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捨てられないもの
しおりを挟む人は一人では生きて行けない。
そう何かの本で聞かされた。
確かあれは、高名な冒険家の冒険譚だった筈だ。
一人では出来ない事も、二人なら出来る。
二人では出来ない事も、三人なら出来る。
事、冒険に関してはそれが如実に現れるらしい、一人では眠る事すらままならず、二人でも疲れが溜まる一方、三人になると少しだけ余裕が持て、四人なら安定した冒険を楽しめるのだとか。
その通りだ、人は一人では生きて行けない。
声を出せないボクや、一人では生きて行く事すら出来ないお嬢様。
最初から誰もが同じ立ち位置には居ない。
何かを持って、何が無くて、足りない部分を補い生きて逝く。
ボクは卑しい人間だ。
お嬢様に足りていない事が、ボクも足りていない事が、とても幸せな事だと思ってしまう。
願わくば、彼女にはボクが必要で、ボクには彼女が必要な関係が、この先ずっと続いて行きますように。
*
「貴方は解雇です」
奥様から突然にそう告げられた。
「理解できますか? 貴方は奴隷を解放されたのです、何処へなりとも行きなさい」
訳も分からず目を白黒させていると、奥様から次々と物を渡された。
一つは使用人の正装、もう一つはジャラジャラとした重い小袋、もう一つは三通の手紙。
「この屋敷から離れた後、すぐに手紙をお読みなさい、貴方の主人から手紙です」
この人は、ボクが文字を読める事を知っているのか。
ボクの驚いた顔があまりにも間抜け面だったのか、奥様は小さく溜め息を吐く。
「この手紙を読んで、貴方がどうするかは貴方次第です。ですが、貴方には既に色々な意味での責任が生じています。
その事を夢夢忘れぬように」
それだけ言われた後、ボクは屋敷を追い出されてしまった。
少しの間、呆然としてしまうが、すぐに自分を取り戻す。
急いで此処を離れよう。
恐らく、ボクを此処から離す必要があり、お嬢様がそう根回しをしたに違いない。
そう確信したボクは即座にその場から離れる。
屋敷からかなり離れた場所で一息吐くと、ボクは一つ目の手紙を丁寧に開け、読み始める。
『この手紙を読んでいるという事は君は無事に奴隷という身分を解放されたのだろう、心からおめでとうと言わせて欲しい。
さて、さっそくだけれど本題に入らせてもらおう。
賢い君のことだ、私が君をワザとその状況にした事は分かっていると思う。
だから私は私の置かれている状況をはっきりと君に伝えなくてはならない。
だが君が勘違いをしないように、私が君をこうして遠ざけた理由を先に記しておくよ。
私は君に何の期待もしていない。
私は助けて欲しいとも、一緒に死んで欲しいとも思っていない。
ただ君は良い人だから。
こんな私でも親しげ接してくれる君だから、せめて自由に生きて幸せになって欲しい、それだけだ。
さて、私の置かれている状況だが、簡単に言ってしまえばこれから命を落とすか既に落としている事だろう。
理由はおおよそ見当がついているかもしれないけれど、お父様の意志によるものだ。
それが本人自ら手を下すのか、誰かにやらせるのかは分からないが、あの人たちは自分たちが被った不幸を全て私のせいにして、私を殺すだろう。
まあ、最初から何故殺さなかったのかが不思議なくらいだから、今さらという気持ちが無いではないが、特に思う事もない。
私が生きていた理由はお父様だった。だから私が死ぬ理由もまたお父様で良いと思っている。
後悔や絶望などは全く無いので悲観などしないで欲しい。
優しい君の事だ、少しは悲しんだり哀れんだりしてくれるだろうが、それは私ではない誰かに送ってあげて欲しい。
全てを簡単に捨ててしまう私には、君のその優しさは些か度が過ぎて重いものだ。
気持ちだけは受け取らせてもらうけれど、その気持ちを行動になど絶対に移さないでおくれ。
私に対する後処理の後は近しい君が処理されてしまう事だろう。
お父様の頭は出来が悪い、後先の事など考えず八つ当たりのように君にも危害を加える筈だ。
だから決して戻って来てはいけない。
私はそれを望んでいない。
君は君で幸せに生きて欲しい、それが私の望みです』
放心とは、この事なのだろうか。
しばらく何も考える事が出来なかった。
先ずは悲しみがやってきた。
お嬢様にはボクなど必要なかったという現実が、お嬢様にとって、ボクは頼るべき相手では無く、守らなくてはならない相手だと思われていた事が、ボクは悲しくて仕方がなかった。
そして次に感じたのは怒りだった。
お嬢様にとって、ボクは簡単に捨ててしまえる程度にしか思われていなかった事に怒りを感じた。
何年一緒に過ごしたと思っているんだ、あの人は。
同じ物語を読み、一緒に笑い、一緒に泣いた。
くだらない話もした、お嬢様は決まって悲しげな表情をしたが、もしもの話や、こうだったらという未来の話だって。
最初から何も持っていなければ悲しくない?
