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第十三話 理想と現実
※アラン視点
駆けつけた先に見た光景は異常なものだった。
盗賊にでも襲われたかのように物が散乱し荒れたテント。
獣のような呻き声を上げ牙を剥くように銀色に光った刃が張り詰めた空気を斬り裂く。
何人もの騎士たちが押さえ込もうとするが素早い動きに翻弄され倒される。中には斬られ血を流す者もいた。
いつもより真っ赤に染まったようなその瞳はギラつき、焦点は合っていない。
目の前にいるのがあのイライアスだと信じられなかった。
イライアスは戦場で多くの仲間を救うため少数を犠牲にすることはあれど決して仲間を傷つけはしなかった。
だが容赦なく仲間に斬りかかり、剣を振るうその姿はまるで必死に何かを守ろうとしているようだった。
それにゼェハァと息苦しそうに上下する胸。熱を帯びて赤みがかった頬。肌を伝う大量の汗。錯乱し苦しみ呻く声。
イライアスは変わってはいなかった。あの頃からずっと──。
暗い何かに覆われる。
直視できなかった。
「イライアス!!!!」
イェルクが叫ぶように名を呼び、暴れるイライアスへと駆けていく。
イライアスは容赦なく剣を振るうが、今までの勢いが嘘のようにイェルクにあっさりと床へ押さえ込まれる。それでもイライアスは抜け出そうと本能のままに暴れ回った。それを防ごうと騎士らも次々駆けつけ押さえ込む。
「っおい!! 何やってんだ!? お前も手伝え!」
何もせず突っ立っている俺にイェルクが怒鳴る。
ここにいたくない。
ここから逃げることで頭がいっぱいだった。
俺は外へ出ようと踵を返す。
「っアラン!!」
そう俺の名を呼ぶや否やイェルクが追いかけてきて俺の胸倉を強く掴む。
「何やってんだ! お前、イーライの兄貴だろうが!」
「っ離せ……!」
そう掴む腕を引き剥がそうとするが、揺らぐ意識を保つのでやっとでうまく力が入らない。
視界の端に悶えるイライアスが映る。
見たくない。
俺は顔を背け、固く瞳を閉じる。
一拍の沈黙に怒りを滲ませたイェルクの低い声が耳に入る。
「……ああそうか。これでよく分かった」
頬に強い衝撃が走る。
殴られたと理解するにはそう時間はかからなかった。静かにだが突きつけるようにイェルクが言い放つ。
「お前はな、弟から逃げてんだよ」
「っ…………!!」
「帝国のことは大体調べてある。だからイーライが以前身体が弱かったのは知っていたがそれが今もだったとは正直知らなかった。だがお前は兄貴だ。それに昔はとても仲が良かったんだろ? そんな奴がイーライの状態を知らないはずがねぇ」
聞きたくない。
これ以上聞いたら俺はもう……。
「お前、実は知ってたんだろ。イーライの身体が弱いままだってな」
自分を守っていた薄い壁が崩れ落ちる音が聞こえた。
イライアスの苦しく呻く声がはっきりと頭に響く。
「だけどお前は逃げたんだよ。いつか訪れる最期が怖くてな。だから思い込んだんだ。イライアスの身体は治ったってな」
そうだ。俺は弟から逃げたのだ。
イライアスの瞳が永遠に閉じる、その時が怖くて俺は自分に嘘を吐いた。自分の心を守るために。
「それにお前はノエルをイーライの代わりにした。ノエルがイーライと同じ魂を持つなんて意味の分からねぇことを盲信してな。イーライが現実ならノエルはお前にとっての理想だ。病にも冒されず、死が隣り合わせにあることもない理想のイライアス。それがノエルなんだよ」
