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十・ニーナとミツ、そしてラウル

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 静かなアトリエ内にひとり、ニーナはしばらくその場にたたずんでいた。
 ややして、ゆっくりとした動作で床に敷いてあるラグの上に座ると、壁際に置いてあった木製の画材ケースを引き寄せる。
 胡坐を組んだ上にそれを乗せ、右手で画材ケースを抱えるようにして頬杖をつく。
 先ほどの彩絵の言葉が思い起こされる。

『私をニーナの代わりにして、ニーナがラウルの代わりに弟子を連れて旅をするって。そういうことなんだ』

 そんなつもりはなかった。
 なかった、のだろうか。

 本当に?

『ニーナだけは、決まった枠にはめないで私のことちゃんと見てくれてるって思ってたのに』

 あんな風に彩絵を傷つけるつもりはなかった。
 それだけは確かだ。
 だが、結果それを招いたのは自分だ。

 彩絵に言われた言葉の数々が胸に刺さる。

 彼女の言う通りだ。
 何も行動しないうちに結果を恐れ、見えない先の不安を拭うために別の道を用意してしまったのだろう。
 それに彩絵を巻き込んで、傷つけた。

 ニーナは知らず深いため息をついて頭を垂れ、頬杖をついていた左手で頭を抱えた。
 直後、入口のドアが開く音が聞こえ、ニーナは反射的に振り仰いだ。

「なんだ、おばちゃんか」
「マダムだって、何度言ったらわかるんだろうね」

 再び頬杖をつくニーナに毒づくミツの声は、いつものそれではなく静かなものだった。
 ミツはドアを閉めながら言う。

「そこで彩絵とすれ違ったよ。喧嘩でもしたのかい?」
「余計なお世話」

 視線を合わせずぶっきらぼうに答えるニーナに、ミツはそれ以上追及せず。
 つい手癖でテーブルの上を片付け始める。

 二人の間に言葉が交わされることはなく、ミツが空いた皿を重ねたり空き缶を捨てる音だけが沈黙の中に響く。
 ある程度テーブルの上が整理されたところでミツは手を止め、どっこいしょ、と椅子に腰かけた。

 テーブル越しに、床に座ったままのニーナの背中を見る。
 黙ったままのニーナに、ミツから切り出した。

「ラウルのこと、アタシ知ってたよ」

 ぽつりと、こぼされたその一言に、ニーナは驚きを隠せず振り返る。

「何を……」
「ラウルから手紙が届いててね。もう長くないって書いてあった。そしたらアンタがひとりきりでやってきて、まぁ挙動不審なこと。お迎えが来たんだなって思ったよ」

 小さく笑みを含んだミツの声だが、その表情には哀惜が滲んでいる。
 ニーナは幼子のようにふてくされた表情でそっぽを向く。

「知ってんなら最初から言ってくれりゃ……」
「アンタが言い出すのを待ってたんだけどね」

 再び訪れた沈黙。
 ニーナは小さく息をついて、画材ケースを抱えたまま立ち上がる。それをテーブルの上にそっと置いた。

「これ、ラウルの遺骨」

 遺言に沿ってニーナは火葬した後、彼が愛用していた画材ケースの中に遺骨を納めて日本を訪れたのだ。
 ミツは見覚えのある、傷のたくさんついた木製の小さなトランクにそっと手を触れた。

「まだ話したいこともたくさんあったんだけどねぇ」

 愛おしげに見つめるミツの様子に、思わずニーナは視線を逸らした。

「あの丘の教会に埋葬してくれって。あそこなら、この街が見渡せるからってさ」
「そうかい、それがいいね」
「ラウルの遺言、だけど……本当は来たくなかった」

 感情を押し殺したニーナの声に、ミツは尋ねる。

「どうして」

 しかし返事は帰ってこなかった。
 何かをこらえるように歯を食いしばったニーナの横顔をなだめるように、ミツはゆっくりと告げる。

「ラウルはね、ここに骨を埋めるって決めたんだよ」
「おばちゃんのことを見守りたいからじゃないの」

 拗ねたようなニーナの反応に、ミツは合点がいき首を横に振った。

「アンタ小さい頃からずっと言ってたろ。『旅ばっかりで決まった家がなくても、ラウルのいるところが帰る場所だ』って。
 自分がいなくなったら、アンタの帰る場所が無くなるって。ラウルはずっと心配して」
「それがどうしてこの街?」

 吐き捨てるように、ニーナはミツの言葉を遮った。
 ラウルが亡くなったときも、遺言を果たすまではと流さなかった涙が、今になってこみあげてくるのをこらえ。勢いのままに続ける。

「なんなら墓なんてなくたっていいのに! あたしがずっと」
「アンタのためだよ!」

 ミツも思わず声を荒げた。

「アンタと……」

 言いかけて、ミツの心の中にラウルから掛けられた言葉の数々がよみがえる。
 あの時彼は言った。『今はまだ駄目でも、いつか勇気を出してくれないか』と。
 ミツはぐっと息を呑み、力なく言葉をこぼした。

「アンタが、この街で生まれたからだよ」

 一瞬の間を置き、ニーナがいぶかしげに振り返る。

「ここで?」

 この街の教会に捨てられていたということと、短い書置きに残されていた『愛』という名前以外は教会の関係者も知らないはずだった。
 ニーナの視線を受けたミツは、慌てて言葉を繋ぐ。

「きょ、教会に捨てられてたんだろ? この街の。ラウルと、アンタが初めて会ったのもこの街だし……アトリエだってあるし!」
「わかった」

 慌てふためくミツに返したニーナの声はわずかながら和らいだものになっていた。

「そんな必死にならなくてもいいよ。明日教会に行く」
「誰が必死だい、変なやきもち焼いてたくせに」
「誰がやきもちなんか」

 いつの間にか、いつもの調子の言い合いになったところで、ミツは両手をニーナに向けて制した。

「ストップ! アタシが悪かった。ラウルの前で喧嘩なんてするもんじゃないね」

 そう言われては、ニーナもそれ以上争うつもりもなく。
 ふたりの視線はどちらからともなく、小さくなってしまったラウルに向けられていた。

「よし! 今日は弔い酒だ。とことん飲むよ、付き合いな」
「弔い酒って」

 調子よく言い放つミツに、ニーナは思わず噴き出した。

「あんた本当に『マダム』ってより『おばちゃん』だね」
「いいから、酒持っといで。そこの棚に入ってるんだろ」
「ハイハイ」

 ニーナはミツの指した棚から日本酒を取り出す。生前ラウルが好んで飲んでいた吟醸酒だ。
 合わせて食器棚からショットグラスを三つ、空いた方の手で持つとテーブルへ運ぶ。
 テーブルに置かれたグラスをミツが画材ケースの前とニーナ、そして自分の前に置く。ニーナはそこへ酒を注ぐ。

 ミツとニーナが会う時には、いつもラウルがそこにいた。
 ニーナが初めて『マダムの庭』に連れられて行った時が、三人が初めて顔を合わせた時だった。
 この吟醸酒も、ミツがラウルに薦めて飲み始めたものだ。

 ほのかな山吹色に透き通った液体に満たされたグラスをふたりは手に取り、ラウルの前に置かれたグラスへそっと当てた。
 ガラスの触れ合う小さな音色が響き、ミツはグラスの中身を一気に煽る。
 その様子を見ながら、ニーナはグラスを傾けた。
 初めて口にしたその酒は舌に小さな刺激を感じさせたが、それもすぐに、失われつつある吟醸香と共に消えていった。
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