ならボクは一体誰のものなんだ。
旦那様でも奥様でも無い、ボクは望んで、お嬢様と一緒に居たのに。
ーー戻って来るな。
そう、ただ戻るだけではダメだ。お嬢様を連れ出し、この街を出る計画が必要だ。
だけど今さら計画を練る時間が無いし、そもそもボクにはその為の知識と力が何一つ足りていない。
だけど、お嬢様は今にも殺される可能性がある、一分一秒でも早く戻らなくてはならない。
手詰まり? そう考え、視線を落とすとお嬢様の手紙が目に入った。
手紙が、三通ある?
お嬢様からの手紙だけなら一通で良かった筈だ。
それなのに何故三通も手紙を渡された?
誰から、誰に送られた物なのか?
もしかしたら、そんな一縷の望みを掛けて、ボクは二通目の手紙の封を切った。
*
「お久しぶりですね、お父様。そんなに血走った目をしてどうしたのですか?」
片手には血の付いた刃物、顔や体には誰のか分からない返り血がついていた。
「お前のせいだ、お前なんかが産まれて来なければ俺の家は安泰だったのに」
目はどこか虚ろで聞き取りにくい声でお父様はそう口にする。
お前のせいで、その言葉を否定するつもりはないけれど、お父様が没落したのは大部分がお父様自身の失敗のせいだろう。
お父様は媚びる相手を間違えた、寄生する相手を間違えた、お金の集め方を間違えた、お金の使い方を間違えた。
頭を使わずに媚びるだけ媚びた挙句に、寄生していた相手に見放されたのだ。
可哀想だとは思うまい、同情なんてこの人は望んでいないのだから。
「そうですね、申し訳ないと思っています」
そう陳謝すると、お父様は金切り声を上げた。
「黙れ! 何もかも悟ったような顔をしやがって!
そのすまし顔が一番腹が立つんだ!」
泣き喚けば五月蝿いと罵るだろうに。
本当に気難しい人だ。
しかし、私を殺すというのは分かる、理解できるし当然だと言える。
だけど、その返り血は何なのだろうか? 何故、私以外の者に危害を加える必要があったのだろうか?
思い当たる事がいくつかあり、あまり想像したくないものばかりだった。
「ところで、お父様。その血は、誰のものなのでしょうか?」
出来るだけ平静を保つように、私はお父様にそう尋ねる。
そんな問いかけに何故かお父様は薄気味の悪い笑みを浮かべた。
「何故そんな事を聞く? お前が知っている人間なんて両手で数えられるくらいしかいない筈だ。
もしかして、あの奴隷の心配をしているのか?」
「……そんな事はありません、彼はただのお付きですから、特別な感情などは全く持ち合わせていませんよ、馬鹿馬鹿しい」
そう否定をすると、お父様は馬鹿にするように鼻で笑った。
「ほぉ、今日はまた随分と良く喋るじゃないか。それに……お前、震えてるぞ?」
「そうですか? 気のせいだと思いますけど」
答えを嫌に焦らしてくる。そんな筈は無い。
彼の事は彼女にお願いをした。
既にこの屋敷からとっくに離れている筈だ。
手紙の内容にもこちらには来るなと言い含めたし彼がこの場にくる理由だってそもそも無い。
命の危険があるとさえ書いたんだ、戻って来る事などあり得ない。だから違う。
あの返り血は彼のものではない。
その筈なのに、目の前のゲスな笑みを見ているとどうしようもなく不安になってくる。
「あぁ、そういえばこの返り血の話だったな、すまんすまん、お前があまりにも人間のような反応をするものだからついな」
先ほどまでのイライラが嘘のように払拭されている。
この人は他人より優位に立つと途端に上機嫌になる傾向がある。
その事が更に私の不安を煽ってくる。
返り血が、私にとって優位に立てる人物の可能性が高いからだ。
「お前は逆に誰のものだと思うんだ? 頭が良いのだろう? 答え合わせをしてやるから答えてみなさい」
精一杯の強がりをもって、私はお父様に言葉を返す。
「質問に、質問で返すのはやめた方が良いですよ、馬鹿だと思われてしまいますから」
そう言葉を返すと、ゲスな笑みを貼り付けたままお父様は私の顔を殴りつけた。
「ーーっ、抵抗できない相手に手を上げるのは感心しませんね」
「悪い悪い、すぐ様ブッ殺そうかと思ってたんだがお前が苦しむ所が見たくなってな、少し付き合ってくれよ」
それから、お父様は何度も何度も私の事を殴り続けた。
死ぬほど痛くて、声も出せなかった。
「おっと、これ以上やったら死んじまうか、危ない危ない」
顔中が、いや、全身が痛い、今までに無いほど現実的な痛みに泣きたくなる。
だけど、どうしてだろうか? 痛くて辛くて死にたいとすら思うのに、私の口は泣き言や命乞いではなく減らず口を吐いていた。
「き、きはすみましたか?」
私はどこを見ているのだろうか?