イェルクがはっきりと言い放つ。
「お前はノエルをイーライだと思い込んで現実から目を背け理想に縋ったんだ。お前は弟から逃げたんだ」
全てイェルクの言う通りだった。
ノエルなら間近に迫る死に怯えなくていいからと、俺はノエルに無理矢理イライアスを重ねて見ていた。
イライアスの魂とノエルの魂を一つにしようとしていたのは本気だった。そうすれば辛い現実に苦しむことはない、理想だけを見ることができる、そう考えていた。
弟がずっと苦しんでいることを本当は知っていたのに俺は都合の良い話を作り上げて弟から逃げ出したのだ。
「このままでいいのか。お前はアイツの兄貴なんだぞ。兄貴が弟のそばについてやれなくてどうするんだ」
頭に響く弟の呻きと叫びに心が張り裂けそうになる。
「お前がイーライに冷たくあたってたのはアイツを自分から遠ざけるためだろ。現実を突きつける弟から逃げたくてな。だがどう思い込んだってお前は見るしかなかったはずだ。お前も気付いてるんだろ? 現実からは逃げられねぇんだよ」
弟を見るととても辛かった。
弟に迫る死、苦しむ姿、どうしたって弟を救えない自身の無力さに俺は耐えられなかった。
だけど逃げ出した先に楽園はなかった。
どんなに理想に縋ったっていつも現実はそばにあったのだ。
ただ俺はひしひしと一層恐怖と無力さに苛まれるしかなかった。
「いいかげん、本当の弟をちゃんと見ろよ」
諭すようにイェルクが言う。
頭に響く呻きと叫びへと俺はゆっくりと視線をやる。
高熱により頬は赤みがかり、汗が雨に晒されていたように滴る。折れたはずの腕も剣を振るうのに見境なく使ったのか、更に腫れ上がっていた。
錯乱し、誰が誰だかも分からない様子で騎士らに床へ押し付けるように抑え込まれてもそれでも抜け出そうと悶え暴れる。
イライアスは変わってはいなかった。あの頃のまま弟は苦しみ続けている。
なのに俺は失うのが怖いから苦しむ弟を見るのが辛いからって自分のことばかりでイライアスから逃げ出した。
そればかりでなく心も身体も弟を傷付けてしまった。俺は兄として最低なことをしたのだ。
あまりの己の愚かさと罪深さに胸が押し潰されたかのようで息をするのも苦しくなる。
突然イライアスが一際暴れ出し騎士らを思いっきり振り払った。
「……ちゃん、おにい……、おにいちゃ……」
立つのもやっとな様子で、俯きぼうっとした眼差しでイライアスは小さく呟く。懐かしい呼び名に息を呑む。愛おしい日々を思い出す。
俺は本当に馬鹿だ。
弟を見る度に襲うどうしようもない辛さに俺は遠ざけようと冷たくしたのに、それでもイライアスは俺を慕ってくれた。それなのに俺は弟を目にするのが辛くてより一層冷たくした。
だけど、弟は今もこうして俺を呼ぶ。
弟はずっと一人で苦しんでいたというのに俺は一体何をしていた?
俺は誓ったはずだ。
弟を守ると。
俺は願ったはずだ。
いつまでも弟には笑っていて欲しいと。
そのためなら俺はなんだってする。
弱々しく俺を呼び続けるイライアスへ静かに踏み出し、背に手を伸ばし優しく抱きしめる。
「ごめん。ごめんな、今まで一人にして。辛かったよな……」
「っぁ…………」
「俺は兄として最低なことをしてきた。今までのことを許してもらおうとは思っていない。だけどもう逃げないから。俺がお前を守るから、笑っていられるよう頑張るから。だからどうかお前に尽くすことを許してほしい……」
溢れる涙をなんとか堪える。
