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四・アトリエ

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『マダムの庭』から彩絵の家までの帰り道を、大きく遠回りした中間地点にそのアトリエはあった。

 黒っぽい木造の壁にトタン屋根の平屋造り。
 横壁には床から屋根まで伸びたレンガの煙突がある。
 古民家を買い取り改装して使っている、とミツが言っていた通り古い建物のようだ。

 通りに面した玄関周辺は新しく直されており、引き戸ではない洋風のドアが備わっている。
 学校帰りの彩絵は、B4サイズのスケッチブックを胸に抱えてそのドアの前に立っていた。

 少し緊張する気持ちをほぐすように、静かに息を吐く。
 それからチャイムを押そうとして、ドア周りのどこにも呼び鈴がついていないことに気付く。
 仕方なく拳をノックの形に握りなおしてドアを叩いた。
 確か、ノックの時は三回と誰かから聞いた気がする。

 コンコンコン、と遠慮がちな音が鳴る。
 自分が思っていたよりも小さいそれに、中の人物が気づいてくれるだろうか。
 もう一度、今度はもう少し力を込めて叩こうとした矢先にドアが開く音がした。
 ドアに当たるまいと慌てて後ろに下がった彩絵だったが、ドアは内側に開いていた。そこからニーナが顔を出している。

「ホントに来たんだ」

 驚いたようなからかうような声で言うと、彼女は大きく開けたドアに寄りかかるようにして彩絵に道を譲る。

「どうぞ」

 言われたが、入ってよいのかためらわれた。
 ニーナはハイカットのスニーカーを履いたままだから、自分も靴のまま入っていいのだろうか。
 戸惑っている彩絵に、ニーナが目線で入るように促す。
 恐る恐る、彩絵は中へ足を踏み入れた。

 板張りの床や白い壁はきれいにリフォームされている。
 外から見てレンガの煙突があった場所には暖炉があり、部屋の中央には四人が座れるテーブルセット。
 その上には陶器のシェードがついたペンダントライトが、さほど高くない天井の梁から下がっている。

 窓辺には布が掛けられたイーゼルがいくつか置かれており、対角に位置する部屋の隅にはシンクと小さな冷蔵庫が備わっていた。
 柱や梁など古民家の雰囲気を残しつつ、それにマッチするように直されたおしゃれなアトリエだ。

 観察するのに夢中になっている彩絵を、ドアを閉めたニーナがたしなめる。

「こら、他人の家に入ったらなんつーの?」

 はっとして、彩絵はニーナに向き直り。ごまかすように照れ笑いしながらぺこりとお辞儀する。

「お邪魔します」
「ようこそ、わがアトリエへ。……って言いたいところだけど。厳密には師匠のアトリエ」

 言いながら、ニーナは床に転がしてあったほうきを取り床を掃く。埃が集まっているところを見ると、彩絵が訪ねるまで掃除をしていたようだ。

「ししょう……ニーナの先生?」
「そ。あ、荷物はその辺に置いて。日本に来たときは必ずここで描いててさ」

 言われるまま、彩絵は椅子のひとつにリュックを置く。ニーナは塵取りで埃を取りながら彩絵を見ずに問う。

「彩絵は?」
「?」
「ここには興味本で? それとも本当に絵を教えてもらいに来たの?」

 反射的に姿勢を正して直立し、彩絵はニーナに向き直る。

「教えてほしい! ……です」

 ニーナが塵を取り終えて顔を上げた。彩絵の真剣な表情を見て、ちいさく微笑む。

「そうか、わかった。ならばまずは……」

 シンクの横に置いてあった水入りのバケツと、そこに掛けてあった雑巾を手にし、ニーナは言い放った。

「コーヒーを淹れたまえ」
「……は?」

 全く関連性のない言葉に理解が追いつかず、彩絵は思わず素の声を出していた。
 ニーナは全く気に止める様子もなく、テーブル脇の床にバケツを置くとテーブルの上に置いてあった紙袋を彩絵に渡す。

