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第1章 変わる日常

第9節 眠たい朝と大脱走

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「ふあああ」

 次の日の朝グラフォスは眠たげに肩肘をテーブルにつきながら、食卓についていた。
 昨日ミンネから逃げるように眠る少女の元を離れ、自室へと戻ったグラフォスだったが、一人の空間に戻ってきて一旦冷静になると、なかなか寝付くことができなかった。

 寝ることができないならやることは一つだ。今日その目で見たいろんな情報をまとめることにした。

 初めて間近で確認した自動回復魔法。魔法名を思い出せないのが心苦しいが、その魔法をかけられたときどういう状態だったのか、それを書き記すことはできる。

 それに見たことのない制服のような形の服。
 白いシャツにリボンがついていて、紺色のスカートはやけに短かったように思える。

 そしてなんといっても黒髪黒目の少女のことだろう。
 彼女はなぜ森から出てきたのか。グラフォスに助けを求めたのか。そのすべてが謎だった。

 明日になればその謎もわかるかもしれないという知的探究心をくすぐるその誘惑に、結局眠ることができず、本に向かい合った結果、眠りについたのは空が白みだしたころだ。

「結局眠れなかったのかい」

 あきれたようなミンネの声が耳に入ってくるが、うつらうつらとしながらパンをくわえているグラフォスの頭では処理できず、何も返事を返すことはない。

「あの子はまだ目を覚まさないみたいだね。フォス、今日はおとなしく店番だからね。店に出てもそんな腑抜けた面するんじゃないよ」

「ふぁい」

 パンを口に突っ込み咀嚼を繰り返すことで、無理やり意識を覚醒させる。
 昨日ミンネは少女が眠る隣で一夜を明かしたらしい。朝目を覚ましても隣の少女が目覚める気配は一切なかったらしい。

「よく眠りますよね、ほんとに」

「それだけ疲れてたんだろう」

 昨日森から飛び出してきた時の彼女の状態、服はぼろぼろで体も傷だらけ、憔悴しきった表情を見せていた彼女を見れば、全員が疲れのピークだと答えるのは間違いない。
 そんな彼女を起こそうとはさすがにミンネも考えなかったようだ。

「さ、あの子のことは置いといて今日もバリバリ働くよ」

「バリバリって、冷やかしの客しか来ないじゃないですか」

 結局今日も書店に置いてある何度も読み返した本を読んで終えるのだろう。
 そんなありきたりな日常をイメージしながらグラフォスは一階へと降りて行った。


 平凡は期待を裏切らない。

 そんな言葉がグラフォスの脳裏によぎる。
 午前中、客はゼロ。相変わらずヴィブラリーで自由気ままに読書の時間を楽しむグラフォス。

 それはこの店のいつもと変わらない日常風景だった。

 しかしその心境はいつもとは違い、気が散りまくりの状態だった。頭に浮かぶのは二階で眠っている少女のこと。いつ目覚めるのかと正直気が気ではならないが、顔には出さない。

 今ミンネは二階にいるが、もし不安げな表情を顔に出してその瞬間を見られようものなら何を言われるか分かったものではない。
 しかし本当に相も変わらずここは暇すぎる。一度二階に戻ってご飯でも食べようか。

 そんな思考は突如、勢いよく階段を駆け下りる音で遮られた。

「ちょっとどこに行くんだい!」

 足音はちょうど二人分、一つは軽いトタトタという足音ともう一つは勢いがあるドタドタという足音。
 そして足音が近づいた直後グラフォスが座っていたカウンターの隣を一人の肌白い少女が駆け抜ける。

 一瞬目が合った瞬間に少女ははっとした表情を見せるが、そのまま足を止めることなく外へと駆け出していく。

「フォス!」
「わかってる!」

 そんな一瞬のやり取りの後に後ろからかけられた言葉にグラフォスはとっさに反応し、カウンターを飛び越えて走り出して店を飛び出した。

 お昼時の街はそれなりに人が多い。店を勢いのまま飛び出したグラフォスは一度立ち止まると、周りを見渡す。
 街の中心部へ続く方に目を見やると、ぶかぶかの明らかにサイズの合っていない服を着たまま、人をかき分けて走っている彼女の姿が見えた。

「なんで逃げるのかな!」

 グラフォスは気合を入れると、少女を追いかけて人を突き飛ばす勢いで彼女の背中を追いかけた。



 それから約十分後、街の入り口でグラフォスは息を切らして立っていた。その右手にはしっかりと少女の細い腕をつかんでいた。

「どうして……逃げるんですか……」

 息も絶え絶えに何とか少女に話しかける。ほとんど街の端から端まで走ったのだ。
 まるで病み上がりとは思えない元気の良さである。

「捕まったら……まずいと……思って」

 しかし少女のほうもグラフォスと変わらないぐらい息が切れていて、肩で呼吸をしている状態だ。

「別に……何もしませんよ」

「わかってたつもりなんですけど……ほとんど反射的に……」

 目が覚めた瞬間に反射的に逃げるなんてどんな精神状態なのだろうか。想像もつかない。よく見ると彼女の体は息を切らしているのとは別の理由で震えているようにも見えた。

 そんな彼女の様子を見て、グラフォスは彼女の腕をつかんでいた手をゆっくりと放す。
 さすがにもう走る気力は残っていなかったのか、少女は膝に手をついたままその場を動こうとはしなかった。

「すいませんでした……」

 少し時間がたち少女は少し冷静になったのか気を落としたように暗い表情で謝ってくる。

「まあいきなり知らない人がいたんじゃびっくりもしますよね」

 びっくりして街の入り口まで逃げられるというのは想定外でしかないのだが。

「あの……昨日私を助けてくれた方ですよね? ありがとうございます」

 少女はグラフォスのほうに向きなおすと、深く頭を下げる。
 グラフォスとしてもそんなに態度を変えられてしまうと、頭を下げ返すくらいしかできなかった。

「まあ半分は僕で、半分はあの家にいたおっかない姉さんですよ。だから一回戻りませんか?」

「戻っても大丈夫でしょうか……」

「大丈夫ですよ。少なくともうちは安全です」

「いえ……逃げてしまったので……」

「ああ……わかりました。もし怒られそうになったら僕が代わりに殴られます」

 まさか病み上がりの恐怖心丸出しの少女に向かって怒鳴り散らすなんてことはないだろうが、これはあくまでもグラフォスなりの冗談のつもりだった。
 冗談のつもりが目の前の女の子はおびえてしまっているわけだが。

「ま、大丈夫ですよ。戻ってからのことは戻ってから考えましょう」

 グラフォスは珍しく極めて明るい声色を心掛けながら何とか少女の気を紛らわそうとする。

「わかりました……」

「じゃあ帰りましょうか」

 グラフォスはそういって彼女のほうに向かって手を差し出す。

「え?」

「また逃げられても困りますから」

「もう逃げません!」

「じゃあ和睦のあかしということで」

 実際はまた追いかけっこをする羽目になったら、今度こそ追いつける自信がないからこその処置である。

 少女は渋々恐る恐るといった様子で差し出したグラフォスの手を握る。
 そんな彼女の歩調に合わせてグラフォスは街の中に戻ろうと歩き始めた。

「あ……」

 少女は小さく声をあげると、戻ろうと歩き始めていたその歩みを止める。

「どうしました?」

「……一つだけ聞きたいことがあるんですが」

「どうぞ?」

「ここはいったいどこなんでしょうか?」

「……へ?」

 グラフォスは珍しくその無表情を崩して彼女の問いかけに対して純粋にぽかんとした顔を不安そうな少女に向けていた。
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