『古民家カフェ月見草と、記憶を繋ぐ猫のレシピ』

月影 朔

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第1章:再生の序章

第9話:窓辺の常連客の涙

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 みたらしの言葉を受けてからの数日間、私は夢中でレモンパイを焼き続けた。

 焦げ付いたパイ生地の匂い、甘すぎたり酸っぱすぎたりするフィリング。
失敗作の山が、キッチンの片隅に積み上がっていく。

 けれど、以前のような焦燥感はなかった。

「思い出の味は、舌だけじゃ測れない。心が覚えているものだ」

 みたらしの言葉が、常に私の胸の中にあった。

 祖母のレシピノートに書かれた抽象的な言葉も、以前より明確な意味を持って、私の中に流れ込んでくるようだった。

「涙のしょっぱさを隠すくらい、甘酸っぱく」――
それは単なる味の表現じゃない。

 切なさや悲しみを包み込む、深い甘酸っぱさ。

「切ない記憶を包み込むように」――
パイ生地は、その記憶を優しく抱きしめるように、しっとりと、そしてホロホロと口の中でほどけるような食感が必要なのだ。

 一つ一つの失敗が、私に新たな気づきを与えてくれる。
祖母のレシピは、私に「考える」ことを促していたのだ。

 そして、七月二十二日。
その日は、梅雨の晴れ間が広がり、縁側には柔らかい日差しが差し込んでいた。

 みたらしは、いつものように私の膝の上で丸まり、すやすやと寝息を立てている。

 カラン、コロン――。

 店内に響く、懐かしいドアベルの音。

 顔を上げると、そこに藤堂さんが立っていた。

 前回と同じ、背筋の伸びた姿勢。
けれど、その横顔には、以前よりもどこか穏やかな光が宿っているように見えた。

「いらっしゃいませ……」

 私の声は、心なしか上ずった。

 藤堂さんは、何も言わずに、前回と同じ窓際の席に静かに腰を下ろした。
視線は、窓の外の木々へと向けられている。

 私は、息を深く吸い込んだ。

 試作を重ねたレモンパイは、まだ「完璧」とは言えないかもしれない。
けれど、これまでの私の「心」を込めた、精一杯のレモンパイだ。

「藤堂さん……
あの、前回おっしゃっていたレモンパイなんですが……」

 声が震えた。
都会での挫折が、また頭をよぎる。
完璧でないものを出すことへの恐怖。

 けれど、私は決めたのだ。

「まだ、試作の段階で、完璧ではないのですが……
もし、よろしければ……」

 藤堂さんは、ゆっくりと私に視線を向けた。
その目は、やはり何も語らない。

 けれど、かすかに頷いてくれたように見えた。

 私は、心を落ち着かせ、冷蔵庫から焼き上げたばかりのレモンパイを取り出した。

 焼きたての香りが、ふわりと漂う。温かさを保つため、温かいコンポートを添え、丁寧に皿に乗せる。

 薄くスライスしたレモンの輪切りと、ミントの葉を添え、彩りを加えた。

 彼のテーブルに、そっとレモンパイを置く。藤堂さんは、白い湯気を立てるパイを、じっと見つめていた。

 その視線には、期待とも諦めともつかない、複雑な感情が混じり合っているように見えた。

 やがて、彼はフォークを手に取り、ゆっくりと一口分のパイを切り分けた。
サクッ、と小気味よい音が、静かな店内に響く。

 その瞬間、私の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。

 藤堂さんは、目を閉じ、ゆっくりとパイを口に運んだ。
咀嚼する音は聞こえない。

 ただ、静かに、噛み締めるように食べている。

 私は、固唾を飲んで、彼の表情の変化を見守っていた。
けれど、やはり顔には何の感情も浮かばない。

 ただ、窓の外の青い空を、じっと見つめているだけだった。

 長い、沈黙。

 私が差し出したコーヒーやクッキーを口にした時と同じ、無表情。

 失敗だったのだろうか。
やっぱり、私のレモンパイでは、彼の求める「思い出の味」には程遠かったのか。

 胸の奥が、ちりちりと焦げるような痛みに襲われる。

 その時だった。

 藤堂さんの目尻から、一筋の雫が、静かに、しかし確かに流れ落ちた。

 それは、まるで透明な宝石のように、陽の光を受けてキラリと光り、彼の皺の刻まれた頬を伝い落ちていく。

 ――涙。

 私を、驚きが襲った。
感情をほとんど表に出さなかった彼が、今、涙を流している。

 もう一筋、また一筋と、涙が後を追うようにこぼれ落ちていく。
彼の背中は、微かに震えているように見えた。

 静かに、ただ静かに、彼は泣いているのだ。

 私は、呼吸するのも忘れ、ただ彼の涙を見つめていた。
何が、彼を泣かせているのだろう。

 私のレモンパイは、彼にどんな感情を呼び起こしたのだろう。

 やがて、藤堂さんはゆっくりと目を開き、大きく息を吐き出した。

 その目は、潤んでいた。

「……少し、違うが」

 震える声で、彼は絞り出した。
その声は、掠れて、今にも消え入りそうだった。

「…………温かい味だ」

 その言葉は、私の胸の奥深くに、まっすぐに突き刺さった。

 少し、違う。
それは、私が目指した「完璧な再現」ではなかった、という事実だ。

 けれど、「温かい味」。

 その一言が、私の心臓を強く、優しく鷲掴みにした。

 藤堂さんは、それ以上何も言わなかった。
ただ、もう一度、残りのパイをゆっくりと口に運び、静かに目を閉じた。

 彼の横顔には、深い悲しみと、そして微かな安堵のようなものが、複雑に混じり合って浮かんでいるように見えた。

 私は、ただそこに立ち尽くしていた。

「温かい味」

 その言葉が、私の心の中で、何度も反響する。

 完璧な味ではなかったかもしれない。
けれど、私の心を込めたレモンパイが、藤堂さんの心に、確かに届いたのだ。

 彼の流した涙が、それを物語っていた。

 胸の奥が、温かい何かで満たされていく。
それは、都会で挫折し、自信を失っていた私にとって、初めて得た、かけがえのない手応えだった。

 みたらしは、いつの間にか私の足元にすり寄ってきて、小さく「にゃあ」と鳴いた。

 その声が、まるで「よくやったな」とでも言っているように聞こえて、私は思わず、彼の柔らかな頭を撫でた。

 窓の外では、夏の光が、カフェの庭を明るく照らしていた。
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