「引いた豆とペーパーフィルターはこの袋。おばちゃんとこからもらったやつだから、いい豆だよ。ドリッパーはカップの棚あたり探せばあるよ」

 紙袋とニーナの顔を交互に見つめる彩絵に、ニーナは紙袋を押し付ける。

「ほら! ちょうどお湯も湧いたみたいだしね」

 ニーナの言う通り、シンク横のガス台にかけられていたケトルの口から勢いよく湯気が立ち上っている。

「返事は?」
「はーい」

 ニーナに促され、彩絵はスケッチブックをテーブルに置いて、しぶしぶといった体で小さなキッチンへ向かう。
 それを聞いたニーナは雑巾を絞る手を止めて彩絵を見る。

「ダメ。挨拶と返事ができないやつはろくな人間になれないよ。元気よく、ハキハキと!」
「はい!」
「結構。……なにやってんの?」

 ニーナが訝しみ尋ねる。ガス台の前に彩絵が立っているのにケトルが落ち着く様子がない。
 彩絵は沸き立ちっぱなしのケトルの湯気に焦りながらニーナを振り返る。

「火が消えないよ」

 彩絵の身体越しに手元を見たニーナは納得する。ガス台のツマミをしているのだ。

「それ、押すんじゃなくて回すの」
「まわす」

 見つめている間にさっと彩絵に歩み寄ったニーナが、ツマミを回して消火する。

「はい、消えた。じゃあコーヒーの準備して。これとこれとーいやサービス良いなぁ、あたし」

 ニーナが冷蔵庫の横に置かれた棚のガラス戸を開けて次々と渡すものを、彩絵は落とすまいと両腕に抱えた。
 渡すだけ渡して、ニーナはバケツの側へ戻ると雑巾で床を拭き始める。

 彩絵は腕に抱えていたものをひとつひとつキッチンに並べた。
 コーヒーカップがふたつ。ドリッパー。ドリップポット。コーヒーサーバー。ペーパーフィルター。コーヒーメジャーに中細挽きのマンデリン。
 見たことはあっても実際に使ったことがあるものと言えばコーヒーカップくらいだ。

 こんなのをテレビで見たことがある。
 調理器具と材料が用意されていて、ある特定の料理を作るよう指示される。用意されたものの中には使わないものも入っていた。

 そうだ、きっとこれは試されているに違いない。

 彩絵はとりあえず、絶対に使うであろうコーヒー豆を紙袋から取り出した。
 アルミの袋の口を止めているテープをはずすと、香ばしい香りが鼻をくすぐる。
 それ以外考えられない形状のコーヒーメジャーで中身を掬うと、迷わずコーヒーカップに投入した。

「ちょっと! 豆直接カップに入れる?」

 たまらずニーナが床を拭く手を止めて声を上げた。うっすら予想はしていたため、声には笑みが混じっている。
 軽く洗った雑巾をバケツの中に残したまま、キッチンへ向かう。

「しょうがないね、こっちやって。床拭き」
「……わかった」

 だってやったことないんだもん、と顔に書いてある彩絵をニーナが軽くにらむ。

「返事」
「はいっ!」

 思わず姿勢も正しながら、ニーナと入れ替わりバケツから雑巾を取る。

 一方ニーナはケトルの湯をポットに移し、フィルターをセットしコーヒーを入れる。
 手際よく準備しつつ、彩絵の様子を横目に見た。

 彩絵は雑巾を右手で床に押し当てて動かしているが、雑巾から染み出した水が広がっているだけである。
 見かねたニーナが口添えする。

「床びしょびしょじゃない。ちゃんと雑巾絞ったの?」

 言われてバケツの上に雑巾を持っていった彩絵は、両手で雑巾を握りしめる。

「雑巾はね、こう絞るの」

 ニーナが手振りで見せたのを真似て、彩絵は雑巾を握り直す。

「違う。手、逆。親指同士が内側で交差するようにね。もっと力入れてー」
「これ以上無理」

 ある程度水は出てきたが、彩絵の非力な握力の限界に達した腕が震えている。

「じゃあ雑巾縦にしてみ」
「あっ、水でてきた!」

 横に絞っていた時は限界と思っていたが、ニーナに言われた通り縦に持ち替えた途端水が絞れた。
 世話が焼けるというため息をつくニーナだか、新たな発見を喜んでいる彩絵の様子を楽しんでいるようでもある。

「あとそっちらへんだけだから。もっと体重乗せてしっかり拭いて」

 ニーナは指示出ししつつドリッパーのコーヒーを落としたお湯で蒸らす。
 彩絵が床拭きに集中している隙に、テーブルの上に置かれたままになっていたB4のスケッチブックを手に取る。

 中を開くと、最初の1枚はソフトパステルで描かれた海に浮かぶラッコが描かれたページだった。
 手書きで添えられた文章を、ニーナは片手にスケッチブック、片手でドリッパーにお湯を細く落としながら読み上げる。

『あおい空にあおい海。いつもと変わらずラッコくんは海に浮かんでいました』

 彩絵は弾かれたように顔をあげてニーナを振り仰ぐ。

「やだ! ちょっと勝手に……」
「見て欲しくてもったきたんじゃないの?」

 なぜ咎めるのか分からないと言った様子で肩をすくめるニーナに、彩絵は返す言葉もなく。小さく呟いた。

「そうだけど……」
「人から聞く事で気づくこともあるんだよ」

 言ってページをめくると、ラッコの近くにカモメが舞い降りている。二人が見上げる空には、木漏れ日差す森の様子が浮かんでいた。

『ある時カモメさんがやってきて、ラッコくんに森の話をしました。森のゆたかさや、木や草が風にそよぐ音。こもれびのここちよさ。ラッコくんは森を見るためにふるさとの海をたびだつことにしました』