俺は泣いていい立場じゃないのに。こんな泣いて許してもらおうみたいな姿を晒してはいけないのに。
ふと頬がじんわりと熱くなった。
「……だいじょうぶ。俺は……ここにいるよ。俺はずっと、おにいちゃんのそばにいるから。……だからもう泣かないで」
イライアスが俺の頬に手を添え、安心させるように優しく微笑む。手は熱く、瞳はゆらゆらと揺れている。弟は夢を見ているようだった。
あんなにひどいことをしたのに、イライアスは夢の中でも俺を慕って心配する。
改めて俺は弟に許されないことをしたのだと実感する。後悔と弟の優しさに胸がぐちゃぐちゃになる。
瞳が静かに閉じ、くたりとイライアスの身体の力が抜ける。床に身体を打ちつけないようしっかりイライアスを支える。
「医者を呼んでくる」
イェルクがそう一言告げ、テントを出る。
触れるイライアスの身体は燃えているかのように熱かった。
魔力による拒絶反応。それと骨折による熱。
俺のせいだ。
弟のためだと正当化し、黒い感情に呑まれ傷付けた。
あの感情の名前はまだ分からない。だが自身の心を守るために暴言を放っていたのだ。おそらく俺は自分のためにも弟を傷付けたのだろう。
罪の意識に胸がズシリと重たくなる。だがどんなに悔やんでいたって過去には戻れない。
俺にできるのは今精一杯イライアスに尽くすことだけだ。
テントは暴れたことで布が破れ、外からびゅーびゅーと冷たい風が入ってきていた。ここにいてはイライアスの身体に悪い。
置いてあった寝具の毛布を拝借し、イライアスの全身を覆うようにする。動けそうな騎士らには意識のない者たちを救護するよう指示し、イェルクには皇族専用のテントに移ったと言うよう頼む。そうして毛布で包んだイライアスを抱き抱え俺は外へ出た。
満点の星空が俺とイライアスを照らす。
ふとイライアスが微かに身じろぐ。見ればルビーのような美しい赤い瞳が睫からうっすらと覗いていた。
愛おしい弟が再び目を覚ましたことによる安堵にまた涙が溢れそうになる。湧き上がる罪悪感と熱で苦しむ弟に胸が苦しかったが、今度はもう目を背けなかった。
「大丈夫。俺もそばにいる。だから今は安心して眠れ」
心細くないように俺は微笑みを浮かべ優しく囁く。するとイライアスは俺の胸元に頬を寄せて海の中へ沈むように眠ってしまった。
俺が弟を守る。
弟の笑顔が見れるなら俺はなんだってする。
そう再び誓ったのに現実はあまりにも酷だった。
これは弟から逃げ出した俺への罰なのだろうか。
イライアスの容態はあまりにもひどかった。
下がることのない高熱に悶えるほどの頭痛、眩暈に吐き気、手足の震え、咳、更には喀血もし出した。
魔力による拒絶反応と骨折による熱、それと風邪が追い討ちをかけているようだった。
イライアスのテントで見張をしていた騎士に訊いたところ、どうやら夜に一人外へと出て行ったと言う。なぜ護衛をつけなかったのかと問い詰めればイライアス自身が一人になることを望んだと言う。
そうしてその二時間後あの騒ぎが起こった。
その騒ぎまでの間、イライアスの所在は誰も知らないと言う。
だが見張りの騎士が言うにはどうもイライアスの様子がおかしかったらしい。ふらふらとした足取りで外は身体の芯が冷えるくらい寒いというのにイライアスはどこか心地良さそうだったと。
結局イライアスが何を思い一人でいたのかは分からない。だがもしや弟は熱に苛まれ身体を冷やす風を求めて外へ出たのではないだろうか。
だとするとイライアスは二時間も外へ??
