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09: 東の第二王女と少年の話 2
しおりを挟む「ツァイト様」
愕然として蒼い顔で立ち尽くしているツァイトに、背後から声がかかり、ツァイトは慌てて声のする方へと振り向いた。
少し離れた場所から、ツァイトの世話をしてくれている女官長のラモーネが、足早に近づいてくるのが見えた。
「失礼ですが、この方になにか……?」
ツァイトと女官のミア。
そして、二人と相対するかのように彼らの正面に立つ、数名の女官を引き連れた女魔族という、常ではあまり見ない状況に女官長が怪訝に思い問いかける。
手に本を持っているツァイトは書庫からの帰りだろう、と女官長は推測する。
魔王城にはいくつか書庫があり、もちろん魔王の私室がある区画にも書庫はある。
主に、魔界で禁書指定されている、悪用すると厄介な書物ばかりがそこに収められている。
基本的に魔王以外立ち入ることは許されていないが、彼が溺愛する少年ツァイトは別だ。
書庫に張られた、魔王以外を拒む結界は、ツァイトには無効で、その危険な書庫の中にツァイトは自由に入れた。
そしてその中に、ツァイト専用の、ツァイトが所有していた人間界の書物を収めた棚が存在している。
魔王がツァイトのために棚を増やしたのだ。
普段はそこで選んだ本を、時には魔界の賢者であるヴァイゼに翻訳をさせている古代の魔導書を、ツァイトは読んでいたのだが、魔王城にある他の書庫のことを魔王に聞いて以来、最近はそちらにも足を運んでいた。
もとから本を読むのが好きなツァイトは、最近、魔界の書物にも興味を持ち、それらを読んでいる。
魔界で使われている文字を、ツァイトはまだ理解できていないので、ほぼ挿絵を眺めるだけではあるが、人間界とは違った感性の絵に興味津々だった。
もちろん美術品の図鑑や植物図鑑などといったものも書庫にはあり、それらを借りてきては、魔王に一つずつ教えてもらいながら仲睦まじくすごしている。
その書庫からの帰り道、ツァイトはこの女魔族たちに遭遇したのだろう。
そう女官長は捉えた。
「あら、わたくしは何もしていないわ。ただ、わたくしの進行方向にいた邪魔で無礼な人間に、お退きなさいと声をかけただけよ」
今までツァイトに吐いた言葉を忘れでもしたかのように、女魔族はすました顔で女官長に答えた。
だが、それで納得する女官長ではない。
いつもなら笑顔をふりまいて陽気なツァイトが、今は蒼い顔で唇を引き締めて立っていたのだ。
また以前のように、何かしらあったのだと女官長は悟る。
しかし、それを追求する前に、女魔族は「行くわよ」と後ろに控えていた女官に告げて、さっさとその場から立ち去ってしまった。
彼女たちの姿が回廊の角を曲がり気配が遠ざかったところで、女官長はツァイトへと振り向いた。
「ツァイト様、本当に何もされていませんか?」
「あ、うん。大丈夫……」
女官長の問いかけに、ツァイトは首を縦に振って頷いた。
されてはいない、何も。
ただ、辛辣な言葉を浴びせられただけだ。
少年に手を掴まれている女官のミアは、なにか言いたそうな顔をしている。
あとで教えなさいと目で合図をおくると、ミアはしっかりと頷いた。
「ラモーネさん……」
「どうかなさいましたか?」
弱々しい声音に、いよいよ女官長は顔を固くした。
いま何があったのか、事の詳細は女官のミアに聞くとして、優先すべきはツァイトである。
見たところ、外傷はおっていない。
そういう意味ではツァイトは無事だ。
では、ツァイトを不快にさせるなにかを言われたのだろうか。
女官長が考えを巡らせていると、ツァイトはゆっくりと女官長を見た。
「あの女の人、誰か知ってる……?」
「あの方は、東の領地を統治しておられる魔王陛下の二番目のご息女様でございます。先日の件で、東の魔王陛下の名代としていらっしゃいました」
先日の件とは、ツァイトが誘拐された時のことだ。
連れ去られたツァイトを助けに、魔王レステラー直々に、東の魔王に断りもなしに無断で彼の領地へ足を踏み入れたのだ。
その上、一部を消し去ったという。
それについて何やら東の魔王と一悶着あったらしいが、事の詳細はツァイトには知らされていない。
「東の魔王のご息女……ってことは王女さま?」
だからあんなにも人を見下したような態度で話しかけに来たのかと合点がいった。
王女なら、さぞかしプライドは高いことだろう。
「あの人、自分は魔王妃候補だって言ってた……。レスター、結婚するの……?」
「それは……」
なんて答えていいのか、一瞬女官長は迷った。
確かにそういった打診は、少なからずある。
魔界で第二位の魔王と懇意になりたい連中は大勢いるし、魔王の側近の中にも少なからずいて、その彼らがいろいろと画策しているのだ。
ただそれを、魔王は一切取り合わないだけで。
魔王妃候補は、魔王が求めたものではなく、一部の側近と彼らに追随する者たちによって用意されたものだ。
機会が巡ってお手付きになればいい、という考えで。