私はどこにいるのだろうか?
右も左も、上も下も分からない。
急に怖くなった。
胸が痛くて呼吸がしにくい。
それでも私は喋る事をやめなかった。
「それ、で? その返り血は誰のものですか?」
「このクソガキが!」
床に寝転んでいた私を蹴り上げたのか、腹部に強烈な衝撃が走ると背中にも激痛が走った。
空気を全て吐き出してしまい、嗚咽が込み上げてくる。
「泣けよ! 喚けよ! どうしてテメェらは俺をイラつかせるんだ!」
何を吐き出しているか分からない程、痛みで体中が悲鳴を上げている。
それでも私は、彼の無事を確認するまで生きていたかった。
「クソが! あんまり俺をイライラさせるなよ、すぐに殺しちまうだろ?」
荒い吐息が近づいてくる。
そして、何故か私の衣服を強引に破り去った。
「な、に?」
「あ? 黙って犯されてろクソガキ、どうせ抵抗なんて出来ねえんだからよぉ」
怖気が走った。
痛みは嫌いだけど我慢しよう。
殺される事も許容しよう。
それでも、こんな男に抱かれるのだけは何があっても絶対に嫌だった。
「わたしに、触るな!」
肘から下が無い腕で振り払うように手を出すが、当然振り払える分けは無く。
「あ? 今更なに言ってんだ? テメェに拒否権なんてあるわけねえだろうが!」
そう言ってこの男はまた私の顔を殴り始めた。
痛みと鈍い音が鼓膜の中に広がる。
「一体! 誰のせいで! 女を! 無くしたと! 思ってやがる! お前の! せいだ! お前の!」
微かに拾った怒りの声音。
女を、無くした?
その言葉に、私は心底安堵した。
あの返り血は、私の母かこの男が囲っている女性のもので、彼のものでは無いのだと。
その答えが出せただけでも、痛いのを我慢した甲斐があったというものだ。
嬲られて、犯されて、殺されても。
彼が無事なら、どうでも良いと思えるのだから不思議だ。
もう痛みだって感じない。目だって腫れ上がって開く気がしない。
今はきっととても惨めな姿をしているんだろうな、私は。
……こんな姿、彼には見られたくないな。
でも、きっと彼は優しいから、嫌な顔一つしないで私の事を抱き抱えてくれる。
そして優しくベッドに寝かせてから看病をしてくれると思う。
私は痛いのは苦手だから、泣きながら甘えてしまうかも知れない。
それでも彼はきっと優しくしてくれるだろう。
もしかしたら寝るまで頭を撫でてくれるかも知れない。
そうなったらいいな。
彼が助けに来てくれて。何もかもが上手く行って。
二人で外の世界で暮らすんだ。
私は彼の声になって、彼は私の体になる。
そんな風に、助け合いながらどちらかが死ぬまでずっと寄り添いながら生きて行く。
それがいいな。
そうなって欲しいな。
せめて、夢の中でくらい幸せに浸りたい。
何もかもを捨てたって、本当に大事な物は捨てられない。
私が涙を流した理由なんてそんなものだ。
ただ単に彼が私の側を離れて行くのが寂しくて、悲しかったのだ。
私は誰かに助けてもらわなければ生きて行けない。
でも、声が無いだけの彼は、筆談を覚えてしまった彼は、私なんて居なくても生きて行ける。
そんな現実が辛くて、悲しくて、寂しかったのだ。
私は、彼のとなりにいる資格が無い。
迷惑にしかならない私は、彼に縋る事しか出来ない私は、彼の事を想う資格すらないのだ。
意識がどんどん暗くなる。
体に力が入らない。
それに先程から体が宙に浮いている気がする。
「最後まで、キミと一緒に居たかったな」
未練というのは恐ろしい。
こんな状態なのに、驚くほどすんなりと言葉が溢れて来た。
それを最後に、私の意識は真っ黒に塗り潰されていった。
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