しかしこれで風邪を引いたのにも納得がいく。
重なる最悪の連続にイライアスの身体はもう限界だった。
医師はイェルク側の者で魔法に通じているらしく、拒絶反応のことを知っていながら自身の身を顧みずイライアスの魔力を吸収してなんとか症状を抑えようとした。
しかしイライアスの身体は一向に良くならなかった。
どんなに魔力を吸収しても湧き水のように溢れ、弟を蝕む。
弟を守るとそう誓ったのに俺にできることはイライアスのそばにいてやることくらいだった。
無力感に虚しさと怒りに囚われる。
だけど俺は俺にできることをするしかない。
濡らしたタオルを額に置き、脱水しないよう水をこまめに取らせ、起き上がれそうな時は消化にいいものを食べさせる。吐き気に襲われた際は弟の背を撫でさすり、心細くないよう手を握った。
周りが何度か俺に風邪が感染るからと離れるように言われたが、俺は俺にできることをし続けた。
だがそんな努力も虚しくイライアスの身体は見る見るうちに衰弱していった。
俺のせいだ。
俺がもっと早くイライアスと向き合っていればこうなることはなかった。
自責の念に駆られ、日々イライアスの死をますます感じ、まるで水責めでもされているように苦悶する。
だけどいつか訪れる最期も俺は向き合わなければいけないのだ。弟からはもう目を背けないと決めたのだから。
汗ばんだ弟の身体を拭くために上を脱がせようとするが、イライアスはいつもそれを嫌がった。意識が朦朧としているのに着替えるのも一人きりでしたがった。弟はどうやら身体を見られるのが嫌なようだった。だから脱がせはせず、服の下へうまく手を滑り込ませて汗を拭っていった。
満月が空に浮かび、静寂が夜を包む。
ベッドで眠るイライアスの隣で椅子に座り、急変しても対応できるように常に見守る。
瞳に映るイライアスの顔は青白く、食べても吐いてしまうせいで筋肉は落ち、痩せてしまっていた。
その姿に、俺は暗いもやに覆われ壊れてしまいそうになる。
向き合うと決めたのにやはりこうして目の前にすると、いつか訪れる未来を受け入れられなかった。
代われることなら代わってやりたい。
だけどそれは叶わない。
現実はあまりにも非情だった。
ふとむずかるようにイライアスが寝返りを打つ。きっと汗に濡れた服が気持ち悪かったのだろう。
着替えるためにイライアスを起こすのも忍びない。新しい服と汗を拭うためのタオルを持ってくると、目を覚さないように気をつけて弟の服を脱がしていく。
すぐさま下腹部のそれが目に入った。
「っなんだこれは……」
まるで蝶が大きく羽を広げているようなそれに俺は衝撃を受ける。
術式か??
しかし俺の持つ魔法の知識ではこのような術式見たこともなかった。
突然イライアスから伸びる影が不自然に揺らぐ。黒い影は形を成していき、瞬く間に人の姿へと変わった。
駆けつけた先に見た光景は異常なものだった。
盗賊にでも襲われたかのように物が散乱し荒れたテント。
獣のような呻き声を上げ牙を剥くように銀色に光った刃が張り詰めた空気を斬り裂く。
何人もの騎士たちが押さえ込もうとするが素早い動きに翻弄され倒される。中には斬られ血を流す者もいた。
いつもより真っ赤に染まったようなその瞳はギラつき、焦点は合っていない。
目の前にいるのがあのイライアスだと信じられなかった。
イライアスは戦場で多くの仲間を救うため少数を犠牲にすることはあれど決して仲間を傷つけはしなかった。
だが容赦なく仲間に斬りかかり、剣を振るうその姿はまるで必死に何かを守ろうとしているようだった。
それにゼェハァと息苦しそうに上下する胸。熱を帯びて赤みがかった頬。肌を伝う大量の汗。錯乱し苦しみ呻く声。
イライアスは変わってはいなかった。あの頃からずっと──。
暗い何かに覆われる。
直視できなかった。
「イライアス!!!!」
イェルクが叫ぶように名を呼び、暴れるイライアスへと駆けていく。
イライアスは容赦なく剣を振るうが、今までの勢いが嘘のようにイェルクにあっさりと床へ押さえ込まれる。それでもイライアスは抜け出そうと本能のままに暴れ回った。それを防ごうと騎士らも次々駆けつけ押さえ込む。
「っおい!! 何やってんだ!? お前も手伝え!」
何もせず突っ立っている俺にイェルクが怒鳴る。
ここにいたくない。
ここから逃げることで頭がいっぱいだった。
俺は外へ出ようと踵を返す。
「っアラン!!」
そう俺の名を呼ぶや否やイェルクが追いかけてきて俺の胸倉を強く掴む。
