熟れた上等の桃だった。
「ここのところの暑さで妻が食欲を無くしていてね。私用ですまないが、冷たい水菓子ならば食べられそうだと言うので……」
男らしい顔を僅かに赤く染めながら、カッツェが言う。
思わずグレウスの顔も緩んだ。
「承りました。チビたちはまだ凍らせるのは無理なので、後でアロイーズに頼んで、夕刻の退勤前に執務室にお届けします。……奥方様の食欲が早く戻られるといいですね」
屈託なくグレウスは言った。
妻と死別して独り身だったカッツェは、将軍職就任と同時に新しい妻を迎えていた。相手はなんと、あのエルロイドだ。
アッテカ洞穴の騒動の後、オルガはグレウスに掛けられた魔法の仕返しに、同じものをエルロイドに掛け返した。しかも何倍返しかわからぬほど、強烈なものをだ。
前年の花火事件の再調査もあり、治療室の一角で軟禁状態にあったエルロイドは、欲望を解消する相手もいない部屋の中で七転八倒したらしい。
その時の後遺症で、魔法の効力が解かれた後も欲情を抑えきれない体になってしまった。ずっと治療室から出られずにいたところを、カッツェが志願して相手を務めたそうだ。
後から聞いたことだが、カッツェは若い頃からエルロイドに密かな恋心を抱いていたものの、身分違いだと諦めていたらしい。
ディルタスの計らいでめでたく結婚した二人は、今では知る人ぞ知るお熱いおしどり夫婦になっている。
「ありがとう。妻にも伝えておく」
面映ゆそうな表情を浮かべて、カッツェが礼を言った。
四十代に入ったばかりのカッツェは、前よりも男振りが上がって若返ったようだ。肌もつやつやしている。
もともとカッツェはグレウスにも負けないくらいの体力自慢で、病弱だった前夫人は、僅か四年の婚姻期間で三人の男児を産んだほどだった。
エルロイドの食欲がないのはカッツェとの夜の営みが激しすぎるせいではないかと思ったが、グレウスは口に出さなかった。
訓練の続きをしようかと、騎士たちを見回した時。
「ロア侯爵――! お手すきなら、わたくしと勝負なさって!」
中庭の入り口から別の声が掛かった。
振り向くと、訓練用の服に身を包んだエルモ皇女が元気に駆けてくるところだった。
皇女はディルタス皇帝とソフィア皇妃との間に生まれた第一子で、お転婆で勝気な十五歳の少女だ。
その後ろから六人の皇子皇女もそれぞれ訓練着に身を包んで走ってくる。一番小さな皇子は乳母に手を繋がれてのよちよち歩きだが、一人前に訓練着姿だった。
「今日こそは侯爵を魔法で唸らせて差し上げるわ! わたくしが勝ったら、アロイーズの背中に乗って空を飛ばせてくださるお約束よ!」
勢いよく走ってきた皇女は、グレウスの前まで来ると息も切らさず宣言した。どうやらオルガに新しい魔法を習ったので、それを試したくて仕方がないようだ。
少女はソフィア皇妃似の栗色の巻き毛を一つに纏め、大きな茶色の瞳をきらきらと輝かせている。すらりとした体を短い上着と細身のズボンで包んだ姿は、皇女というよりも街のやんちゃな少年のようだ。
好奇心旺盛で、怖い物知らず。だが身分の上下に関わらず人を大切にし、勉学にも熱心で優秀だと、ディルタスが眦を下げて自慢していた。
正統のアスファロス皇室の血はあまり感じられないが、努力を怠らぬようならば、いずれこの皇女を次の皇帝に据えるつもりだと、ディルタスは話した。
男か女か、魔力が多いか少ないか。そんなことに拘る時代はもう終わったのだ。
皇帝の座には、最も皇帝に相応しい人間が座ればよいと、のんびりした口調でそう語った。
「……さて、殿下の魔法が私に通用しますかどうか?」
悪戯そうに笑って、グレウスは臍の奥に力を籠める。
オルガの教えが良いせいか、皇女の魔法はなかなかのものだが、グレウスも負けてはいない。結局魔法は使えないままだが、訓練の末、魔法防御の力を自在に扱えるようになっている。
グレウスは誰の目にもわかりやすいように、体の正面に分厚い対魔法障壁を築いた。周りに被害が及ばぬよう、騎士たちの周囲にも薄く障壁を張っておく。
恒例の騎士団長と皇女の勝負が見られるとあって、騎士たちは顔を輝かせて場所を開け、勝負を見守る姿勢だ。