 ニーナが情感豊かに読み語るのを彩絵はこそばゆく感じながら、気になって掃除どころではなく。
 立ち上がりニーナを正面から見据えて問う。

「どう? 絵、どうかな?」

 それに対する答えはなく。ニーナはちらと彩絵を見て一言。

「手を止めない」

 負けじと数秒見つめ返した彩絵だったが、ニーナは絵の感想も言わず先を読みすすめもしない。
 彩絵は仕方なく拭き掃除に戻る。しかし耳だけはニーナが再び読み始めたその声に集中させる。

『ラッコくんはカモメさんがまたやってくる日を待っていて、森へ向かうカモメさんについて行きました。ところが途中で嵐にあってしまい、知らない海の上でカモメさんとはぐれてしまったのです』

「あれっ、セリフが一個も出てこない」

 彩絵はふと雑巾の手を止めた。
 ニーナもスケッチブックを閉じて脇に挟むと、ドリッパーを下ろしてカップに淹れたてのコーヒーを注ぐ。

「それもだけど、ラッコくんカモメさんじゃなくて名前あった方がいいな。さ、ラストスパート! 壁まで到着したらそこに座りな。手洗ってからね」

 コーヒーの美味しそうな香りに誘われ、ニーナに言われた通り壁までしっかり力を込めて床を拭き終える。
 雑巾をバケツに戻し、ニーナが指していた奥に続く廊下へ入ってすぐの洗面所で手を洗う。

 普段使っていない筋肉を使ったためか、力を入れずに両手を見るとわなわなと震えている。
 それがおかしくてつい独り言が口をついて出た。


「腕がプルプルしてる」
「さ、どうぞ」

 顔をあげてテーブルを見ると、ニーナによりコーヒーカップがふたつ並べられている。
 ニーナが引いた椅子の方に、促されるまま腰掛けた。ニーナも彩絵の隣に座りながら言う。

「あんたのにはミルクと砂糖たっぷり入れておいたからね」
「やった!」

 カップを手に取り口に寄せようとして、あっ、と彩絵はニーナを見て「いただきます」と一言添えてから口に含む。

「美味しい!」
「まーよくできてると思うよ」
「えっ、自分で言う?」

 つい大樹相手のノリで振り向くと、彩絵のスケッチブックを開いていたニーナが紙面を示す。

「違う。ラッコの絵」
「なんだ、コーヒーのことかと思った……えっ、本当!?」

 褒められると思っていなかった彩絵は、一度スルーしかけてからニーナを二度見した。
 ニーナはブラックのコーヒーを飲みながら、スケッチブックをめくり嵐のシーンやカモメを追って河を登るシーンを眺める。

「彩絵くらいの年頃だと本物の色で描こうとする子も多いけど、ラッコの心情に合わせた色使いがいいと思うよ。ま、偶然なのか意図的なのかわかんないし、基本的な技術はヘッタクソだけど」

 ニーナがからかうような笑みを彩絵に向ける。が、彩絵は目を輝かせてニーナを見る。

「じゃあじゃあ、そのキホンテキナギジュツを教えてよ」
「それはそうと、あんたなーんにも出来ないんだね。雑巾は絞れないわガスは使えないわ」
「だって、うちはオール電化だしコーヒーメーカーがあるから」

 そこまで言ったところでニーナが人差し指を彩絵の鼻先に突きつける。

「言い訳しない! 出来ないのは悪いことじゃないよ。これから出来るようになればいい。
 でも、出来ないことを自分以外の何かのせいにしていると、成長の妨げになる。
 出来ないってことをきちんと自覚したところで、初めてスタートラインに立てるってわけ」

 合間にコーヒーを飲みながら語るニーナの言葉に、彩絵は深くうなずいた。

「なるほど」
「ホントにわかってる?」

 ニーナに顔をのぞき込まれ、彩絵は屈託ない笑顔を浮かべる。

「なんとなくは。とにかくがんばれ、ってことだよね!」

 小さな両手をガッツポーズの形に握る彩絵に、ニーナは呆れ半分に天を仰ぐ。

「わかった。教えてやるから、学校帰り来れる時に来るといいよ」

 それを聞いた彩絵は思わず立ち上がり両手をあげてジャンプした。

「やったぁ! ……あ」

 それをにやにやと見つめるニーナの視線に気付き、居住まいを正してぺこりとあたまを下げた。

「よろしくお願いします」

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