『古民家カフェ月見草と、記憶を繋ぐ猫のレシピ』

月影 朔

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第1章:再生の序章

第3話:聞こえるはずのない声

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「はぁ……はぁ……」

 ボロ布を握りしめたまま、私はぜえぜえと肩で息をした。

 たった数時間、掃除をしただけなのに、全身の筋肉が悲鳴を上げている。
腕はだるく、腰は鉛のように重い。

 都会でパティシエ見習いをしていた頃は、こんな肉体労働とは無縁だった。

 ショーケースに並んだ完璧なケーキを眺め、どれだけ美しいデコレーションができるかばかりを考えていたのだ。

「こんなひどい状況で……
本当に再開できるのかな、このカフェ……」

 ポツリと、誰に聞かせるでもなく呟く。

 ――お前には才能がない。

 ――菓子作りで飯が食えるわけがない。

 過去の、父の冷たい言葉が、脳裏にこだまする。

 都会での失敗が、私の心に深く刻んだ傷が、じくじくと痛み出した。

 この場所だって、私が勝手に夢を見て、勝手に挫折して、逃げ帰ってきただけの場所じゃないか。

 祖母が大切に守ってきた「月見草」を、こんな私が再開できるはずがない。
そう思うと、胸の奥がちりりと焦げるような痛みに襲われた。

 膝から崩れ落ちるように床に座り込み、両手で顔を覆う。

「私に……
できるはず、ない……」

 途端、膝の上で丸まっていたはずの温かい塊が、フン、と鼻を鳴らした。

「やってみなければ分からないだろう」

 まるで人間のように、呆れた声が聞こえた――
はずだった。

 私はハッと顔を上げた。

 膝の上には、先ほどまで丸まっていたみたらしが、翠色の瞳で私を見上げていた。

 その口元が、わずかに動いたように見えた。

「……え? 
今、あんた……」

 心臓がドクンと大きく跳ねる。

 聞き間違い……? 
いや、そんなはずは。

 頭の中で、ぐるぐると疑問符が駆け巡る。
疲労と寝不足で、幻聴でも聞いたのだろうか。

 みたらしは、私の混乱をよそに、ゆっくりと立ち上がると、伸びをする。

 そして、しなやかな足取りで私の顔に近づき、鼻先を私の頬に、ツン、と押し付けた。
そのひんやりとした感触が、夢ではないことを告げているようだった。

「……ニャア」

 次にもう一度鳴いた声は、ただの猫の鳴き声だった。

 しかし、その翠色の瞳は、まるで「だから言っただろう」とでも言いたげに、私をじっと見つめていた。

「気のせい……
かな……」

 私は半信半疑のまま、みたらしの柔らかな毛並みをそっと撫でた。

 いや、気のせいじゃない。

 確かに聞こえたのだ。あの声が。
人間の、それも呆れたような、けれどどこか優しい声が。

 みたらしは、私の指に頭を擦り付けながら、再び私の膝の上に乗り、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。

 その重みと温かさが、私の心を少しだけ落ち着かせる。

 外はすっかり暗くなっていた。
窓の外では虫の声が響き、昼間とは違う静けさが店を包んでいる。

 私は、手にしていた祖母のレシピノートに目を落とした。

 表紙の『記憶のレシピ』という文字が、薄暗い店内でも、なぜか強く輝いているように見えた。

 このノートと、みたらし。

 訳が分からないことばかりだけれど、なぜか、彼らの存在が私を前へと押し出してくれるような気がした。

「……もうちょっとだけ、頑張ってみるか」

 独り言のように呟くと、膝の上のぬくもりが、小さく震えたような気がした。
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