ふと目をやると、中庭が見える回廊に赤子を抱いたソフィア皇妃とディルタス皇帝が、仲睦まじい様子で愛娘の勝負を見物に来ていた。
そこから少し離れた場所には見慣れた黒衣が佇んでいる。
――グレウスの最愛にして、最強の妻だ。
相手が皇女と言えども、妻の見ている前で醜態を晒すことなどできるはずもない。
グレウスは気を引き締めて、障壁の強度に意識を集中する。
皇女は軽く両足を開くと杖を構え、きらきらと輝く光の粒を全身に纏わせた。
「いきますわよ。――いざ、勝負!」
前に出した杖から光が放たれる。
視界が眩しさで覆われる直前、グレウスは黒の魔王と呼ばれた愛しの妻が、慈愛に満ちた表情で微笑むのを目にした。
グレウスが名を呼ぶと、黒竜は獰猛な唸り声をあげながら翼を広げて羽ばたいた。
頭上から照り付ける真夏の太陽が熱を失い、凍り付くような冷たい風が吹き荒れる。
近衛騎士たちが放った火の魔法は黒い翼に吸い込まれて効力を失った。風の魔法は強風に掻き消され、水の魔法は瞬く間に凍り付く。
「まだだ! 魔力を込め続けろ!」
上官からの命令に騎士たちは必死で従おうとするが、竜と人では元の魔力の保有量が違う。渾身の力を込めて放った魔法を打ち消されて、騎士たちが力尽きたように地面に膝を突いていく。
それを目にして、グレウスは号令をかけた。
「止め! そこまで!」
ぴたりと風が止んだ。
冷たい暴風に晒された芝生は氷の結晶を纏い、太陽の光を受けて輝いている。
騎士たちは凍り付いた大地に次々と身を投げ出した。地面のあちらこちらで、絞り出すような声が上がる。
「はぁぁ……涼しい~~~~」
ここは城の中庭だ。
数年前のアッテカ山の竜騒動の後、ディルタスは皇族が乗馬や剣術の練習に使っていた西の庭園を、黒竜と騎士たちのために明け渡した。以来、アロイーズは毎朝グレウスと共に城に出仕し、この場所で近衛騎士団の訓練に参加してくれている。
「やぁ、やってるな」
中庭の入り口から声が聞こえた。
騎士たちはその声に気づくと、慌てて体を起こして敬礼の姿勢を取る。グレウスも顔を綻ばせて、かつての上官を出迎えた。
「お久しぶりです、バルバドス将軍」
笑みを浮かべて中庭にやってきたのは、カッツェ・バルバドス元近衛騎士団長だ。
「どうだ。訓練は捗っていそうか、ロア騎士団長」
「まずまずです」
カッツェは今までの功績を認められて、国防軍の将軍の一人に昇進した。それに伴い、近衛騎士団長の後任にはグレウスが就くこととなった。アスファロス史上初の、平民出身の騎士団長だ。
グレウスの騎士団長就任は、多くの騎士に希望を与えた。この国では力を磨きさえすれば、たとえ平民でも出世の道が拓かれるのだと。
この頃では地方貴族の子弟や平民から大勢の志願者が押し寄せてくる。騎士団だけでなく軍の歩兵団や聖教会の魔導師も、大幅に人員を拡充したようだ。
騎士団では、夏の間だけではあるが伝説の魔竜が訓練に参加することも、志願者が増えた大きな理由の一つだ。
魔導皇アスファロトの英雄譚とともに、世界の破滅を目論んだ魔王とその恐ろしい黒竜の伝説もまた、広く国民に知られている。
その伝説の魔竜が城に居る。ただ居るだけでなく、実際に対峙して戦うことができるのだ。
見た目は背筋も凍るほど獰猛な竜だが、性格は温和で、伝説のように人や家畜を喰らうこともない。攻撃と防御の両面で魔法の実践ができる上に、夏は居るだけでとにかく涼しい。
しかも興が乗れば前脚で掴み上げて、時には国境近くまで空の散歩に連れて行ってくれることもある。
黒竜の気まぐれに付き合わされた騎士たちは大抵肝を冷やして帰るが、国境に駐屯する他国の兵士が黒竜を見上げて大騒ぎする様子を見ると、なにやら誇らしい気分になるらしい。
世界広しと言えども、さすがに竜を手懐けている国は他にないからだ。
新しく騎士団長になったグレウスの人気も上々だ。
見た目は手負いの熊のように厳ついが、平民出身だけあって性格は気取らず朴訥。剣技や肉弾戦はアスファロス随一で、魔法に関しては聖教会の卿が束になっても打ち破れない高度な対魔法障壁を展開できる。
