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元の世界で
しおりを挟むなんだか懐かしい匂いがする。見慣れた天井、壁、床。
ああ、家だ。わたしの。
帰ってきたのかな。
でもなんだか、雰囲気がちがう。ちょっと寂れた感じがする。それにどこか埃っぽい。
リーン。
おリンの音?
見ると、テレビの横のキャビネットに仏壇がある。イマドキの卓上型のコンパクトなヤツだ。
なぜうちに仏壇が?
位牌があって、遺影があって。
遺影で笑っているのは、わたしだった。
ああ、やっぱりあのとき死んだのだ。
そうか。
死んでいたか。
だいたいそんなことだろうと思ってはいた。でもいざ突きつけられると「ええ?」ってなる。
心の準備ができてないよ。だっていきなりだったもん。あんなふうに死ぬなんて思ってなかったもん。
……心の準備ってなに? どうすれば死ぬ準備ができるの? あらかじめわかっていれば? 何月何日の何時にって? うーん、そうかな?
たとえば、病気になって、余命宣告されたら心の準備ってできるのかな?
身辺整理はできるかな。古い服を捨てたり。通帳と印鑑をわかる場所に置いたり。暗証番号を教えておいたり。
心の準備はどうでしょう。はい、できました! オッケーです! って死ねますかね。無理じゃない?
そうだよね。無理だよね。
っていうか、その写真いつの?
息子の高校の卒業式かな。校門の立て看板のところで息子とふたりで撮ったやつ。
へえ、うまい具合に編集されてるじゃん。シミも消してくれてるんだね。ありがたい。
こんなことなら、自撮りしておけばよかったかな。自分で納得できるように編集もして。
「ママ」
夫が線香をあげている。そっか、これ線香の匂いか。
なんだか夫の背中がしなびている。痩せたのもそうだけど、肩が下がって背中も丸まっている。
「おれはママがいないとダメだな。なんにもできない」
ぼそぼそと夫がしゃべっている。なんだ? いまさら反省か?
「いなくなってからわかるなんて、最低だな」
ほう、やっとわかりましたか。
家の中は案外片付いている。もっとコンビニ弁当のカラとかビールの空き缶とか散乱しているかと思っていた。ゴミ袋が三つくらい放置されているとか。
少々埃っぽいが、ゴミは散乱していない。ちゃんと捨てているようだ。
ゴミの分別ってけっこう大変なのよ。わかってくれたかな。
「ママ」
なさけない声をだすな!
「なんで死んじゃったかなぁ」
やめろ! 泣く!
「オヤジー」
息子の声だ。
「メシできた」
え! 作ったんだ。いままで作ったことなんかなかったのに。
テーブルの上にならんだのは、卵とネギとひき肉のチャーハン。ぎょうざ。冷凍のヤツ。インスタントの卵スープ。
……えらいな。ちゃんと作って。
欲を言えば、野菜が少ないな。サラダとか付けなよ。カット野菜でもいいから。
わたしの席はまだ空けてあるんだ。なんだか律儀だ。
「ありがとうな。いただきます」
夫が言った。いただきますって言えるんだ。へえ。
しばらく無言でかちゃかちゃとレンゲが皿に当たる音だけがする。
「うん、うまいな」
また夫が言った。それも言えるんだ。へえ。
「ママにもさ、うまいってちゃんと言えばよかった」
息子が言った。
「うん、そうだな」
夫はいったん箸を止めた。
「ほんとうにそう思う。もう伝わらないけど」
ぼそりと言って、残りのチャーハンをかきこんだ。
わかってくれてよかったです。
「あしたの朝、町内会の草取りに行くから」
夫が言った。ああ、第一日曜日のアレね。そういうの、わたしひとりでやってたもんね。これから、よろしくね。
「じゃあ、朝めし作っておくよ」
息子えらいな。休みだからって昼まで寝てるんじゃないんだ。
「ああ、悪いな」
なんだかんだで、ふたりでやっていけてるのかな。
玄関があく音がした。
「じいーー」
とたとたと軽い足音がする。
「おお、あーちゃん。来たのか」
孫の顔を見たとたんに、夫がデレっとした。
「あっ。やっぱり野菜が足りてない」
孫に続いて娘が入って来た。来たとたんに小言か(笑)。
「はい! サラダと切り干し」
そう言って娘は保存容器をふたつ出した。
ああ、よく作ったな。切り干し大根の煮物。作って来たんだ。
「いつもすまないな」
「ねえちゃん、助かる」
リンリンリン!
孫がおリンを乱打する。
「こら、そんなに叩くんじゃないの」
「はは。いいよ、いっぱい叩きなさい。ばあばが喜ぶよ」
夫がようやく笑った。
だいじょうぶそうだな。わたしがいなくても、なんとかなりそうだ。
「切り干しの作り方、教えてよ」
「ええー。クックパッド見れば?」
家族の会話が遠くなっていく。
……よかった、みんな元気で。
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