『古民家カフェ月見草と、記憶を繋ぐ猫のレシピ』

月影 朔

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第2章:記憶のレシピと訪れる人々

第27話:色褪せたスケッチブックと、メープルの甘い香り

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 茂さんと千代子さんが帰られた後も、私はしばらく窓の外を眺めていた。

 夫婦の背中が、私の心に小さな波紋を広げたままだった。

 長年積み重ねられた関係の尊さ。

 そして、すれ違ってしまった時間を取り戻すことの難しさ。

 それらが、私の胸に重くのしかかり、ついには自分の家族へと想いを馳せてしまう。

 ――私と、両親の関係は、いつか、あの二人のようになれるのだろうか。

 そんな問いが、静かに、けれど確かな重みを持って、私の心に影を落とした。

 秋の雨が、しとしととカフェの屋根を叩き始めた午後。

 ブランデーケーキの甘い香りがまだ店内に微かに残る中、私はカウンターを拭いていた。

 カラン、と軽やかな音を立てて扉が開き、一人の青年が店内に飛び込んできた。

 傘から滴る雨粒を払う彼は、少し癖のある前髪を揺らし、濡れた肩を震わせている。

「すみません、雨宿りしてもいいですか?」

 彼の声は、控えめで、どこか自信なさげだった。

 私は「もちろんです」と微笑み、窓際の席を案内した。

 青年は、ゆっくりと席に着くと、テーブルの上に持っていたスケッチブックをそっと置いた。

 表紙は使い込まれていて、角は擦り切れ、ページの間からは色鉛筆の削りカスが覗いている。

 きっと、絵を描く人なのだろう。

 彼の指先には、微かに絵の具が残っていて、その爪の隙間にも、様々な色が混じり合っていた。

 彼の職業が、美術関係であることは、すぐに察しがついた。

 淹れたてのコーヒーと、サービスで焼きたてのクッキーを運んでいく。

「ありがとうございます……」

 彼は、顔を上げ、私にぎこちなく微笑んだ。

 その笑顔の奥に、私はかすかな疲労と、諦めの影を見た。

 彼の瞳は、何かを求めているようで、同時に、全てを諦めているかのような、複雑な色を宿していた。

 それは、まるで都会のパティスリーを辞めたばかりの頃の、私自身の目に似ている気がした。

 あの頃の私も、きっと、こんな風に、どこか虚ろな目をしていたのだろう。

 才能がない、向いていない、という言葉の棘が、まだ胸に深く刺さっていた日々。

 自分の夢を諦めるしかなかった、あの時の痛みが、蘇ってくるようだった。

 彼は、温かいコーヒーを一口飲むと、再びスケッチブックに目を落とした。

 私から見ても、その表紙の絵は、彼の内側にある情熱を確かに感じさせるものだった。

 躍動感のある線、繊細な色彩の組み合わせ。

 ただの趣味の絵ではない。

 彼の才能が、そこには確かにあった。

 しかし、その絵はどこか未完成で、描きかけのままだ。

 まるで、彼の人生そのものを表しているかのように。

「あの、もしかして、絵を描かれているんですか?」

 私は、思い切って尋ねてみた。

 青年は、一瞬、はっとしたように顔を上げ、少し慌てた様子でスケッチブックを閉じた。

「え、ええ。
まぁ、昔は……」

 彼の声が、言葉の途中で途切れる。

 そして、まるで自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。

「もう、才能ないんですよ」

 その言葉が、私の胸に、ずしりと重く突き刺さった。

 都会でパティシエの夢を諦めた、あの日の自分と重なる。

 才能がない。

 その一言が、どれほど人の心を深く抉るか、私は身をもって知っていた。

 彼の瞳の奥に、諦めと、それでも拭いきれない未練のようなものが、揺らめいていた。

 私は、彼の閉じたスケッチブックに、そっと視線を落とした。

 彼はきっと、私と同じように、かつて熱い夢を追いかけ、そして挫折を経験したのだろう。

「やれやれ。
人間というものは、すぐに諦めを口にする。
だが、本当にそうなのか」

 みたらしが、いつの間にか私の膝に飛び乗り、私の思考を見透かしたように、静かに喉を鳴らした。

 彼の言葉に、私は深く頷いた。

 そうだ、まだ諦めるのは早い。

 目の前の青年から、かつての自分と同じ匂いがする。

 彼に、何かできることはないだろうか。

 私は、そっとレシピノートに手を伸ばした。

 彼の疲れた心を癒し、失いかけた情熱に、もう一度火をつける。

 そんなお菓子が、祖母のレシピの中に、きっとあるはずだ。

 彼の閉ざされた心を解き放つような、そんな一皿を、私は作りたいと思った。
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