居場所

くろねこ

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序章

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 その日は数年に1度の嵐だった。まだ昼だと言うのに外は薄暗く、大きな音を立てながら雨粒が激しく窓を叩いている。それでもメイドが持ってきた少し冷めて固くなったオムレツの味はいつもと変わらない。僕にとっては何の変哲もない1日になるはずだった。
 
「坊っちゃま、お渡ししたいものがございます」
 
 じいやが苦い顔と一通の手紙を持って僕の部屋にやって来たのは、昼食を終え一息ついた頃だった。雨足はさらに強まり、建物ごと揺れるほどの暴風が吹き荒れている。母屋よりも簡素な造りであるこの離れでは不安さえ感じるほどだ。
 
「どうしたんですか?」
「坊っちゃま……これを、旦那様から……」
 
 じいやのシミ一つない白手袋に包まれた手は、小刻みに揺れている。受け取った手紙は見た目の重厚さに反して軽かった。一緒に持ってきてくれていたペーパーナイフで開封すると中から出てきたのは1枚のカードで、中央に王家の紋章が刻印された小さな石が張り付いている以外には何も書かれていない。そっと石に触れると淡い光とともに文字が浮かび上がってきた。
 
 
 リアン・フッド・フィルフェルム
 
 マルコス・サンチェス・ビカリオと婚姻することとする
 
 
 ドーンっと大きな音を立てて雷が落ちた。僕は知らない誰かと結婚させられるらしい。頭は妙に落ち着いていて現実を飲み込もうとする。どこか、安心したのかもしれない。それが結論だった。
 
*****


「今までありがとうございました。行ってまいります」
 
 見送りに来てくれたのは小さい頃から僕と兄様に付いてくれている執事のアンドレ、それに数人のメイドだけだった。
 
「リアン坊っちゃま、お元気で」
「アンドレ、これを兄上に渡してくれないかな?兄上が要らないと言えば処分して構わないから」
「これは…」
「僕の宝物。兄上に持っていて欲しいんだ」
 
 アンドレに渡したのは、昔母上から兄上とお揃いで貰った人形だ。幼くまだバース性も判明していなかった頃、僕たち双子は区別がつかないほどそっくりだった。今でこそ僕の髪は色が薄くなって銀になってしまったが当時は兄様と同じ金で、まるで天から遣わされたような双子だと周囲からとても大切にされていた。母上もその1人で、僕たちにそっくりだと買い与えてくれたのがこの人形だった。兄様の人形には金の、僕の人形には銀のリボンがついていてその皮肉めいた運命も含めて大切な宝物だった。 
 
「畏まりました。必ずお渡しいたします」
 
 いつでも背筋を伸ばし真摯な態度を崩さないアンドレは、僕がオメガだと分かって屋敷内で隔離されるようになってからも変わらずに接してくれた唯一の人だ。布で包んでいるものの触れた感触で中身を察したのか、アンドレの顔が今まで見た事のないものになる。厳しさと優しさを向け続けてくれた歳を重ねてもなお変わらない意思の強い瞳に水分が溜まっていくのが見えた。
 
「それでは行きましょうか」
 
 しっとりとした空気にカラッとした声が割り込んできた。動きやすいように無駄な装飾のないお仕着せに身を包んだ栗色の髪と榛色の大きな目が印象的なこの女性は、オランテス郷の使用人で僕を迎えに来てくれたうちの1人だ。
 
「お待たせしてしまってすいません。行きましょう」
「では、足元に気をつけてお乗りくださいね」
 
 リシャール公爵家にはいない、少し砕けた対応に新鮮さを感じつつも嫌な気はしないのは彼女の愛嬌によるものだろうか。もう一度アンドレ達に目を戻すと一斉に頭が下げられる。もう行ってきなさいということだろう。このままここでグズグズしていては彼らの負担になりそうなので早速乗り込むことにした。
 
 幼い頃父上や兄上と共に海を見たことはあったが、船に乗るのも外国に行くのも初めての経験だ。自由にしていいと言われたものの動き回る気にもなれず、生まれ育った大地が遠ざかっていくのをただ眺めていた。
 
「リアン様、紅茶でもいかがですか?メラルート産の紅茶は柔らかくて甘い匂いが特徴なんですよ。私、大好きなんです!」
「こら、ルイザ。友達と話しているんじゃないんだぞ。申し訳ございませんリアン様。窓の傍は冷えますので、こちらで温かい紅茶や焼き菓子をご用意しておりますからお召し上がりください」
 
 賑やかな声に思わず振り返ると先程の栗毛の女性と、同じ髪色をした背の高い男性が立っていた。顔立ちもよく似ているので兄妹なのかもしれない。気づけば大地はぼんやりとした形しか見えなくなっていて、指先も酷く冷えていて長くここに座ったままだったようだ。
 
「ありがとうございます。メラルートの紅茶は僕も好きです、いただきますね」
「滅相もございません。リアン様は我々のお仕えする方となられるのですから、従者として当然のことをしただけでございます! さぁこちらに」
「マルコス様も紅茶がお好きなんです。きっとお喜びになると思いますよ」
 
 酷く畏まってはいるが胸を張り、誇らしそうな様子で椅子を引く男性従者の横で、うっとりとしたような表情でそうだ紅茶に合う美味しいクッキーを焼いてみんなで食べましょうと独りごちな女性従者。
 