爵位を持ってはいるが、貴族にありがちな家絡みの確執を持たないので、才能さえあれば誰でも取り立ててくれる。下の者にとっては願ったりの上官だ。
それに大変な愛妻家で、何かと悪い噂のあった皇弟も結婚後はすっかり絆され、今では城の皇族とも親密な交流を持つようになったと言われている。勿論、誰も不幸に襲われていない。
人数が大幅に増えた騎士たちは、皆生き生きとした様子で訓練に励んでいる。
訓練場と化した中庭には、近衛騎士団だけでなく城の警備や街の巡回を担当する騎士、それに一部の国防軍兵士までが参加していた。
アスファロスの国の守りは、これまでは戦いにはあまり向かない聖教会の魔導師と、地方の国境警備兵に頼りっぱなしだったのだが、人員が増えたこともあって正式に国防軍が組織された。
今までのような地方貴族が指揮する領民集団ではなく、皇国所属の将校が、訓練を受けた練度の高い兵を率いて、主要な国境を押さえている。
諸外国に於いて、ディルタスの名は今や覇王の代名詞だ。
選定の宝珠を真昼のように輝かせ、獰猛な魔竜さえも膝下に屈させる大魔導師。今では引退したヴァルファーレン聖教皇の代わりに、聖教会の長も兼任している。
軍の練度は上がる一方だが、アスファロスの領土を狙おうなどという無謀な国は、暫く出そうにもない。
「騎士たちに差し入れだ。訓練の後で食べてくれ」
カッツェは小脇に抱えていた籠をグレウスに渡した。中には大きな西瓜が二つ入っている。夏の訓練で火照った体には最高の褒美だ。騎士たちの間から歓声があがる。
グレウスはありがたく受け取り、水を満たした特大の桶に籠の中身を空けた。
日向に置かれているにも関わらず、桶の水は手が痺れそうに冷たい。城の厨房から預かった野菜や果物が水面一杯に浮かんでいた。
『ピィ! ピィ!』
『ピピッ!』
「いい子だな。これも冷やしておいてくれ」
水面から出た二つの黒い頭を交互に撫でると、犬ほどの大きさに育った二匹の雛が嬉しそうに尻尾を振り上げる。
アロイーズが産んだ黒い竜の雛だ。
鼻面を寄せてきた黒竜を、グレウスは優しく撫でる。
アロイーズという優美な名を持つ黒竜は、火喰い竜という種族らしい。彼らは植物の実や生きた動物なども食すが、一番の好物は『熱』だ。
昔この大陸には多くの活火山があった。
火山の噴火や溶岩の流出による被害が絶えなかったために、アスファロトは時空魔法を用いて卵を探し出し、この国に持ち帰った。
愛情深く育てられた竜は穏やかで、人の側にいることを好む。
しかし居るだけであたりの気温が下がるので、餌となる熱が少ない冬の時期にはこの大陸を離れて、温かい南の島へ飛び立っていく。
毎年初夏になると南の島から舞い戻ってくるのだが、今年はいつもより随分早く戻ってきた。と思ったら、グレウスの屋敷で大きな卵を二つ産んだ。
てっきり雄だと思っていたので、腹の下に卵を抱いているのを見た時には、飛び上がるほど驚いたものだ。
卵が孵化する瞬間にたまたま居合わせたせいで親の一人と思われたらしく、どこへ行くにもこの雛がついて来ようとするので、現在グレウスは子守りに追われている。
なにせ遊び好きのやんちゃな種族で、目を離すと辺りを破壊しかねないので、根気よく躾けている最中だ。
「それから、その……すまないが、これを凍らせておいてもらえないか」
少々申し訳なさそうに、カッツェが小振りな木箱を取り出した。
緩衝材の布に包まれて大切そうに入っていたのは、よく熟れた上等の桃だった。
「ここのところの暑さで妻が食欲を無くしていてね。私用ですまないが、冷たい水菓子ならば食べられそうだと言うので……」
男らしい顔を僅かに赤く染めながら、カッツェが言う。
思わずグレウスの顔も緩んだ。
「承りました。チビたちはまだ凍らせるのは無理なので、後でアロイーズに頼んで、夕刻の退勤前に執務室にお届けします。……奥方様の食欲が早く戻られるといいですね」
屈託なくグレウスは言った。
妻と死別して独り身だったカッツェは、将軍職就任と同時に新しい妻を迎えていた。相手はなんと、あのエルロイドだ。
