上 下
13 / 13

十三・冒険の終わり

しおりを挟む

 どのように時を過ごそうとも、朝はいつもと変わらず訪れる。
 しかしこの日、解田家の廊下にけたたましい足音が響き渡っていた。

「大変、彩絵を起こさないと」

 珍しく寝坊した絵美が自室からリビングへ走り込み、階段に足をかけたところで目を疑った。

「あら?」

 キッチンとリビングの間に収納を兼ねて置かれたカウンターテーブルの前に、起こすべき対象が制服を着て立っているのだ。
 しかもどこで覚えたのかコーヒーをドリップしている。
 そんな異常事態にもかかわらず、彩絵本人はつらっとして絵美に言う。

「おはよう。コーヒー、サーバーに淹れてあるからお父さんと飲んで。もう帰ってくるでしょう?」

 夜勤の時は、登校する彩絵と入れ違いで真武が帰宅するのだ。
 絵美は信じられないと書いてある顔で歩み寄る。

「えぇー、彩絵が淹れたの?」
「うん。ミッちゃんとこのドリッパーとか、分けてもらったの」
「まあ、じゃあお礼しないと」
「お礼はもう渡しておいたから、大丈夫」

 さらりと言って、彩絵は玄関の近くに置いておいたリュックの上からパーカーを取って羽織る。

 ミツに対してはいつも世話になりっぱなしで、よく絵美が菓子や茶器などを渡していたのだが。まさかそれを娘自ら実行しようとは。
 感慨深く思いつつ、絵美はサーバーの隣にしっかり用意されているカップにコーヒーを注ぎひと口。

「あら美味しい」
「じゃ、学校行くね」

 見ると彩絵はリュックを背負って準備万端の状態だった。絵美は慌ててカップを置く。

「待って待って、朝ごはんは?」
「トースト、適当に食べたよ」
「ええー! 自分で作ったの?」

 頓狂な声を絵美が上げるのと、玄関からのドアが開くのは同時だった。

「あ、おかえりなさい」

 彩絵の声に絵美も振り返る。
 手に大きな袋を持ってリビングに入ってきた真武に、彩絵は尋ねた。

「お守り、ちゃんとつけてる?」

 すると真武は家の鍵を彩絵に掲げる。
 そこには水色とピンクの腹巻を付けた龍神様のマスコットがぶら下がっていた。
 彩絵は満足そうな笑みを浮かべてうなずく。

「よろしい! じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「気を付けてな」

 元気に家を出る娘を二人で見送った後、真武は床に重そうな袋を置いた。

「どうしたの? その荷物」
「古い知り合いから譲ってもらった」

 真武が袋の口を開いたのを絵美ものぞき込む。

「画材じゃない!」

 中には木製のパレットや使いかけの絵の具や筆。中には新品も混ざっている。
 袋の中からは油絵具の独特で、二人にとっては懐かしい香りが立ち上っていた。

「私も教えてもらおうかな? 昔みたいに」

 真武が再び筆を取ることに心浮き立たせながら、絵美が笑いかける。夫は唇を一文字に結んだまま押し黙る。
 それが照れ隠しであることを、絵美は良く知っていた。




 解田家の隣、佐藤家は、古くから剣道道場を開いているため立派な門がある。
 その前で、佐藤家の一人息子である大樹がぶつぶつと何事かを呟いていた。

「行かないでくれ、彩絵! ……うーん。彩絵、治安の面からも日本にいるのが安全……うーん」

 家を出て彩絵を迎えに隣家へ行くはずが、大樹はどう彩絵を引き留めるかのシミュレーションに夢中になっていた。

「彩絵、俺と同じ高校に行って、俺とつ、つ……」

 ガチャリとドアが開く音がし、大樹は跳ね上がった心臓と一緒に跳ね上がった。
 音のした方を探してあたりを見回す。発生源を見つけた大樹はその場に立ち尽くし、自身の目を疑う。