「何やってんだ! お前、イーライの兄貴だろうが!」
「っ離せ……!」
そう掴む腕を引き剥がそうとするが、揺らぐ意識を保つのでやっとでうまく力が入らない。
視界の端に悶えるイライアスが映る。
見たくない。
俺は顔を背け、固く瞳を閉じる。
一拍の沈黙に怒りを滲ませたイェルクの低い声が耳に入る。
「……ああそうか。これでよく分かった」
頬に強い衝撃が走る。
殴られたと理解するにはそう時間はかからなかった。静かにだが突きつけるようにイェルクが言い放つ。
「お前はな、弟から逃げてんだよ」
「っ…………!!」
「帝国のことは大体調べてある。だからイーライが以前身体が弱かったのは知っていたがそれが今もだったとは正直知らなかった。だがお前は兄貴だ。それに昔はとても仲が良かったんだろ? そんな奴がイーライの状態を知らないはずがねぇ」
聞きたくない。
これ以上聞いたら俺はもう……。
「お前、実は知ってたんだろ。イーライの身体が弱いままだってな」
自分を守っていた薄い壁が崩れ落ちる音が聞こえた。
イライアスの苦しく呻く声がはっきりと頭に響く。
「だけどお前は逃げたんだよ。いつか訪れる最期が怖くてな。だから思い込んだんだ。イライアスの身体は治ったってな」
そうだ。俺は弟から逃げたのだ。
イライアスの瞳が永遠に閉じる、その時が怖くて俺は自分に嘘を吐いた。自分の心を守るために。
「それにお前はノエルをイーライの代わりにした。ノエルがイーライと同じ魂を持つなんて意味の分からねぇことを盲信してな。イーライが現実ならノエルはお前にとっての理想だ。病にも冒されず、死が隣り合わせにあることもない理想のイライアス。それがノエルなんだよ」
イェルクがはっきりと言い放つ。
「お前はノエルをイーライだと思い込んで現実から目を背け理想に縋ったんだ。お前は弟から逃げたんだ」
全てイェルクの言う通りだった。
ノエルなら間近に迫る死に怯えなくていいからと、俺はノエルに無理矢理イライアスを重ねて見ていた。
イライアスの魂とノエルの魂を一つにしようとしていたのは本気だった。そうすれば辛い現実に苦しむことはない、理想だけを見ることができる、そう考えていた。
弟がずっと苦しんでいることを本当は知っていたのに俺は都合の良い話を作り上げて弟から逃げ出したのだ。
「このままでいいのか。お前はアイツの兄貴なんだぞ。兄貴が弟のそばについてやれなくてどうするんだ」
頭に響く弟の呻きと叫びに心が張り裂けそうになる。
「お前がイーライに冷たくあたってたのはアイツを自分から遠ざけるためだろ。現実を突きつける弟から逃げたくてな。だがどう思い込んだってお前は見るしかなかったはずだ。お前も気付いてるんだろ? 現実からは逃げられねぇんだよ」
弟を見るととても辛かった。
弟に迫る死、苦しむ姿、どうしたって弟を救えない自身の無力さに俺は耐えられなかった。
だけど逃げ出した先に楽園はなかった。
どんなに理想に縋ったっていつも現実はそばにあったのだ。
ただ俺はひしひしと一層恐怖と無力さに苛まれるしかなかった。
「いいかげん、本当の弟をちゃんと見ろよ」
諭すようにイェルクが言う。
頭に響く呻きと叫びへと俺はゆっくりと視線をやる。
高熱により頬は赤みがかり、汗が雨に晒されていたように滴る。折れたはずの腕も剣を振るうのに見境なく使ったのか、更に腫れ上がっていた。
錯乱し、誰が誰だかも分からない様子で騎士らに床へ押し付けるように抑え込まれてもそれでも抜け出そうと悶え暴れる。
イライアスは変わってはいなかった。あの頃のまま弟は苦しみ続けている。
なのに俺は失うのが怖いから苦しむ弟を見るのが辛いからって自分のことばかりでイライアスから逃げ出した。
そればかりでなく心も身体も弟を傷付けてしまった。俺は兄として最低なことをしたのだ。
あまりの己の愚かさと罪深さに胸が押し潰されたかのようで息をするのも苦しくなる。
突然イライアスが一際暴れ出し騎士らを思いっきり振り払った。
「……ちゃん、おにい……、おにいちゃ……」
立つのもやっとな様子で、俯きぼうっとした眼差しでイライアスは小さく呟く。懐かしい呼び名に息を呑む。愛おしい日々を思い出す。
俺は本当に馬鹿だ。
弟を見る度に襲うどうしようもない辛さに俺は遠ざけようと冷たくしたのに、それでもイライアスは俺を慕ってくれた。それなのに俺は弟を目にするのが辛くてより一層冷たくした。
だけど、弟は今もこうして俺を呼ぶ。
弟はずっと一人で苦しんでいたというのに俺は一体何をしていた?