だが、強引にでも推し進めれば、逆に自分たちの命が危ないのを彼らも知っている。
そこで魔王城に己が姫を、親戚の娘を、女官や文官として送り込んでは魔王の手がつくのを待っている状況に近い。
今回の東の魔王の娘のように、他領地から名代や使者として送られてくる者もいる。
もちろん女達もただ指をくわえて待っているだけではなく、自分から誘いをかけようとしたこともあるが、一度も成功していない。
そういう者たちは、魔王に近づくことさえも許されなかった。
東の魔王の娘は、王女であり魔王の名代という立場から、謁見の間ではあったが、他の魔王妃候補と違って、魔王に直接会うことができ、言葉を交わす機会を得られた。
だがそれだけだ。
そもそも、以前の魔王を知っている者からすれば、今の状況の方がおかしいと感じざるを得ない。
たった一人に決めるなど、以前の魔王では考えられなかった。
だが今は、ツァイトだけだ。
ツァイト以外には目もくれず、今まで誰も見たことのない優しげな笑みを惜しげもなく晒し、以前の彼からは想像もできないくらい、ツァイトを甘やかしていた。
一番近くでそれを目にしているのは、女官長だ。
だから女官長には断言できた。
「そういった話は決して無いとは言い切れませんが……今のレステラー様にはツァイト様だけです」
蒼い顔をするツァイトに、ご安心くださいと女官長は言うが、ツァイトの心は晴れない。
レステラーを信じていないのではない。
ただ彼が王である以上、避けては通れない問題なのだと気づいたからだ。
どのくらいそこで立ち止まって話していたのか分からない。
ツァイトと女官長、そして女官のミアのもとに、誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
静かな足音は、ツァイトの傍まで来るとぴたりと止まった。
ツァイトは顔を上げ、その気配がする方へ視線を向けた。
「アンタ、こんなトコロで何してんだ?」
不思議そうにツァイトを見下ろしながら問いかけるのは、いま話題になっていた魔王レステラーだ。
闇を彩る漆黒の髪に、血のように鮮やかな紅い瞳の魔族の男。
この城の主にして、魔界で二番目に強い魔族の王だ。
「ちょうど良いや。一段落ついたからさ、今から一緒にお茶にしねえ?」
にこにことツァイトにだけ向ける笑みとともに、レステラーは優しげな声音で、ツァイトに伺いを立てる。
毎日だいたいこの時間くらいに、ツァイトはおやつを食べていた。
だからツァイトも書庫から部屋に戻ろうとしていたし、女官長もツァイトを探しに来た。
しかし、いつものツァイトならレステラーが一緒だと喜んで即答するのに、今日に限ってそれがない。
「ツァイト?」
訝しげな面持ちで自分の腰より少し上の身長しかないツァイトの名を呼ぶ。
まさか目を開けて寝てるんじゃないよなと、レステラーはツァイトの目の前で手を振ってみせた。
するとツァイトは思いっきりレステラーを睨みつけた。
呑気にお茶でも飲もうというこの男が、何故だか無性に腹立たしかった。
さっきツァイトはあの女魔族に酷い言葉を浴びせられ、厭味も言われたというのに。
それもこれも、全部この男のせいだ。
彼が魔王ではなかったら。
きっとこんな気分を味わわなくてすんだ。
いや、違う。
こんなのは八つ当たりだ。
傍にいる事を許したのはツァイトの方だし、それがいつの間にか当り前になっていて、一緒にいる心地よさを、彼のぬくもりを、今さら無かったことにはできないし、手放せないし、手放したくない。
でもやっぱりなんだかムシャクシャする。
理不尽な八つ当たりだと頭で理解はしていたが、手に持っていたいくつかの本を、有りっ丈の力で無言のままレステラーに向かって投げつける。
厚みのある本の角が当たればすごく痛い。
下手をすれば流血ものだ。
「きゃっ!」
「ツァイト様!?」
それを見た女官長と女官のミアは、一瞬で顔を蒼くしながら、叫び声を上げそうになるのを、口に手を当てることで堪えた。
「ちょっ、危ないなぁ!」
何するんだよと、器用にツァイトが投げた本を受け取りながら、レステラーは問いかけた。
避ける事もせず軽々と掴みとられ、本は一つもレステラーには当たっていない。
「本は大事にしろってアンタいつも言ってんのに、なに投げてんの」
別に本の一冊や二冊、読めないくらいボロボロになったところでレステラーには痛くもかゆくもない。
だがツァイトらしからぬ行動に首を傾げる。
「ツァイト?」
「レスターのバカ!!」
「は?」
腹の底からそう叫ぶと、ツァイトは踵を返してその場から駆けだした。
後に残ったのは蒼い顔をした女官長と女官、それにツァイトの行動が理解不能の魔王。
そしてたまたま通りがかって目撃してしまった哀れな魔族が数名。
「……俺が一体何したよ?」
ぽつりと漏れた言葉はツァイトに向けた声音と同じものだったが、周りの空気が確実に冷えたのをその場にいた魔族達は感じた。
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