「おはよう」

 解田家の玄関から出て来た彩絵は、大樹に一言かけてバス停へ向かう道を歩き出す。
 後ろから足音がついてこないのを訝しみ、彩絵は振り返った。
 大樹は固まったまま佐藤家の前に立っている。

「なにしてんの?」

 冷たい彩絵の一言に我に返り、大樹は寝坊助の幼馴染に駆け寄った。

「熱でもあるのか? じゃなきゃ今日、雪降るか竜巻来るだろ」
「うるさい」

 彩絵は額を触ろうとしてくる大樹の手を押しのける。

「大樹が迎えに来なくたって、ちゃんと起きられるんだから」

 自慢気に言い放ったその時、大樹のリュックに見覚えのあるマスコットがぶら下がっているのに気が付いた。

「あっれぇー?」

 意地悪な笑みを浮かべて龍神様の方へ回り込んでくる彩絵をガードしながら、大樹は言い訳する。

「ミツさんが持てって言うから、仕方なくだよ。彩絵は? 願い事何にしたんだよ」
「お父さんにあげたよ。『毎日無事に帰って来ますように』って言霊を込めてね」
「えっ、おじさんが持ってるの」

 歩き出した彩絵に並びながら、大樹は消え入りそうな声で言った。
 ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、おそろいになるかなと思っていたのに。
 そんな幼馴染の心知らず、彩絵は無邪気に尋ねる。

「大樹は? 彼女できますようにって、ちゃんとお願いした?」
「しないよ!」

 噛みつくように返事しつつ、大樹はリュックのジッパーにぶら下げていたマスコットをそっと開いたチャックの中に押し込む。
 そして、彩絵に確認しようと思っていたことを思い切って口にする。

「あの、ニーナ さんのこと、だけど」
「もうヨーロッパ帰ったよ」
「え?」
「雨降ってた次の日。そうそう、三者面談の日」

 あまりにあっけらかんと彩絵が言うものだから、大樹は聞き違いかと思ってしまった。
 さんざん彩絵がニーナについて旅立ってしまうことを心配していた自分が馬鹿らしい。その時間を返してくれ、と誰にともなく心の中で呟いていて、ふと気が付く。

「そうだ、三者面談どうだったんだよ。進路どうした?」

 手術後の主治医にすがる家族さながらに詰め寄る大樹に、彩絵は立ち止まった。
 腕組みをし斜に大樹を見上げ、ニーナのポーズを真似たところでおもむろに口を開く。

「まったく、質問が多いな大樹は。私は」

 突然空を指さした彩絵につられて、大樹は空を見上げた。
 よく晴れた空に、秋の雲が浮かんでいる。

「世界に羽ばたく絵本作家になるの!」
「……はぁ?」

 大樹が空から視線を戻すと、彩絵は広げた両手を翼のように動かしながらスキップで遠ざかっていく。
 その背中を追いかけながら、大樹は質問を投げかける。

「だから、高校はどうするんだよ。彩絵!」

 どの道を選んでも、後悔はしない。
 絵本作家になるまであきらめない。
 そしていつか、絵本作家になった時は、最初の一冊を直接ニーナに手渡すのだ。
 彩絵は遠く離れた地にいるニーナのもとへもつながっているであろう空を見上げて、心に誓った。




 外国語のアナウンスが流れる中、多くの人が行き交っている。しかし空港内に日本人の姿は少ない。
 到着ロビーのベンチに、赤紫のニットスカートに、金糸刺繍の施されたショールを羽織った派手な装いのおばちゃんの姿があった。
 真っ赤なキャリーバッグを紛失しないよう両足の間に挟み、その上でB4サイズのスケッチブックを広げている。