俺は誓ったはずだ。
弟を守ると。
俺は願ったはずだ。
いつまでも弟には笑っていて欲しいと。
そのためなら俺はなんだってする。
弱々しく俺を呼び続けるイライアスへ静かに踏み出し、背に手を伸ばし優しく抱きしめる。
「ごめん。ごめんな、今まで一人にして。辛かったよな……」
「っぁ…………」
「俺は兄として最低なことをしてきた。今までのことを許してもらおうとは思っていない。だけどもう逃げないから。俺がお前を守るから、笑っていられるよう頑張るから。だからどうかお前に尽くすことを許してほしい……」
溢れる涙をなんとか堪える。
俺は泣いていい立場じゃないのに。こんな泣いて許してもらおうみたいな姿を晒してはいけないのに。
ふと頬がじんわりと熱くなった。
「……だいじょうぶ。俺は……ここにいるよ。俺はずっと、おにいちゃんのそばにいるから。……だからもう泣かないで」
イライアスが俺の頬に手を添え、安心させるように優しく微笑む。手は熱く、瞳はゆらゆらと揺れている。弟は夢を見ているようだった。
あんなにひどいことをしたのに、イライアスは夢の中でも俺を慕って心配する。
改めて俺は弟に許されないことをしたのだと実感する。後悔と弟の優しさに胸がぐちゃぐちゃになる。
瞳が静かに閉じ、くたりとイライアスの身体の力が抜ける。床に身体を打ちつけないようしっかりイライアスを支える。
「医者を呼んでくる」
イェルクがそう一言告げ、テントを出る。
触れるイライアスの身体は燃えているかのように熱かった。
魔力による拒絶反応。それと骨折による熱。
俺のせいだ。
弟のためだと正当化し、黒い感情に呑まれ傷付けた。
あの感情の名前はまだ分からない。だが自身の心を守るために暴言を放っていたのだ。おそらく俺は自分のためにも弟を傷付けたのだろう。
罪の意識に胸がズシリと重たくなる。だがどんなに悔やんでいたって過去には戻れない。
俺にできるのは今精一杯イライアスに尽くすことだけだ。
テントは暴れたことで布が破れ、外からびゅーびゅーと冷たい風が入ってきていた。ここにいてはイライアスの身体に悪い。
置いてあった寝具の毛布を拝借し、イライアスの全身を覆うようにする。動けそうな騎士らには意識のない者たちを救護するよう指示し、イェルクには皇族専用のテントに移ったと言うよう頼む。そうして毛布で包んだイライアスを抱き抱え俺は外へ出た。
満点の星空が俺とイライアスを照らす。
ふとイライアスが微かに身じろぐ。見ればルビーのような美しい赤い瞳が睫からうっすらと覗いていた。
愛おしい弟が再び目を覚ましたことによる安堵にまた涙が溢れそうになる。湧き上がる罪悪感と熱で苦しむ弟に胸が苦しかったが、今度はもう目を背けなかった。
「大丈夫。俺もそばにいる。だから今は安心して眠れ」
心細くないように俺は微笑みを浮かべ優しく囁く。するとイライアスは俺の胸元に頬を寄せて海の中へ沈むように眠ってしまった。
俺が弟を守る。
弟の笑顔が見れるなら俺はなんだってする。
そう再び誓ったのに現実はあまりにも酷だった。
これは弟から逃げ出した俺への罰なのだろうか。
イライアスの容態はあまりにもひどかった。
下がることのない高熱に悶えるほどの頭痛、眩暈に吐き気、手足の震え、咳、更には喀血もし出した。
魔力による拒絶反応と骨折による熱、それと風邪が追い討ちをかけているようだった。
