『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

月影 朔

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第二部 江戸闇聴聞 ~絡繰りの音~

第二十話 蔵の中の密室、音の罠

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 深川の材木問屋での対決から数日。市と木暮同心は、影の組織が次に潜む可能性のある古寺の蔵に狙いを定めた。第十九話で感知した不自然な音と香りは、間違いなくこの蔵から漏れている。

 闇に包まれた古寺の境内は静寂に包まれ、苔むした地面からは湿った土の匂いがする。しかし、その静寂の奥には、影の組織が仕掛ける不穏な気配が潜んでいる。

「間違いない… あの音と香りは、この蔵からです」

 市は、蔵の扉の前で立ち止まり、木暮同心に告げた。鼻腔には、甘く淀んだ香りが以前よりも強く流れ込んでくる。そして、耳には、あの不自然な、しかし規則的な「音」が、蔵の分厚い壁を通して微かに響いている。それは、何かの「絡繰り」が動いている音であり、同時に、影の組織が互いに連絡を取り合っている音でもある。

 木暮同心は、市の言葉に緊張した面持ちで頷いた。既に奉行所の者たちが蔵の周囲を固めている。今回の相手は、深川で逃走した影の組織の主要メンバー、あるいはそれと同等かそれ以上の手練れである可能性が高い。

「踏み込むぞ。市、無理はするな」

 木暮同心の合図と共に、奉行所の者たちが一斉に蔵の扉を破って突入した。市は、木暮同心に手を引かれ、狭く閉鎖された蔵の中へと入った。

 蔵の中は、予想以上に空気が重く、あの甘く淀んだ香りが充満していた。視界は薄暗いが、市の鼻腔は、香りの層や流れを感知する。甘く淀んだ香りの中に、金属、油、そして、何らかの化学物質のような匂いが混じり合っている。それは、盗まれた「絡繰り」の道具や、影の組織が何かを製造している匂いだ。

 市の耳には、複数の人の気配と、慌ただしい物音が響いてくる。影の組織のメンバーたちは、市たちの踏み込みに気づき、応戦しようとしている。彼らは、狭い蔵という空間を熟知し、そこに巧妙な「絡繰り」を仕掛けているのだろう。

「動くな! 奉行所だ!」

 木暮同心の声が響き渡る。しかし、影の組織のメンバーは、応じることなく、足音を立てずに闇の中を移動する。彼らは、この蔵の構造と、そこに積まれた荷物を隠れ蓑にしている。

 市は、自身の五感を最大限に研ぎ澄ませた。狭い空間での音の反響、香りの充満。それは、市の感覚を混乱させる可能性もあるが、逆に、市の感覚でなければ捉えられない情報が満載の空間でもある。

 甘く淀んだ香りの濃淡を追う。特定の場所に香りが滞留している。そこには、影の組織のメンバーが潜んでいる。壁や天井からの微かな音の反響は、彼らがどこを移動しているかを示す。地面の微細な振動は、足音を消していても、彼らが地面を踏みしめていることを伝える。

「木暮さん! 左手、積み荷の陰に三人! 香りが濃いです!」

 市は、自身の感覚が捉えた情報を、木暮同心に正確に伝える。木暮同心は、市の指示に従い、部下たちに指示を飛ばす。

 影の組織のメンバーは、市の指示に驚いているようだ。狭い蔵の中、視界が悪い状況で、なぜ自分たちの位置が正確に分かるのか理解できないのだろう。彼らは、さらに巧妙な「絡繰り」を仕掛けてくる。

「ピィー! ピィー! キィー!」

 突然、複数の異なる音程の「音」が、蔵の様々な場所から響き渡った。それは、あの「ピィー」という音だけでなく、金属が擦れるような、奇妙な不協和音だ。音波が、蔵の中を複雑に反響し、市の聴覚を直撃する。これは、「音絡繰り」による、複数の方向からの攻撃だ! 脳が揺れる。平衡感覚が失われる。

「市の聴覚を塞げ!」

 影の組織の主要メンバーの声が、響き渡る音の波の中から聞こえてきた。彼らは、市の能力が彼らの脅威となっていることを理解し、市の最も鋭敏な感覚である聴覚を狙ってきたのだ。

 市は、激しい音波攻撃の中で、自身の聴覚を守るために、耳を塞ごうとする。しかし、それは、敵の思う壺だ。耳を塞げば、他の微かな音、影の組織の動きを捉える音が聞こえなくなる。

 その時、市の脳裏に、源七爺さんの言葉が蘇った。「音は、お前にとって、世界の全てを形作る情報だ。それを恐れるな。音の中にある真実を聴き分けろ」。

 市は、耳を塞ぐのをやめた。そして、激しい音波の中で、あの「ピィー」という音の、最も強く響いている場所を探る。それは、蔵の奥、特定の場所から響いている。そして、その音の発生源の近くから、微かに、しかし規則的な「歯車が回るような音」が聞こえてくる。

「奥です! 影の組織が何かを製造している音は、あの奥からです!」

 市は、自身の感覚が捉えた真実を叫んだ。激しい音波攻撃の中で、市の声はかき消されそうになる。しかし、木暮同心は市の声を聞き分け、その方向へと進もうとする。

 影の組織の主要メンバーが、行く手を阻む。彼は、自身も「音絡繰り」を発しながら、木暮同心に立ち向かう。物理的な攻防と、音波による心理戦が交錯する。

 市の指先が、地面に転がっている小さな金属片に触れた。それは、複雑な形状をしており、油の匂いがする。破壊された「絡繰り」の道具の一部だろうか。

 市は、自身の感覚を頼りに、蔵の奥、あの「歯車が回るような音」が響いている場所へと進んだ。狭く、物が多く置かれた蔵の中は、視覚に頼る者には進みにくい。しかし、市には、全ての物体が、感覚で捉えられる情報として認識される。

 やがて、市の指先が、作業台のようなものに触れた。そして、その上で何かが動いている感触。複雑な歯車が噛み合い、微細な動きを繰り返している。そして、鼻腔に、あの甘く淀んだ香りと、金属、油、そして、生々しい血のような匂いが混じり合った、吐き気を催すような匂いが流れ込んできた。

 それは、影の組織が、盗まれた「絡繰り」の道具を使って、何かを製造している現場だった。そして、その製造物からは、生々しい血の匂いがする… 彼らは、一体何を…?

 その時、市の耳元で、あの「ピィー」という音が、最高潮に達した。音波が、市の脳を直接揺らす。意識が遠のいていく。しかし、その音の奥に、市は、微かな、しかし聞き覚えのある「音」が混じっていることに気づいた。

それは、師・源七爺さんが、かつて使っていた道具の音に似ている…!

「爺さん…?」

 市の意識が、闇の中に沈んでいく。影の組織の「絡繰り」は、想像以上に巧妙で、非道だった。このままでは、彼らの企みが実行されてしまう。

 蔵の中には、影の組織が仕掛けた「音絡繰り」の音と、緊迫した攻防の音が響き渡っている。そして、その奥からは、あの忌まわしい「歯車が回るような音」が、止まることなく響いていた。

 市は、意識が遠のきそうになりながらも、自身の五感を、この闇の中で蠢く「絡繰り」の音に集中させようとした。
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