アッテカ洞穴の騒動の後、オルガはグレウスに掛けられた魔法の仕返しに、同じものをエルロイドに掛け返した。しかも何倍返しかわからぬほど、強烈なものをだ。
前年の花火事件の再調査もあり、治療室の一角で軟禁状態にあったエルロイドは、欲望を解消する相手もいない部屋の中で七転八倒したらしい。
その時の後遺症で、魔法の効力が解かれた後も欲情を抑えきれない体になってしまった。ずっと治療室から出られずにいたところを、カッツェが志願して相手を務めたそうだ。
後から聞いたことだが、カッツェは若い頃からエルロイドに密かな恋心を抱いていたものの、身分違いだと諦めていたらしい。
ディルタスの計らいでめでたく結婚した二人は、今では知る人ぞ知るお熱いおしどり夫婦になっている。
「ありがとう。妻にも伝えておく」
面映ゆそうな表情を浮かべて、カッツェが礼を言った。
四十代に入ったばかりのカッツェは、前よりも男振りが上がって若返ったようだ。肌もつやつやしている。
もともとカッツェはグレウスにも負けないくらいの体力自慢で、病弱だった前夫人は、僅か四年の婚姻期間で三人の男児を産んだほどだった。
エルロイドの食欲がないのはカッツェとの夜の営みが激しすぎるせいではないかと思ったが、グレウスは口に出さなかった。
訓練の続きをしようかと、騎士たちを見回した時。
「ロア侯爵――! お手すきなら、わたくしと勝負なさって!」
中庭の入り口から別の声が掛かった。
振り向くと、訓練用の服に身を包んだエルモ皇女が元気に駆けてくるところだった。
皇女はディルタス皇帝とソフィア皇妃との間に生まれた第一子で、お転婆で勝気な十五歳の少女だ。
その後ろから六人の皇子皇女もそれぞれ訓練着に身を包んで走ってくる。一番小さな皇子は乳母に手を繋がれてのよちよち歩きだが、一人前に訓練着姿だった。
「今日こそは侯爵を魔法で唸らせて差し上げるわ! わたくしが勝ったら、アロイーズの背中に乗って空を飛ばせてくださるお約束よ!」
勢いよく走ってきた皇女は、グレウスの前まで来ると息も切らさず宣言した。どうやらオルガに新しい魔法を習ったので、それを試したくて仕方がないようだ。
少女はソフィア皇妃似の栗色の巻き毛を一つに纏め、大きな茶色の瞳をきらきらと輝かせている。すらりとした体を短い上着と細身のズボンで包んだ姿は、皇女というよりも街のやんちゃな少年のようだ。
好奇心旺盛で、怖い物知らず。だが身分の上下に関わらず人を大切にし、勉学にも熱心で優秀だと、ディルタスが眦を下げて自慢していた。
正統のアスファロス皇室の血はあまり感じられないが、努力を怠らぬようならば、いずれこの皇女を次の皇帝に据えるつもりだと、ディルタスは話した。
男か女か、魔力が多いか少ないか。そんなことに拘る時代はもう終わったのだ。
皇帝の座には、最も皇帝に相応しい人間が座ればよいと、のんびりした口調でそう語った。
「……さて、殿下の魔法が私に通用しますかどうか?」
悪戯そうに笑って、グレウスは臍の奥に力を籠める。
オルガの教えが良いせいか、皇女の魔法はなかなかのものだが、グレウスも負けてはいない。結局魔法は使えないままだが、訓練の末、魔法防御の力を自在に扱えるようになっている。
グレウスは誰の目にもわかりやすいように、体の正面に分厚い対魔法障壁を築いた。周りに被害が及ばぬよう、騎士たちの周囲にも薄く障壁を張っておく。
恒例の騎士団長と皇女の勝負が見られるとあって、騎士たちは顔を輝かせて場所を開け、勝負を見守る姿勢だ。
ふと目をやると、中庭が見える回廊に赤子を抱いたソフィア皇妃とディルタス皇帝が、仲睦まじい様子で愛娘の勝負を見物に来ていた。
そこから少し離れた場所には見慣れた黒衣が佇んでいる。
――グレウスの最愛にして、最強の妻だ。
相手が皇女と言えども、妻の見ている前で醜態を晒すことなどできるはずもない。
グレウスは気を引き締めて、障壁の強度に意識を集中する。
皇女は軽く両足を開くと杖を構え、きらきらと輝く光の粒を全身に纏わせた。
「いきますわよ。――いざ、勝負!」
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