イライアスのテントで見張をしていた騎士に訊いたところ、どうやら夜に一人外へと出て行ったと言う。なぜ護衛をつけなかったのかと問い詰めればイライアス自身が一人になることを望んだと言う。
そうしてその二時間後あの騒ぎが起こった。
その騒ぎまでの間、イライアスの所在は誰も知らないと言う。
だが見張りの騎士が言うにはどうもイライアスの様子がおかしかったらしい。ふらふらとした足取りで外は身体の芯が冷えるくらい寒いというのにイライアスはどこか心地良さそうだったと。
結局イライアスが何を思い一人でいたのかは分からない。だがもしや弟は熱に苛まれ身体を冷やす風を求めて外へ出たのではないだろうか。
だとするとイライアスは二時間も外へ??
しかしこれで風邪を引いたのにも納得がいく。
重なる最悪の連続にイライアスの身体はもう限界だった。
医師はイェルク側の者で魔法に通じているらしく、拒絶反応のことを知っていながら自身の身を顧みずイライアスの魔力を吸収してなんとか症状を抑えようとした。
しかしイライアスの身体は一向に良くならなかった。
どんなに魔力を吸収しても湧き水のように溢れ、弟を蝕む。
弟を守るとそう誓ったのに俺にできることはイライアスのそばにいてやることくらいだった。
無力感に虚しさと怒りに囚われる。
だけど俺は俺にできることをするしかない。
濡らしたタオルを額に置き、脱水しないよう水をこまめに取らせ、起き上がれそうな時は消化にいいものを食べさせる。吐き気に襲われた際は弟の背を撫でさすり、心細くないよう手を握った。
周りが何度か俺に風邪が感染るからと離れるように言われたが、俺は俺にできることをし続けた。
だがそんな努力も虚しくイライアスの身体は見る見るうちに衰弱していった。
俺のせいだ。
俺がもっと早くイライアスと向き合っていればこうなることはなかった。
自責の念に駆られ、日々イライアスの死をますます感じ、まるで水責めでもされているように苦悶する。
だけどいつか訪れる最期も俺は向き合わなければいけないのだ。弟からはもう目を背けないと決めたのだから。
汗ばんだ弟の身体を拭くために上を脱がせようとするが、イライアスはいつもそれを嫌がった。意識が朦朧としているのに着替えるのも一人きりでしたがった。弟はどうやら身体を見られるのが嫌なようだった。だから脱がせはせず、服の下へうまく手を滑り込ませて汗を拭っていった。
満月が空に浮かび、静寂が夜を包む。
ベッドで眠るイライアスの隣で椅子に座り、急変しても対応できるように常に見守る。
瞳に映るイライアスの顔は青白く、食べても吐いてしまうせいで筋肉は落ち、痩せてしまっていた。
その姿に、俺は暗いもやに覆われ壊れてしまいそうになる。
向き合うと決めたのにやはりこうして目の前にすると、いつか訪れる未来を受け入れられなかった。
代われることなら代わってやりたい。
だけどそれは叶わない。
現実はあまりにも非情だった。
ふとむずかるようにイライアスが寝返りを打つ。きっと汗に濡れた服が気持ち悪かったのだろう。
着替えるためにイライアスを起こすのも忍びない。新しい服と汗を拭うためのタオルを持ってくると、目を覚さないように気をつけて弟の服を脱がしていく。
すぐさま下腹部のそれが目に入った。
「っなんだこれは……」
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術式か??
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