 スケッチブックには、川を泳いで下るラッコと、その上に寄り添って飛ぶカモメの姿が描かれている。

――『あんなに森でくらしたがってたのに、ほんとうにもどってきてよかったのかい?』
――ニーナにきかれて、アーヤはすこしかんがえてこたえました。
――『森でのくらしはすごくドキドキしてキラキラしていて、すてきなまいにちだったよ
   でも、はなれてみてきがついたんだ。海が、家族とのくらしが。
   ぼくにはとっても大切なんだってこと』
――ニーナはこたえをきいて、やさしい目でアーヤをみつめました。
――『ほら、この先。このまま川をくだれば、すぐ海だよ。もうひとりでだいじょうぶだね』


 ページをめくると、森の上の空はピンク色の雲が流れている。飛び立とうとするカモメを振り返り、手を振るラッコの姿があった。

――『まって、行ってしまうの? ぼくたち、せっかくともだちになれたのに』
――アーヤがよびとめると、ニーナはくるりと上を飛んでからアーヤにわらいかけました。
――『おわかれじゃない。いつかまたあえるよ』
――それをきいて、アーヤはあんしんして、ニーナにわらいかえしました。
――『そうだね、いつか。じゃあニーナ、またね』
――ゆうがたの空へとんでいくニーナの白いつばさを、アーヤは見えなくなるまで見おくりました。
  アーヤはひとりになりましたが、ニーナとのやくそくがあったのでさびしくありません。
  それに、かぞくがまつ海はもうすぐそこなのです。


 最後のページには一面のオレンジが広がっていた。
 海に沈む大きな朱色の夕陽。黄色から橙色のグラデーションに染まる空と海。
 広大に広がる海へ泳ぎ出すラッコを見守るように、白いカモメが小さく遠ざかっている。

――『海だ! はやくいかなきゃ。きっと、ぼくのことしんぱいしてる」
――アーヤはなつかしいにおいのする海におよぎだしながら、おおきなこえでさけびました。
――『おとうさーん、おかあさーん。ぼく、かえってきたよ!』


 ミツは物語の余韻を感じながら、静かにスケッチブックを閉じた。

「彩絵、いい話描くじゃないか」

 と、左腕に掛けていたバッグから着信音が流れる。
 それを取り、周囲の喧騒に負けないように大きな声で応える。

「ニーナかい? 遅いよ! 早く迎えにおいで。
 ……違う違う、今はフランスの空港だよ。
 ……ドイツにいる? こっちは全部陸続きだろ? いいから……」

 ミツはスケッチブックを脇に抱え、キャリーバッグを手に歩き出す。

「彩絵から預かりものもあるし、その……アンタに大事な話があるんだよ」

 彩絵の絵本にも描かれていた通り、家族は一緒にいた方がいいのだろう。
 やむにやまれぬ理由で手放してしまった絆を、ラウルが繋いでくれた。
 生前果たせなかったラウルとの約束を果たさなくては。
 許してもらえなかったとしても、勇気を出して真実を告げよう。

 電話越しに軽口の応酬をしながら、ミツは胸に覚悟を抱く。
 その姿は空港の人波の中へ紛れていった。






 通話を終えたニーナは、換気も兼ねて窓を開け放つ。
 窓から吹き込む冷たくも新鮮な空気を大きく吸い込みながら、大きく身体を伸ばす。
 自ずと飛び込んできた、突き抜けるような青空。

 彩絵の描いたカモメの飛ぶ空を思い出し、思わず頬が緩んだ。
 次に会う時には良い報告ができるようにしなくては、と今は自然と思えるようになっていた。 

 窓を閉めると、ニーナは身支度をしアトリエを後にする。ミツを迎えに行くその足音が遠ざかって行く。

 アトリエの中に残された描きかけの絵は、日本のアトリエから持ってきたものだった。
 森の上に広がる夜空を夕陽に塗り直し、森の池のほとりには夕陽に染まる空をを見上げる親子三人が小さく描かれている。
 子供のシルエットが指す先には、羽根を夕陽のオレンジに染めて悠々と空を舞うカモメの姿があった。




――おしまい

しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...