「お2人の名前を伺ってもいいですか?」
「はっ! 申し訳ございません、申し遅れました。私はアレクサンダー・ブラウンと申します。こちらは妹のルイザです。ルイザにはいつも厳しく指導しているのですが、失礼な態度を取ってしまい大変申し訳なく…」
「兄さんが硬すぎるのよ。マルコス様はルイザは見ていて飽きないって褒めてくださるんだから!」
「褒めてないだろ!お前が奇想天外な言動ばかりするから俺がどれだけ尻拭いをしてきたと思ってるんだ…!」
 
 いつの間にか始まってしまった兄妹喧嘩に、幼い日々を思い出す。幼い頃の僕らはヤンチャで歳の近い姉と3人で公爵家の人間とは思えないような遊びばかりしていた。そんな元気な子供が3人寄って喧嘩が起きないはずもなく誰が先頭を歩くとか、誰がティータイムのお菓子をリクエストするかとか小さなことで喧嘩ばかりしていたのだ。喧嘩は多かったが姉上も兄上も優しくて大好きだった。もし僕がオメガでなければ目の前の二人のような関係を続けられていたのかもしれないと思うと、底の見えない虚しさが襲ってきた。
 
「あらいやだ、リアン様ごめんなさい。そんな顔をなさらないでください。紅茶をお入れいたしますね」
「申し訳ございません、申し訳ございません…!! 御前で飛んだご無礼を…」
 
 慌ててポットを手に取り紅茶を注ぐルイザと顔を青くして頭を下げるアレクサンダーの様子にハッとする。決して彼らの様子に不快感を覚えたわけではなかったが、僕の態度で萎縮させてしまったことは明白で罪悪感が襲ってくる。
 
「船は揺れるものだって本で読んだんですけど、この船はあまり揺れないですね」
「は、はいっ!この船はメラルートの高い造船技術と純度の高い魔法石が生み出した最先端の船なのです。従来は火の魔法石を使って起こした蒸気の力で船を動かしていたのですが、この船は純度の高い魔法石の力で船底と海水の間に僅かな隙間を作ることでまるで氷の上を滑るように船を走らせていて…」
 
 真っ青だった顔を紅潮させ鼻息荒く語り出したアレクサンダーに圧倒されていると兄さんは船マニアなんです、聞かなくてもいいですよと呆れたような笑みを浮かべたルイザに耳打ちされた。想定していた結果ではないがとりあえず、彼らの緊張をほどけたようで胸をなでおろした。
 
 
 
 
 部屋で一日を過ごすことが当たり前になってしまっていた僕にとって、船旅は新鮮で塞ぎ込んでしまっていた心を少しだけ潤してくれたように思えた。外の景色は代わり映えしないのにルイザやアレク(アレクと呼んでくださいと言われたのでそう呼んでいるが少し恥ずかしい)は騒がしくも楽しくて毎日が目新しいし、少し耳が遠いが人の良い調理係さんが作る料理はどれも感動するほど美味しい。そんなゆっくりとした刺激的な旅は5日続いた。
 
「まもなく到着するようです! あっという間でしたね」
「屋敷で過ごす5日よりもずっと早かったよ。船旅がこんなにいいものだとは知らなかった」
「メラルートは島国なので造船技術も高いですし、マルコス様は各地へ出向かれるのが好きなのできっとこれから何度も船旅をお楽しみいただけますよ」
 
 僕の夫となる"マルコス様"については2人から沢山話を聞いた。マルコスは侯爵家の嫡男として育てられてきたがあまり世話をされるのが好きではないらしく、時には使用人がするような雑用まで自分でこなしてしまうらしい。明るく朗らかで使用人達との距離も近く彼の話が出る度にいかにマルコスを慕っているかが伝わって来た。名前しか知らなかった人物の輪郭が見えてくることで安心感を得られたがそれと同時にそんなに良い人に自分なんかが嫁いでしまっていいのだろうかという不安も襲ってきた。それでも屋敷で閉じこもって悶々と考えていた頃よりはマルコスに会うのを楽しみに出来るだけの余裕が生まれた。
 
 船はゆっくりとスピードを落としていき遂に停止した。暫くどこまでも続く海原しか見えなかった窓からは沢山の人達が見える。その中には、フィルフェルムではほとんど見かけることの無かった人間以外の種族も混じっていてその新鮮さに思わず見入ってしまう。
 
「お荷物は後ほどお部屋までお運びいたしますので先にお降り下さい」
 
 正直に言うと不安だ。外国人が来ることを快く思わない人や僕自身を気に入らない人は大勢いるだろう。それでも進むしか無かった。故郷にはもう居場所が無い。ここで歩みを止めてしまったらまた独りになってしまう。ルイザとアレクと一緒にいるのは楽しいし、マルコスにも会ってみたい。自分を奮い立たせて1歩1歩を確実に踏みしめた。甲板に出ると空は広く澄んでいてほとんど外に出ない生活をしていた僕には痛いくらいの日差しが降りかかった。人のざわめきが波のように広がり思わず陸地の方を見る。
 
「…!」
 
 驚いたような顔をして船着き場に立っている青年と目が合った。そこそこ距離もあるというのに薄暮の空を写したような清澄な瞳が、そこだけ切りとった様にはっきりと見えた。
 
「あの人が…?」
 
 なんだかとても嬉しいような悲しいような不思議な感情が胸を支配して、彼の方に歩みながら涙をこらえるのに必死だった。
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